季節の花2026年05月12日 11:26



 昨年、はじめて山法師の花が咲いたのだけど数えるほどしかなかった。今年は数えきれないほどの花をつけた。4枚の真っ白な花弁が空に向かって開いている。この花弁、もともとは花の付け根の葉(総苞片)が変化したものらしい。確かに観察してみると、最初は葉と見分けがつかないほどの色合いが、だんだんと白くなって花弁のように装飾されて行く。

 山法師は近縁種のハナミズキのように新しい葉が出る前に花が咲くのではなく、葉が出揃ったあと枝先に花をつける。花弁の先端は鋭く尖っており開花時期も遅い。山法師はハナミズキのような華やかさはなく控え目だが、これはこれで野性味があって見応えがある。

 そういえば、今年はどういうわけか、どの草木もたくさん花をつけた。沈丁花からはじまって姫空木、紫蘭、薔薇、満天星、匂蕃茉莉、芍薬など春の花が一巡した。ここから初夏にかけては、この山法師と梔子がともに白い花でもって競うことになる。

2026/5/4 高橋勇太×MM21響 マーラー「交響曲第5番」2026年05月04日 21:13



みなとみらい21交響楽団 第30回定期演奏会

日時:2026年5月4日(月・祝) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:高橋 勇太
演目:R.シュトラウス/交響詩「ドン・ファン」
   マーラー/交響曲第5番 


 R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」。冒頭、弦と金管が一斉に力強く上昇し、精力的で活気に満ちた主題を提示し、ソロヴァイオリンがロマンチックな旋律を歌う。オーボエを中心とした木管たちが多様な彩りを加えると、それらをホルンの強奏が遮り、対抗するように英雄的なテーマが奏でられる。こういった楽器のやりとりが続き、そのうち音楽は暗く沈み込み事切れるように終わる。20代半ばで書いた出世作は、物語の展開や管弦楽の取り扱いなど、10年後の最後の交響詩「英雄の生涯」を予告している。
 官能的で鮮やかな色彩とスピード感を合わせ持ち、音階をとてつもない速度で駆け上がったり、急ブレーキをかけたりして、弦管打楽器とも高度な演奏技術が必要なR.シュトラウス。この作家に挑戦するアマオケは、余程技量に自信があるのか、無謀な試みを趣味にしているのか、そのどちらかだろう。MM21響は以前も「家庭交響曲」などを取り上げており、“技量”も“無謀”も両方併せ持ったオケである。指揮の高橋勇太は難曲「ドン・ファン」をバランス良く鳴らし、アマオケ相手に破綻なく見事な仕上がりをみせてくれた。
 
 マーラーの「交響曲第5番」は第3楽章のスケルツォを真ん中にして1・2楽章と4・5楽章が対称的に配置される。葬送行進曲からはじまり、憤怒が爆発し、舞曲が曲の中心におかれる。アダージェットはヴィスコンティの『ヴェニスに死す』で一躍有名になった。フィナーレは開放的にどこまでも明るく高揚する。
 葬送行進曲はトランペット1本ではじまるから、奏者にとっては緊張するところだけど、まずまずの滑り出し。葬送の歩みは足を引きずるよう。途中の悲壮で激しく情熱的な部分を経て葬列が彼方に去って行く。次楽章の嵐のように荒ぶるところも悪くはなかったが、中間部のゆったりとした鄙びた旋律が美しかった。スケルツォではホルンのトップが舞台下手のハープの後方に移動して立奏、オブリガート・ホルンとして大活躍した。ここでも中間部の静かで幻想的なトリオが魅力的だった。アダージェットはハープと弦のみ、アマオケによるこれほど陶酔的な演奏は賞賛に価しよう。フィナーレはここまでのモチーフを変形しながら回想する。高橋勇太はどちらかというとオケを冷静にコントロールするほうだが、さすが徐々に熱量を増しつつコーダに向かって周到にクライマックスをつくった。

 高橋勇太はテンポやダイナミクスに無理がなく息遣いが自然で好ましい。MM21響は金山隆夫や田部井剛なども指揮を執るが、高橋との相性が一番いいのではないかと思う。今日も期待を裏切らないMM21響の立派な演奏会だった。

2026/5/2 鈴木秀美×東響 モーツァルト「交響曲第33番」2026年05月02日 15:36



東京交響楽団 モーツァルト・マチネ第65回

日時:2026年5月2日(土) 11:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:鈴木 秀美
共演:ヴァイオリン/石上 真由子
演目:行進曲 ニ長調K.249
   セレナード第7番 ニ長調K.250
      「ハフナー・セレナード」第1楽章
   ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調K.207
   交響曲第33番 変ロ長調K.319


 何年ぶりかでモーツァルト・マチネに復帰、シーズン連続券を購入した。来年3月の下野竜也による「グラン・パルティータ」が第一の狙いだが、10月には太田弦の「ハフナー」、次回9月にはヴィオッティの「プラハ」が用意されている。そして今日、鈴木秀美が佳品「交響曲第33番」を振る。
 モーツァルトは23歳のとき、尾羽打ち枯らし失意のなかザルツブルクに帰郷した。なのに、この年の作品は「戴冠式ミサ」「ポストホルン」「ディヴェルティメント第17番」「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」…この「交響曲第33番」も。あの気難しいカルロス・クライバーが「リンツ」とともにレパートリーにしていた曲である。

 コンサートの開始は「ハフナー・セレナード」の演奏者入場のための雄大なマーチから。そのまま「ハフナー・セレナード」の第1楽章へ。モーツァルトはこのとき20歳、ザルツブルクの名門ハフナー家の令嬢の婚礼のために音楽を書いた。
 東響はチューニングをしないまま立奏、ノンヴィブラート。鈴木秀美は精力的なリズムの序奏から音階を上下行するテーマを切れ味良くさばく。はじけるような祝祭的なリズムと音符が好ましい。颯爽とした華やかな世界が出現するなかで抒情が見え隠れする。全曲聴きたいところだけど1時間近くもかかるからここは我慢しなければならない。

 「ヴァイオリン協奏曲第1番」ではトランペットとファゴットが舞台から下がり、管はオーボエとホルンのみ。オケは着席した。ソロの石上真由子は春らしくロングドレスではなく浅葱色の膝が隠れるほどの衣装で登場した。
 「第1番」はモーツァルトが17歳のとき、「小ト短調交響曲」の年であり、他のヴァイオリン協奏曲群に数年先行している。にぎやかで愉快な開始楽章から悲哀を隠したアダージョを経てフィナーレは速足の行進曲風。技巧的にはそんなに難しい作品ではないと思うが、だからこそ逆に、聴き手を納得させるのは難しいはず。
 石上は細身の音ながら柔らかく伸びやかで温かみのある音、ガット弦だったかもしれない。彼女のモーツァルトはテクニックや華やかさだけでなく、思慮深く豊かな感受性が備わっていて、演奏途中、協演する管弦楽の奏者たちと何度か微笑みあっていた。

 「交響曲第33番」はザルツブルク最終期のシンフォニーであり、もともとはイタリア風の3楽章構成で、メヌエットはウィーンに移住してから付け足したという。
 始まりは3拍子の軽快なリズムのなかヴァイオリンとヴィオラがスタッカートで躍動しつつ駆けだす。鈴木×東響はくっきりと輪郭を描き、繊細な強弱の対比によって明るい空気をつくりだす。ときどきモーツァルトらしい翳りも。アンダンテは室内楽を思わせる伸びやかな主題にはじまり、ニキティンと吉江美桜を中心とした弦が主体となって細やかな表情をみせる。荒木良太の切ないオーボエも心に沁みる。メヌエットでは幅広い音域を力強く行き来し、トリオにおいて木管を牧歌的に歌わせた。ベートーヴェンが「交響曲第8番」のモデルにしたといわれているフィナーレでは、跳躍する3連符を土台に変化に富んだフレーズを繰り出し、木管の合奏がふざけているよう。コーダは宴を突然閉じるようにして終結させた。
 それにしても「交響曲第33番」の編成はオーボエとファゴット、ホルンが各2本のみ、ティンパニも用いない小さなものであるけれど何という充実した音楽だろう。モーツァルトはウィーンを拠点にして、この「第33番」に手を加え「ハフナー」「リンツ」「プラハ」を書き継いでいく。

 久しぶりにミューザで聴く東響のモーツァルトに心を奪われた。ミューザの響き、東響のサウンド、アットホームな雰囲気など、至福の昼のひとときを過ごした。「ハフナー」「プラハ」「グラン・パルティータ」など、この先のモーツァルト・マチネが楽しみでならない。

2026/4/29 田中一嘉×水響+伊東裕 ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」2026年04月29日 21:13



水星交響楽団 第71回定期演奏会

日時:2026年4月29日(水・祝) 13:30開演
会場:昭和女子大学 人見記念講堂
指揮:田中 一嘉
共演:チェロ/伊東 裕
演目:メンデルスゾーン/序曲「夏の夜の夢」ホ長調
   ドヴォルザーク/チェロ協奏曲 ロ短調Op.104
   シューベルト/交響曲第8番 ハ長調D.944
        「ザ・グレイト」


 都響首席にて葵トリオの一員である伊東裕が「ドボコン」を演奏するというので三軒茶屋まで出かけることにした。先月も佐藤晴真の名演を聴いたが、いま日本の若手チェリストは他にも上野通明や北村陽、水野優也、上村文乃など国際的に活躍する注目株ばかりで目が離せない。伊東と共演するのは創立40年になるアマオケの水響、指揮の田中一嘉は斎藤秀雄の弟子で古希を過ぎた。

 まずは「夏の夜の夢」から、17歳のメンデルスゾーンがシェイクスピアを読んで触発された序曲だという。神秘的な導入から妖精たちのざわめき、行進曲、恋の大騒ぎ、陽気な舞曲などを経て、妖精たちのテーマが再現して終わる。わずか10数分ながら若きメンデルスゾーンの瑞々しい音楽が満ちていた。

 お目当てのドヴォルザークの「チェロ協奏曲」。静かな前奏からオーケストラがたっぷりと演奏したあと、チェロのソロがゆっくりと入ってくる。伊東裕の身体の動きは小さい。感情をぶつけるような気配を見せず淡々と弾いて行くが、音は豊かで力強くとてもよく歌う。オケのフルート、オーボエ、クラリネットなどの木管群がチェロと絡む。中間楽章はクラリネットの旋律で始まりチェロと掛け合う。ここでの伊東はゆっくりめのテンポで思いっきり情感をこめる。音色は魅惑的で表現は深い。滑らかで率直なボウイングが見ていて気持ちよい。楽章の半ば、管弦楽の強奏のあとは初恋の人ヨゼファに書いた歌曲が引用される。出会いから30年、ドヴォルザークはアメリカにいてヨゼファの病を知らされた。何よりも彼女の無事を祈っていたのだろう。最終楽章は行進曲からはじまり民俗的なリズムや舞曲風のモチーフがチェロと木管群との間でやりとりされ、コーダの直前にはチェロのソロとヴァイオリンのソロとがぶつかり合う。伊東のチェロは気高く溌剌とした響き、その類まれなる音楽性がオケ全体を巻き込むようにして見事な終結へと導いた。コーダの部分はドヴォルザークが帰国してのちヨゼファが亡くなったあと、第1楽章を回帰させ再度歌曲の旋律を引用するなどして大きく書き直した。祖国への郷愁とヨゼファへの想いが何重にもこめられた傑作がうまれた。
 それにしても伊東裕の「ドボコン」は予想を遥かに上回った。管弦楽の首席、室内楽奏者としてはもちろんのこと、ソリストとしても最上である。アンコールはバッハ無伴奏のさわりを(第1番プレリュード)。端正で気品のある美しさに陶然となった。全曲聴きたいと強く思わせる演奏で、伊東裕にはますます注目しなければならない。

 「グレイト」は最も好きな交響曲のひとつ。牧歌的なホルンのソロで始まり、力強いリズムと色彩溢れるオーケストレーションでもって表情を変えながら盛り上がっていく開始楽章、哀愁を帯びたオーボエの旋律と堂々としたリズムの交錯が印象的な第2楽章、舞曲風でエネルギッシュな推進力を持つスケルツォ、トリオは唐突に楽園が現前したような浮遊感と幸福感を与えてくれる。フィナーレは疾走感があって喜びに満ち心の奥底を燃えたたせる。しかし、シューベルトはベートーヴェンとは違う。田中×水響はたしかに熱演ではあったけど、力で押しまくっても如何ともしがたい。シューベルトは精緻なアンサンブルと音色の魅力がどうしても必要でアマオケにとっては演奏するに難しい。少々騒がしく冗長に感じたのは致し方ない。

2026/4/25 カサド×東響 ブルックナー「交響曲第6番」2026年04月25日 21:03



東京交響楽団 名曲全集 第216回

日時:2026年4月25日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:パブロ・エラス=カサド
演目:シューベルト/交響曲第7番 ロ短調D759
        「未完成」
   ブルックナー/交響曲第6番 イ長調WAB106


 名曲全集のシーズン開始である。前・後期各5公演のうちそれぞれ2公演ほどを聴く予定。前期はこのカサドと来月のヴィオッティを予定している。なお、今日のプログラムは明日のサントリーホールにおける定期演奏会と同じ演目である。
 パブロ・エラス=カサドはスペイン出身、古楽から現代音楽まで幅広いレパートリーを誇る。最近ではバイロイト音楽祭へのデビューが話題になった。ピリオド楽器によるシューベルトやブルックナーの録音も好評のようである。日本ではもっぱらN響を指揮しているが今まで聴いたことはない。
 
 前半は「未完成」、シューベルト25歳のときの作品、なぜ2楽章までしか書かなかったのか諸説あって分からない。25歳といえばまだ若いがシューベルトの命はこのあと6年しか残っていない。
 開始楽章はチェロとコントラバスによる動機で始まり、ヴァイオリンのさざ波に乗ったオーボエとクラリネットが物悲しい主題を提示する。束の間の高揚を経て気分を持ち直すようにチェロが朗々と歌う。カサド×東響はチェロとコントラバスとでしっかりと土台を固めたが弦楽器群は疾走感が目立ち、トロンボーンをはじめとする金管群は猛々しい。この音楽の底知れない感情を捉えるには少々エキセントリックだった。第2楽章はコントラバスのピチカートではじまり、まるで天上を仰ぎ見るようなヴァイオリンの旋律が奏でられる。転調の妙味、明るさのなかに憂いを垣間みせる。東響の木管の美しさが際立つ。カサドと奏者たちは魅力的な音色を聴かせたものの、音楽にこめられた相反する感情が思いのほか伝わって来なかった。

 後半はブルックナーの「交響曲第6番」。前作の「第5番」は交響曲としての集大成ともいうべき大曲であり、「第7番」以降は後期の傑作群で、その間に挟まれたこの「第6番」は昔からブルックナーらしくない、などと散々の言われようだった。しかし、ブルックナーにしては全休止が少なく音楽はスムーズに流れる。リズムは軽快で繰返しも多いから現代のミニマル・ミュージックと似てなくもない。 
 ブルックナーといえば壮大なトゥッティの迫力が魅力であることは間違いないが、実は柔らかな音色と微妙なニュアンスの弱音を生み出す達人でもあった。カサドは終始テンションが高く個性的な彩りはあったけど、ブルックナーの繊細さや清々しいほどの優雅さ、情景のかすかな操作など演奏の奥行きを深めるための味付けが十分とはいえなかった。

 モダン楽器でも「歴史的知識に基づく演奏法(HIP)」を念頭において指揮をするというカサドが、シューベルトとブルックナーをどう料理するのか興味があったけど期待外れ。表現の振幅が大きくアグレッシブで強度だけが目立ってしまった。極端なコントラストに隠され複雑な諧調が読み取れない。シューベルトもブルックナーもそれぞれの音楽の機微が損なわれてしまったように思う。残念な演奏会だった。