2026/9/12 ヴィオッティ×東響 モーツァルト「プラハ」 ― 2026年09月12日 17:12
東京交響楽団 モーツァルト・マチネ第66回
日時:2026年9月12日(土) 11:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演目:モーツァルト/交響曲第38番 ニ長調K.504
「プラハ」
シューベルト/交響曲第2番 変ロ長調D125
音楽監督ロレンツォ・ヴィオッティがモーツァルト・マチネに初登場し「プラハ」を振った。
「プラハ」は「フィガロの結婚」やピアノ協奏曲「第23番」「第25番」と同じモーツァルト30歳のとき。モーツァルトらしい軽快な浮遊感とバッハのような厳格な対位法が同時に存在する。メヌエットが欠けた全3楽章。
緊張感に満ちた序奏は複雑な転調を繰り返す。ドラマチックで威厳のある音楽はのちの「ドン・ジョバンニ」を予告する。ヴィオッティ×東響はゆったりとして深々とした音色でもってスタートする、弦楽器の弱音は美しく管楽器は優美に歌う。主部に入ると一転して軽快に駆けだすが、抑制された弦楽合奏に耳を奪われる。各楽器のそれぞれは独自に動き回り、それでいて一体感が崩れない驚くべき音楽が展開した。
緩徐楽章は抒情をたたえた穏やかな旋律だが、ときどきモーツァルトらしい半音階的な動きが影をさす。ここでも対位法が随所に用いられているけど、ヴィオッティ×東響の雰囲気はふんわりと柔らかく室内楽的な繊細さを失わない。
フィナーレは「フィガロ」の世界で、スザンナとケルビーノが逃げ惑う。焦りまくる二重唱のテーマと計算された各楽器な掛け合いがスピード感一杯で手に汗握る。ヴィオッティは東響の精緻なアンサンブルを土台に、表情を微細に切り替えて行く。その時々の表情の変化が全体の推進力へと結集する。最後は弦が細かく刻み、そのうえに管楽器が持続音を乗せ、オペラ的な興奮を伴いながらエネルギッシュに締め括った。
プログラムノートの表記では「プラハ」の予定演奏時間は26分となっていた。ところがヴィオッティの運びはたっぷりとふくやかで、そのうえ全楽章すべてのリピートを行ったことから、演奏時間はなんと40分。古楽器を経験したこの時代には珍しい耽美的ともいえる演奏だった。弱音の精妙さ、アタックの柔らかさ、急がないテンポ等々、この絶美のもとで「リンツ」を聴いてみたい。そして、ブルックナーを。
弦楽器奏者を増員しクラリネットが加わってシューベルトの「交響曲第2番」。
シューベルトが17歳か18歳のときの作品。やはり序奏がついており、その序奏はモーツァルトの「第39番」の開始にちょっと似ている。主部に入ると今度はベートーヴェンのごとく邁進して「エロイカ」の断片をふりまく。溌剌とした音楽ながら構造は複雑にして充実している。ヴィオッティ×東響は一転して早めのテンポで若さを爆発させる。けれど、弱音の繊細さを失うことなくシューベルトらしい転調を際立たせて前進する。リズムのキレがよく、生命力が横溢しているようだった。
アンダンテは変奏曲。金管と打楽器が沈黙し、弦と木管による室内楽的な沈静の音楽となる。ヴィオッティは変奏をきわめて丁寧に、うっとりとあるいは力強くそれぞれの表情を描いて行く。
メヌエットは重いリズムでスケルツォ風、トリオは木管たちが可憐なセレナードを奏でる。まるでソロ歌手たちがアンサンブルを楽しんでいるよう。ここでのヴィオッティは指揮をすることなく奏者任せ、両腕を組んで身体を揺らせていた。
フィナーレのヴィオッティは軽快で華やか、スピード感もたっぷり。木管はチャーミングでこの幸福感はビゼーの交響曲を先取りしている。コーダはベートーヴェンよりさっぱりしているけど、なかなか躍動的でアグレッシブな結末だった。
ヴィオッティはシューベルトについてもリピートを励行したが、演奏時間はプログラムノートでも実演でもほぼ30分。楽器編成の追加や、楽曲終了後の拍手喝采もあって普段1時間のモーツァルト・マチネが今日は大方1時間半、12時30分の終演だった。
ヴィオッティは2曲とも暗譜、指揮棒は持たず長い両手を使った。今の時代の奇をてらったちょっとバタバタとした演奏ではなく、どっしりと構えながら細部に目くばせをし、部分部分が全体に寄与するように微細な表情の変化を丁寧に重ねていく。必然的に弦楽器の美しさを引出し管楽器の上品な音色を求める。老練ともいえる指揮で、若いのにウィーン・フィルに愛されているというのも納得である。
東響はコンビを組んでまだ間もないヴィオッティとの契約を延長した。お互い魅かれ合うものがあるのだろう。今後の両者の演奏会が楽しみである。
東響の音楽監督ロレンツォ・ヴィオッティが任期を延長 ― 2026年09月11日 09:32
今年度から3年契約で東京交響楽団の音楽監督に就任したロレンツォ・ヴィオッティが、早くも任期を2034年3月まで延長し、少なくとも8年のあいだ東響の音楽監督を務めることになった。
もともと東響の音楽監督は、歴代の秋山和義、ユベール・スダーン、ジョナサン・ノットのそれぞれが10年ないし10年以上の長期政権であり、これがいわば東響の伝統だから驚くにはあたらないけど、正直なところヴィオッティの音楽監督は短期で終わるのではないかと危惧していた。
ヴィオッティは2028年8月よりチューリッヒ歌劇場の音楽総監督に就任することが決まっている。一級のオーケストラや歌劇場からも引く手あまた。一方で、前任のオランダ国立歌劇場は家庭を大切にしたいという理由で任期延長の要請を断っている。年齢的にいえば音楽家のキャリアを築くに重要な時期であって、極東の地で長く監督を引き受けるのは難しいのではないかと思っていた。
しかし、東響の音楽監督については任期延長を果敢に決断してくれた。本人が言うように東響との相性には手応えを感じているのだろう。また、聴衆の熱狂も後押しをしたに違いない。この先、両者の音楽をどれほど聴けるか分からないが、監督延長の決定を率直に悦びたい。
https://tokyosymphony.jp/news/61878/
2026/8/23 ブリューズ×東響 ベルリオーズ「幻想交響曲」 ― 2026年08月23日 21:43
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第106回
日時:2026年8月23日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ピエール・ブリューズ
共演:ピアノ/角野 隼斗
演目:角野 隼斗/ピアノとオーケストラのための「無我」
カプースチン/ピアノ協奏曲第4番 op.56
ベルリオーズ/「幻想交響曲」 op.14
ピエール・ブリューズは東響とは2度目の共演らしいが初めて聴く。ピエール・ブーレーズと名前がちょっと似ていて紛らわしいが、そのブーレーズが設立したアンサンブル・アンタルコンタンポランの現音楽監督。
ソリストの角野隼斗は人気のピアニスト兼作曲家、とうぜん完売公演となった。
最初は角野自身の新作「無我」から。10分程度の小品で世界初演。
特徴的なリズムが全曲を通し絶え間なく脈動する。川の流れや森のざわめきなどにも聴こえる。あいだにはいかにも日本的な抒情が紛れ込む。角野はブリューズの振る軽快なオケとともに躍動した。
続いて、カプースチンの「ピアノ協奏曲第4番」。オケの編成が変則で、10-8-6-4-3の小ぶりの弦5部とフルート、オーボエ、クラリネットの木管が各1本、それにティンパニとドラムセット。
楽曲はクラシック音楽というよりはジャズそのもの。オケはビッグバンドのようでピアノは即興演奏風。もちろん即興ではなくてカプースチンによって楽譜に書き込まれているのだろうけど、角野は洒脱にまるで音と戯れるごとく弾いた。終盤、カデンツァのあと長大なコーダに突入し、ピアノ、オケともテンションを高めていき興奮させてくれた。
カプースチンはウクライナ出身、モスクワ音楽院で学び、ピアノ曲を中心に200曲近い作品を書き(ピアノ協奏曲は全6曲)、2020年に亡くなっている。ショスタコーヴィチも「ジャズ組曲」などを書いているが、この作品、とても旧ソ連を生きてきた作家のものとは思えない。
演奏後、会場の1階、2階では何人かのおば様方がスタンディングオベーション、角野を熱烈に追っかけているご婦人たちがいたようだ。
後半はベルリオーズの「幻想交響曲」。弦は16型に拡大し、第2楽章「舞踏会」で使われるハープ2台は舞台の最前列、指揮者の左右に位置した。
ブリューズは顔の下半分がヒゲに覆われ、一見すると格闘技の選手のよう。前半の協奏曲は軽妙に自由度高くオケをコントロールしていたが、「幻想交響曲」では外見通り、ねっとりと濃い演奏を繰り広げた。
たっぷり目のテンポで微に入り細を穿つように各声部にスポットをあて、ベルリーオーズの革新的な音響や音色をあぶりだした。テンポの揺らぎや強弱のアクセント、緩急を巧みに使いながらアイデアを一杯詰め込んだ演奏だった。やはりアンサンブル・アンタルコンタンポランの音楽監督は伊達じゃない。
東響もブリューズの要求に応え、柔らかで分厚い弦と透明で美しい木管、豊かな音量の金管、瞬発力のある打楽器でもって解像度の高い立体的な音楽をつくりあげた。
東響の「幻想交響曲」といえば過去にダン・エッティンガーやロベルト・アバド、川瀬賢太郎などの忘れられない演奏が幾つかあるが、このブリューズ×東響も「幻想交響曲」の名演録に記載されることになりそうだ。
2026/5/23 ヴィオッティ×東響 「4つの最後の歌」と「ダフニスとクロエ」 ― 2026年05月23日 21:48
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第105回
日時:2026年5月23日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
共演:ソプラノ/マリーナ・レベカ
合唱/東響コーラス
合唱指揮/河原 哲也
演目:R.シュトラウス/4つの最後の歌
ラヴェル/バレエ音楽「ダフニスとクロエ」
「4つの最後の歌」は、はじめから4曲をまとめる構想があったのかどうか分からない。アイヒェンドルフの「夕映えの中で」という詩に特別の心情をいだき、ヘッセの3つの詩、「春」「九月」「眠りにつくとき」が加わった。
マリーナ・レベカは芯のある強靭な声、音圧は高く各音域とも充実した声量で輝かしい。リート歌手というよりは典型的なオペラ歌手だろう。身振り手振りも大きく立ち居振る舞いからして歌劇場の華という雰囲気がある。ヴィオレッタ役で有名なソプラノらしいがワーグナーも楽々とこなせそう。
1曲目、ヴィオッティは弱音に拘り、暗から明、明から暗へ転調を繰返しながら揺れ動く「春」を描く。「春」は楽器より声が勝ったような印象だったが、2曲目以降は互いがしっとりと馴染んで聴こえた。「九月」の終盤、ホルンの上間さんのソロに陶然とする。「眠りにつくとき」は小林壱成のソロと、さらにホルンとの掛け合いなどもあり、それらの楽器を掻き分けて聴こえてくるレベカの歌に涙した。「夕映えの中で」になるとフルートとピッコロの鳥が鳴き、管弦楽と歌とが重なった景色の美しさに正気を失った。
とうの昔にクラシック音楽は終わってしまっているのだけれど、その終焉を象徴する楽曲は何か、と問われたら、それはR.シュトラウスの「4つの最後の歌」と答えるだろう、純然たる器楽曲であれば「メタモルフォーゼン」と。
もちろん、そのあと、ロシアにはショスタコーヴィチ、フランスにメシアン、イギリスにブリテンがいて、「交響曲第15番」、「彼方の閃光」、「戦争レクイエム」などが生み出された。でも、これらはみな独墺音楽の残影ともいうべき作品だ。
クラシック音楽は第1次世界大戦によって破壊された。R.シュトラウスが第2次世界大戦後まで生き延びたため命を長らえたに過ぎない。そして、R.シュトラウスは挽歌と呼ぶに相応しい2つの作品を残した。独墺音楽の美は遂にここまで到達していた。
「ダフニスとクロエ」の実演は、不案内なバレエ公演を別として、コンサートの演目としてはほとんどが「第2組曲」で、全曲にはなかなか出会えない。演奏するに1時間近くかかるし、ありとあらゆる楽器を揃えなければならない、合唱も必要だから無理もない。直近では2年ほど前にカンブルラン×音大FOで聴いた。
ヴィオッティ×東響の「ダフニスとクロエ」は、音の解像度が高くリズムは卓越し、豊かな色彩をもち柔らかな音色だった。ヴィオッティはノットのような即興の面白味はないが、綿密な設計による構成力が尋常ではない。多分、練習では強弱や緩急、音色やバランスを緻密に計算し、オケに高い要求水準を課すのだろうけど、本番では力の限り締め付けるわけではない。今日も奏者任せで指揮棒を振らないことが何度かあったけど、設計図はもちろん手放さない。場面ごとの雰囲気や各楽器の持ち味を大切にして正統派の音楽を繰り出す。指揮ぶりは老練と言っていいほどだ。
「序奏」から「宗教的な踊り」にかけての神秘性、「ドルコンの踊り」の不気味さ、「夜想曲」の色気、「戦いの踊り」の野趣あふれる響き。そして3場に入ってからは「夜明け」における細やかな表現、「パントマイム」の精妙さ、「全員の踊り」の鮮烈なリズムと加速感などなど、大興奮の演奏だった
ヴィオッティは軽快でしゃれた楽曲であっても、いい意味で時間がゆっくりと過ぎて行く。品があり繊細だけど音楽がみっちり詰まっているから演奏後の疲労度は大きい。
とにかく、この先ヴィオッティの指揮を楽しみに期待はしつつ、聴き続けるだけの体力を維持できるかどうかが心配の種である。
2026/5/17 ヴィオッティ×東響 ベートーヴェンとマーラーの「交響曲第1番」 ― 2026年05月17日 21:47
東京交響楽団 名曲全集 第217回
日時:2026年5月17日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演目:ベートーヴェン/交響曲第1番 ハ長調op.21
マーラー/交響曲第1番 ニ長調「巨人」
昨日の定期公演(サントリーホール)が新監督ヴィオッティとして初の演奏会であり、今日、同一プログラムを名曲全集でも取り上げた。ヴィオッティはこのあと川崎定期と特別演奏会でR.シュトラウスとラヴェルを披露する。これらが就任公演ということになろうか。
数年前、ノットの監督退任がそれとなく話題になっていたころ、後任の本命はヴィオッティかウルバンスキだろうと予想していたが、丁度その時期にヴィオッティに関するニュースがあった。首席指揮者を務めていたオランダ国立歌劇場(及びオランダ・フィルハーモニー管弦楽団)との契約を更新しない、その理由が「私生活と発展を優先させる」というものだった。
「私生活を優先させる」…となればスイス―オランダよりスイス―日本のほうが遥かに遠い。これでヴィオッティの東響監督就任は難しくなった。ウルバンスキが俄然有力となり、ダークホースとしてマリオッティかオラモもありうるのではないかと思った。
そうこうするうちに2024年の夏、突然、ロレンツォ・ヴィオッティが東響の次期音楽監督に就任するとの発表があった。就任のいきさつは徐々に明らかになるだろうが、オランダを退任する理由のなかの「発展を優先させる」との言葉を見落としていたようだ。もし“発展”のひとつの具体化が東響であるとするならこんな嬉しいことはない。
ヴィオッティの東響デビューは10数年前のウルバンスキの代役で、これが彼のプロ指揮者としてのデビューでもあった。2014年のこの演奏会は知らないが2019年のヴェルディ「レクイエム」は聴いた。腰が抜けるほどの衝撃だった。その後のドヴォルザークとブラームス、二つの英雄など、これはいよいよ只者ではないと確信した。
さて、その新音楽監督の第一声はベートーヴェンの「交響曲第1番」である。ベートーヴェンもブラームスほどではないにせよ最初の交響曲には苦労した。30歳くらいになってようやく交響曲は完成した。
ヴィオッティのベートーヴェンは解像度が高くキレのある素晴らしい演奏だった。開始楽章はひねりの効いた序奏からはじまり、主題の登場まで時間をかけ焦らしに焦らす。その後は溌剌として明快、全体的に弦よりも管を目立たせ木管楽器同士の対話を強調する。福井さんのファゴットの小刻みな動きもユーモラスだ。第2楽章はワルツ風の優美で可憐なカンタービレ、終盤のオーボエ荒さんとホルン上間さんのデュエットが美しい。メヌエットはもうスケルツォと呼んでいいほど、軽快にして大胆に音を散らす。柔らかな印象はなくユーモラス、大袈裟に鳴らされるバロックティンパニも楽しい。アタッカで最終楽章へ。スローテンポから徐々にスピードを上げスリル満点。東響のパワーが全開となりワクワクする。山響から東響に移籍した知久翔のフルートも美しい。終結はベートーヴェン節が炸裂し豊かな響きで大団円となった。
コンマスは景山昌太郎、弦の並びはノットの時と違い第1ヴァイオリンの隣に第2、中央にヴィオラ、舞台上手にチェロを置き、その後ろがコントラバスだった。
「交響曲第1番」に関してはマーラーとしても難産となった。調べてみると、20代の半ばから4年ほどかけて作曲され、初演は1889年ブタペストで行われた。その時は「2部からなる交響詩」と呼ばれ全5楽章で標題はなかった。その後、大小の改訂がたびたび行われ、最終稿まで10年ほどかかっている。まずはハンブルク稿で「交響曲形式の交響詩 巨人」と標題が付され楽章には副題をつけた。次いでがワイマール稿、楽曲構成は変わらないが副題が拡充され、楽器編成がハンブルク稿の3管から4管へと拡大された。続いてベルリン初演において初めて交響曲として改訂する。第2楽章の「花の章」が削除され全4楽章となり、標題も各楽章の副題も取り払われた。そして、最終稿はベルリン初演のあと1906年から1907年にかけ改訂され、ティンパニを2セットとするなど楽器編成の見直しも行われ、これが現在の演奏の標準形となっているようだ。
ヴィオッティは弦楽器のフラジオレットを極度の弱音で開始した。だから、否応なしに木管群の鳥の声が耳に残る。ちょっと極端すぎるのではないかと訝ったが、これが終楽章への伏線だった。レントラーは前楽章とは反対に弦楽器を思う存分鳴らした。コントラバスによる葬送行進曲は最初のテンポを与えたあと民謡風の旋律が現れるまで指揮棒を振ることはなかった。そのせいもあって聴き手はえらく緊張した、これは反則技だ。終楽章の激情は開始楽章の再現との対比で凄まじいクライマックスとなった。見事な演奏を聴いたというより得体の知れないとてつもないものに出会ったという感想だった。ヴェルディの「レクイエム」を聴いた時と同様の感触が蘇ってきた。
ヴィオッティはたんに才能のある優秀な指揮者というより、ある種の狂気を孕んだような感性と天賦の才とを合わせ持った若者である。彼の音楽を聴いていると、通り慣れた道であっても知らないところへ連れて行かれるような恐れと不安を感じるときがあった。音楽の密度は濃く個性的、戸惑う人もいるはずで賛否両論が喧しくなるだろう。
この先、老人が追いかけるべき指揮者かどうか自信がない。よほど体力を温存しておかないと耐えられない気がする。ショスタコーヴィチの交響曲などはどうなってしまうのだろう。とりあえずは怖いものみたさで期待をしておこう。
ヴィオッティは2028年からノセダの後任としてチューリッヒ歌劇場の音楽総監督に就任する。東響の音楽監督は秋山、スダーン、ノット、ヴィオッティと受け継がれてきた。東響事務局と楽団員の驚くべき慧眼にただただ敬服するばかりである。