2026/5/23 ヴィオッティ×東響 「4つの最後の歌」と「ダフニスとクロエ」 ― 2026年05月23日 21:48
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第105回
日時:2026年5月23日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
共演:ソプラノ/マリーナ・レベカ
合唱/東響コーラス
合唱指揮/河原 哲也
演目:R.シュトラウス/4つの最後の歌
ラヴェル/バレエ音楽「ダフニスとクロエ」
「4つの最後の歌」は、はじめから4曲をまとめる構想があったのかどうか分からない。アイヒェンドルフの「夕映えの中で」という詩に特別の心情をいだき、ヘッセの3つの詩、「春」「九月」「眠りにつくとき」が加わった。
マリーナ・レベカは芯のある強靭な声、音圧は高く各音域とも充実した声量で輝かしい。リート歌手というよりは典型的なオペラ歌手だろう。身振り手振りも大きく立ち居振る舞いからして歌劇場の華という雰囲気がある。ヴィオレッタ役で有名なソプラノらしいがワーグナーも楽々とこなせそう。
1曲目、ヴィオッティは弱音に拘り、暗から明、明から暗へ転調を繰返しながら揺れ動く「春」を描く。「春」は楽器より声が勝ったような印象だったが、2曲目以降は互いがしっとりと馴染んで聴こえた。「九月」の終盤、ホルンの上間さんのソロに陶然とする。「眠りにつくとき」は小林壱成のソロと、さらにホルンとの掛け合いなどもあり、それらの楽器を掻き分けて聴こえてくるレベカの歌に涙した。「夕映えの中で」になるとフルートとピッコロの鳥が鳴き、管弦楽と歌とが重なった景色の美しさに正気を失った。
とうの昔にクラシック音楽は終わってしまっているのだけれど、その終焉を象徴する楽曲は何か、と問われたら、それはR.シュトラウスの「4つの最後の歌」と答えるだろう、純然たる器楽曲であれば「メタモルフォーゼン」と。
もちろん、そのあと、ロシアにはショスタコーヴィチ、フランスにメシアン、イギリスにブリテンがいて、「交響曲第15番」、「彼方の閃光」、「戦争レクイエム」などが生み出された。でも、これらはみな独墺音楽の残影ともいうべき作品だ。
クラシック音楽は第1次世界大戦によって破壊された。R.シュトラウスが第2次世界大戦後まで生き延びたため命を長らえたに過ぎない。そして、R.シュトラウスは挽歌と呼ぶに相応しい2つの作品を残した。独墺音楽の美は遂にここまで到達していた。
「ダフニスとクロエ」の実演は、不案内なバレエ公演を別として、コンサートの演目としてはほとんどが「第2組曲」で、全曲にはなかなか出会えない。演奏するに1時間近くかかるし、ありとあらゆる楽器を揃えなければならない、合唱も必要だから無理もない。直近では2年ほど前にカンブルラン×音大FOで聴いた。
ヴィオッティ×東響の「ダフニスとクロエ」は、音の解像度が高くリズムは卓越し、豊かな色彩をもち柔らかな音色だった。ヴィオッティはノットのような即興の面白味はないが、綿密な設計による構成力が尋常ではない。多分、練習では強弱や緩急、音色やバランスを緻密に計算し、オケに高い要求水準を課すのだろうけど、本番では力の限り締め付けるわけではない。今日も奏者任せで指揮棒を振らないことが何度かあったけど、設計図はもちろん手放さない。場面ごとの雰囲気や各楽器の持ち味を大切にして正統派の音楽を繰り出す。指揮ぶりは老練と言っていいほどだ。
「序奏」から「宗教的な踊り」にかけての神秘性、「ドルコンの踊り」の不気味さ、「夜想曲」の色気、「戦いの踊り」の野趣あふれる響き。そして3場に入ってからは「夜明け」における細やかな表現、「パントマイム」の精妙さ、「全員の踊り」の鮮烈なリズムと加速感などなど、大興奮の演奏だった
ヴィオッティは軽快でしゃれた楽曲であっても、いい意味で時間がゆっくりと過ぎて行く。品があり繊細だけど音楽がみっちり詰まっているから演奏後の疲労度は大きい。
とにかく、この先ヴィオッティの指揮を楽しみに期待はしつつ、聴き続けるだけの体力を維持できるかどうかが心配の種である。
2026/5/17 ヴィオッティ×東響 ベートーヴェンとマーラーの「交響曲第1番」 ― 2026年05月17日 21:47
東京交響楽団 名曲全集 第217回
日時:2026年5月17日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演目:ベートーヴェン/交響曲第1番 ハ長調op.21
マーラー/交響曲第1番 ニ長調「巨人」
昨日の定期公演(サントリーホール)が新監督ヴィオッティとして初の演奏会であり、今日、同一プログラムを名曲全集でも取り上げた。ヴィオッティはこのあと川崎定期と特別演奏会でR.シュトラウスとラヴェルを披露する。これらが就任公演ということになろうか。
数年前、ノットの監督退任がそれとなく話題になっていたころ、後任の本命はヴィオッティかウルバンスキだろうと予想していたが、丁度その時期にヴィオッティに関するニュースがあった。首席指揮者を務めていたオランダ国立歌劇場(及びオランダ・フィルハーモニー管弦楽団)との契約を更新しない、その理由が「私生活と発展を優先させる」というものだった。
「私生活を優先させる」…となればスイス―オランダよりスイス―日本のほうが遥かに遠い。これでヴィオッティの東響監督就任は難しくなった。ウルバンスキが俄然有力となり、ダークホースとしてマリオッティかオラモもありうるのではないかと思った。
そうこうするうちに2024年の夏、突然、ロレンツォ・ヴィオッティが東響の次期音楽監督に就任するとの発表があった。就任のいきさつは徐々に明らかになるだろうが、オランダを退任する理由のなかの「発展を優先させる」との言葉を見落としていたようだ。もし“発展”のひとつの具体化が東響であるとするならこんな嬉しいことはない。
ヴィオッティの東響デビューは10数年前のウルバンスキの代役で、これが彼のプロ指揮者としてのデビューでもあった。2014年のこの演奏会は知らないが2019年のヴェルディ「レクイエム」は聴いた。腰が抜けるほどの衝撃だった。その後のドヴォルザークとブラームス、二つの英雄など、これはいよいよ只者ではないと確信した。
さて、その新音楽監督の第一声はベートーヴェンの「交響曲第1番」である。ベートーヴェンもブラームスほどではないにせよ最初の交響曲には苦労した。30歳くらいになってようやく交響曲は完成した。
ヴィオッティのベートーヴェンは解像度が高くキレのある素晴らしい演奏だった。開始楽章はひねりの効いた序奏からはじまり、主題の登場まで時間をかけ焦らしに焦らす。その後は溌剌として明快、全体的に弦よりも管を目立たせ木管楽器同士の対話を強調する。福井さんのファゴットの小刻みな動きもユーモラスだ。第2楽章はワルツ風の優美で可憐なカンタービレ、終盤のオーボエ荒さんとホルン上間さんのデュエットが美しい。メヌエットはもうスケルツォと呼んでいいほど、軽快にして大胆に音を散らす。柔らかな印象はなくユーモラス、大袈裟に鳴らされるバロックティンパニも楽しい。アタッカで最終楽章へ。スローテンポから徐々にスピードを上げスリル満点。東響のパワーが全開となりワクワクする。山響から東響に移籍した知久翔のフルートも美しい。終結はベートーヴェン節が炸裂し豊かな響きで大団円となった。
コンマスは景山昌太郎、弦の並びはノットの時と違い第1ヴァイオリンの隣に第2、中央にヴィオラ、舞台上手にチェロを置き、その後ろがコントラバスだった。
「交響曲第1番」に関してはマーラーとしても難産となった。調べてみると、20代の半ばから4年ほどかけて作曲され、初演は1889年ブタペストで行われた。その時は「2部からなる交響詩」と呼ばれ全5楽章で標題はなかった。その後、大小の改訂がたびたび行われ、最終稿まで10年ほどかかっている。まずはハンブルク稿で「交響曲形式の交響詩 巨人」と標題が付され楽章には副題をつけた。次いでがワイマール稿、楽曲構成は変わらないが副題が拡充され、楽器編成がハンブルク稿の3管から4管へと拡大された。続いてベルリン初演において初めて交響曲として改訂する。第2楽章の「花の章」が削除され全4楽章となり、標題も各楽章の副題も取り払われた。そして、最終稿はベルリン初演のあと1906年から1907年にかけ改訂され、ティンパニを2セットとするなど楽器編成の見直しも行われ、これが現在の演奏の標準形となっているようだ。
ヴィオッティは弦楽器のフラジオレットを極度の弱音で開始した。だから、否応なしに木管群の鳥の声が耳に残る。ちょっと極端すぎるのではないかと訝ったが、これが終楽章への伏線だった。レントラーは前楽章とは反対に弦楽器を思う存分鳴らした。コントラバスによる葬送行進曲は最初のテンポを与えたあと民謡風の旋律が現れるまで指揮棒を振ることはなかった。そのせいもあって聴き手はえらく緊張した、これは反則技だ。終楽章の激情は開始楽章の再現との対比で凄まじいクライマックスとなった。見事な演奏を聴いたというより得体の知れないとてつもないものに出会ったという感想だった。ヴェルディの「レクイエム」を聴いた時と同様の感触が蘇ってきた。
ヴィオッティはたんに才能のある優秀な指揮者というより、ある種の狂気を孕んだような感性と天賦の才とを合わせ持った若者である。彼の音楽を聴いていると、通り慣れた道であっても知らないところへ連れて行かれるような恐れと不安を感じるときがあった。音楽の密度は濃く個性的、戸惑う人もいるはずで賛否両論が喧しくなるだろう。
この先、老人が追いかけるべき指揮者かどうか自信がない。よほど体力を温存しておかないと耐えられない気がする。ショスタコーヴィチの交響曲などはどうなってしまうのだろう。とりあえずは怖いものみたさで期待をしておこう。
ヴィオッティは2028年からノセダの後任としてチューリッヒ歌劇場の音楽総監督に就任する。東響の音楽監督は秋山、スダーン、ノット、ヴィオッティと受け継がれてきた。東響事務局と楽団員の驚くべき慧眼にただただ敬服するばかりである。
2026/5/2 鈴木秀美×東響 モーツァルト「交響曲第33番」 ― 2026年05月02日 15:36
東京交響楽団 モーツァルト・マチネ第65回
日時:2026年5月2日(土) 11:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:鈴木 秀美
共演:ヴァイオリン/石上 真由子
演目:行進曲 ニ長調K.249
セレナード第7番 ニ長調K.250
「ハフナー・セレナード」第1楽章
ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調K.207
交響曲第33番 変ロ長調K.319
何年ぶりかでモーツァルト・マチネに復帰、シーズン連続券を購入した。来年3月の下野竜也による「グラン・パルティータ」が第一の狙いだが、10月には太田弦の「ハフナー」、次回9月にはヴィオッティの「プラハ」が用意されている。そして今日、鈴木秀美が佳品「交響曲第33番」を振る。
モーツァルトは23歳のとき、尾羽打ち枯らし失意のなかザルツブルクに帰郷した。なのに、この年の作品は「戴冠式ミサ」「ポストホルン」「ディヴェルティメント第17番」「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」…この「交響曲第33番」も。あの気難しいカルロス・クライバーが「リンツ」とともにレパートリーにしていた曲である。
コンサートの開始は「ハフナー・セレナード」の演奏者入場のための雄大なマーチから。そのまま「ハフナー・セレナード」の第1楽章へ。モーツァルトはこのとき20歳、ザルツブルクの名門ハフナー家の令嬢の婚礼のために音楽を書いた。
東響はチューニングをしないまま立奏、ノンヴィブラート。鈴木秀美は精力的なリズムの序奏から音階を上下行するテーマを切れ味良くさばく。はじけるような祝祭的なリズムと音符が好ましい。颯爽とした華やかな世界が出現するなかで抒情が見え隠れする。全曲聴きたいところだけど1時間近くもかかるからここは我慢しなければならない。
「ヴァイオリン協奏曲第1番」ではトランペットとファゴットが舞台から下がり、管はオーボエとホルンのみ。オケは着席した。ソロの石上真由子は春らしくロングドレスではなく浅葱色の膝が隠れるほどの衣装で登場した。
「第1番」はモーツァルトが17歳のとき、「小ト短調交響曲」の年であり、他のヴァイオリン協奏曲群に数年先行している。にぎやかで愉快な開始楽章から悲哀を隠したアダージョを経てフィナーレは速足の行進曲風。技巧的にはそんなに難しい作品ではないと思うが、だからこそ逆に、聴き手を納得させるのは難しいはず。
石上は細身の音ながら柔らかく伸びやかで温かみのある音、ガット弦だったかもしれない。彼女のモーツァルトはテクニックや華やかさだけでなく、思慮深く豊かな感受性が備わっていて、演奏途中、協演する管弦楽の奏者たちと何度か微笑みあっていた。
「交響曲第33番」はザルツブルク最終期のシンフォニーであり、もともとはイタリア風の3楽章構成で、メヌエットはウィーンに移住してから付け足したという。
始まりは3拍子の軽快なリズムのなかヴァイオリンとヴィオラがスタッカートで躍動しつつ駆けだす。鈴木×東響はくっきりと輪郭を描き、繊細な強弱の対比によって明るい空気をつくりだす。ときどきモーツァルトらしい翳りも。アンダンテは室内楽を思わせる伸びやかな主題にはじまり、ニキティンと吉江美桜を中心とした弦が主体となって細やかな表情をみせる。荒木良太の切ないオーボエも心に沁みる。メヌエットでは幅広い音域を力強く行き来し、トリオにおいて木管を牧歌的に歌わせた。ベートーヴェンが「交響曲第8番」のモデルにしたといわれているフィナーレでは、跳躍する3連符を土台に変化に富んだフレーズを繰り出し、木管の合奏がふざけているよう。コーダは宴を突然閉じるようにして終結させた。
それにしても「交響曲第33番」の編成はオーボエとファゴット、ホルンが各2本のみ、ティンパニも用いない小さなものであるけれど何という充実した音楽だろう。モーツァルトはウィーンを拠点にして、この「第33番」に手を加え「ハフナー」「リンツ」「プラハ」を書き継いでいく。
久しぶりにミューザで聴く東響のモーツァルトに心を奪われた。ミューザの響き、東響のサウンド、アットホームな雰囲気など、至福の昼のひとときを過ごした。「ハフナー」「プラハ」「グラン・パルティータ」など、この先のモーツァルト・マチネが楽しみでならない。
2026/4/25 カサド×東響 ブルックナー「交響曲第6番」 ― 2026年04月25日 21:03
東京交響楽団 名曲全集 第216回
日時:2026年4月25日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:パブロ・エラス=カサド
演目:シューベルト/交響曲第7番 ロ短調D759
「未完成」
ブルックナー/交響曲第6番 イ長調WAB106
名曲全集のシーズン開始である。前・後期各5公演のうちそれぞれ2公演ほどを聴く予定。前期はこのカサドと来月のヴィオッティを予定している。なお、今日のプログラムは明日のサントリーホールにおける定期演奏会と同じ演目である。
パブロ・エラス=カサドはスペイン出身、古楽から現代音楽まで幅広いレパートリーを誇る。最近ではバイロイト音楽祭へのデビューが話題になった。ピリオド楽器によるシューベルトやブルックナーの録音も好評のようである。日本ではもっぱらN響を指揮しているが今まで聴いたことはない。
前半は「未完成」、シューベルト25歳のときの作品、なぜ2楽章までしか書かなかったのか諸説あって分からない。25歳といえばまだ若いがシューベルトの命はこのあと6年しか残っていない。
開始楽章はチェロとコントラバスによる動機で始まり、ヴァイオリンのさざ波に乗ったオーボエとクラリネットが物悲しい主題を提示する。束の間の高揚を経て気分を持ち直すようにチェロが朗々と歌う。カサド×東響はチェロとコントラバスとでしっかりと土台を固めたが弦楽器群は疾走感が目立ち、トロンボーンをはじめとする金管群は猛々しい。この音楽の底知れない感情を捉えるには少々エキセントリックだった。第2楽章はコントラバスのピチカートではじまり、まるで天上を仰ぎ見るようなヴァイオリンの旋律が奏でられる。転調の妙味、明るさのなかに憂いを垣間みせる。東響の木管の美しさが際立つ。カサドと奏者たちは魅力的な音色を聴かせたものの、音楽にこめられた相反する感情が思いのほか伝わって来なかった。
後半はブルックナーの「交響曲第6番」。前作の「第5番」は交響曲としての集大成ともいうべき大曲であり、「第7番」以降は後期の傑作群で、その間に挟まれたこの「第6番」は昔からブルックナーらしくない、などと散々の言われようだった。しかし、ブルックナーにしては全休止が少なく音楽はスムーズに流れる。リズムは軽快で繰返しも多いから現代のミニマル・ミュージックと似てなくもない。
ブルックナーといえば壮大なトゥッティの迫力が魅力であることは間違いないが、実は柔らかな音色と微妙なニュアンスの弱音を生み出す達人でもあった。カサドは終始テンションが高く個性的な彩りはあったけど、ブルックナーの繊細さや清々しいほどの優雅さ、情景のかすかな操作など演奏の奥行きを深めるための味付けが十分とはいえなかった。
モダン楽器でも「歴史的知識に基づく演奏法(HIP)」を念頭において指揮をするというカサドが、シューベルトとブルックナーをどう料理するのか興味があったけど期待外れ。表現の振幅が大きくアグレッシブで強度だけが目立ってしまった。極端なコントラストに隠され複雑な諧調が読み取れない。シューベルトもブルックナーもそれぞれの音楽の機微が損なわれてしまったように思う。残念な演奏会だった。
2026/3/14 藤岡幸夫×東響 THE協奏曲 ― 2026年03月14日 21:54
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第104回
日時:2026年3月14日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:藤岡 幸夫
共演:ヴァイオリン/若尾 圭良
チェロ/佐藤 晴真
ピアノ/福間 洸太朗
演目:プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調
ドヴォルザーク/チェロ協奏曲 ロ短調
サン=サーンス/ピアノ協奏曲第5番 ヘ長調
「エジプト風」
オーケストラの定期演奏会で協奏曲だけを並べるのは珍しい。
最初は若尾圭良のソロでプロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」。若尾はボストン生まれの20歳、父親がボストン交響楽団のオーボエ奏者だという。
プロコフィエフは長い亡命生活のあと祖国に戻ると決めた頃に「第2番」を書いた。ロシアから亡命する直前の「第1番」より演奏機会は多く、過去にはベルキンのさりげない自然体の素敵な演奏があった。
曲は急―緩―急の古典的な3楽章構成。第1楽章は哀愁を帯びた歌謡風というか民謡風の旋律。若尾は音程に揺るぎがなくシャープで瑞々しい。第2楽章は弦楽器のピツィカートの上を、独奏ヴァイオリンが抒情的なメロディを奏でる。若尾の高音域は魅力的で素直な節回しが好ましい。第3楽章はカスタネットが加わり、打楽器がリズムを刻み、独奏ヴァイオリンが華やかに盛り上げる。藤岡幸夫のサポートはそつがなく若尾は伸び伸びと弾いていた。ソリストが指揮者に寄り添い過ぎかとも思ったけど、かえってそれが初々しくて好感度が爆上がりとなった。
2曲目は「ドボコン」、ドヴォルザークのアメリカ時代における置き土産とも言うべき名曲。ソロはミュンヘン国際音楽コンクールの覇者である佐藤晴真。「チェロ協奏曲」において最も著名なこの作品はいつ聴いても楽しませてくれるけど、今日はそのなかでも最高級の出来ばえ。佐藤のソロは鷹揚でありながら繊細、東響の木管首席たちと絡む幾多の場面は至福のひと時だった。
第1楽章、佐藤は大きな起伏と切ないチェロの響を交錯させ堂々たる音楽をつくった。第2楽章はクラリネットのヌヴーとの掛け合いが聴かせる。中間部はオーケストラの強奏で突然表情が変わり、佐藤はほの暗い主題を纏綿と歌う。コーダを前にしたカデンツァは完璧な変奏で泣かせる。第3楽章は行進曲風な歩みの中で、民謡風の美しい主題も登場する。フルートの相澤政宏、オーボエの荒絵理子、コンマスの小林壱成とのやりとりに手に汗握り、長めの終結部の激情に感極まる。ちなみにドヴォルザークはアメリカから帰国後、妻アンナの姉であるヨゼファの訃報をきいて終結部に手を入れたというのは有名な話。
藤岡の「ドボコン」は、以前ソッリマのソロで聴いているが、各楽器の点描を強調し情熱的かつ劇的に作り上げる。それに応えた若き佐藤晴真は小柄な身体ながら貫禄十分、王者の風格で心底感服した。
最後はサン=サーンスの「ピアノ協奏曲第5番」、“エジプト風”と愛称されている。ソロの福間洸太朗はすでに40歳を越えた。ピアニストとしての活動も20年以上、メディア出演やYouTubeでの活動も目立っている。
「ピアノ協奏曲第5番」はサン=サーンス最後のピアノ協奏曲、自身のピアニストデビュー50周年の記念演奏会のための作品で、避寒地のエジプトに滞在していた時の体験に基づくという。特に第2楽章にはエキゾチックな旋律やリズムが用いられ異国情緒的な雰囲気がある。
冒頭からオーケストラの和音を背景に福間のピアノが歌うよう。爽やかなパッセージが清々しい。第2楽章はエジプトの香りというよりは何処とも知れない東洋風の音楽。銅鑼や打楽器の響きが印象的。虫の音や動物の鳴き声を模倣したようなところもある。福間の硬質な音色が千変万化して心地よい。終楽章、福間は強烈なタッチや溌剌としたアクセントなど野性的ともいえるエネルギーを投入し圧巻の演奏。技巧はもちろんだが体力や気力を消耗しそうなくらい大変そう、こうなると合わせるオケも完全燃焼せざるを得ない。コーダに向かって圧倒的に高揚し駆け抜けた。
定期演奏会はオケの真価を問う場だから協奏曲はあってもメインの演目ではなく前半のプログラムとなることがほとんど。今日のようなプログラミングは異例というべきだけど、改めてソリストの引き立て役だけでは終わらない東響の実力を確認させてもらった。