DIGGER/ディガー ― 2026年10月20日 17:29



『DIGGER/ディガー』

原題:Digger
製作:2026年 アメリカ
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
   アレクサンダー・ディネラリス 他
音楽:コスモ・シェルドレイク
出演:トム・クルーズ、リズ・アーメッド、
   ジョン・グッドマン、ザンドラ・ヒュラー


 この映画には、完全に騙された。
 まず、予告編を観て、大体こんな内容だろうと想像していたのだけど、予想と大違い。この中身を事前に想定することなど不可能だ。次に、導入部の30分くらいを観て、先の進行を思い描いたのに、それがことごとく外れた。
 悔しいのは、後から考えるとヒントは幾つかあった。第一に舞台装置が禍々しい、第二に登場人物の演技が仰々しい、第三にいくら老猫だといってもこの猫はいかにも作り物風でおかしいと気付かなければならなかった。
 そして、テーマが巨大、地球環境という余りにも映画に馴染まない問題を取り扱った。いや、今まで散々作られたパニック・ムービーやディザスター・ムービーのことを言うのではない。人間の生存に必然といえる環境破壊というとてつもなく深刻な現象のことである。ところが、映画の構造が複雑な入れ子になっていて、この大テーマを本気で扱おうとしたのかどうかさえよく分からない。

 主人公のディガー・ロックウェル(トム・クルーズ)は政財界を牛耳る石油会社の親玉。老い太り威張り散らして醜悪そのもの。老猫への偏愛は異常を通り越している。米国大統領(ジョン・グッドマン)はポリコレを蹴っ飛ばし、女性を蔑視し、チャイナやロシアを虚仮にする。大統領ばかりでなくとりまきの閣僚、軍人たちも同様。地球や人類の危機など何も考えていない。良識派といえる博士ガネシュ(リズ・アーメッド)もディガーに絡め取られて行くほどで救いようがない。
 ところが、映画の大テーマである地球の危機がどんどん進んで行くなかで、唖然とする大仕掛けが出現する。ぶったまげるとはまさにこのこと。しかし、この映画の凄いところは、大仕掛けが明かされたあとも危機の物語が進行し、観客は白けることなくその物語に引き込まれてしまうことだろう。
 その典型が議会でのディガーの大演説。地球環境における石油業界の悪辣さを認めつつも人類生存の問題意識に結び付けていくロジックはそれなりの真実がある。もとい、真実があると思わせる。俳優トム・クルーズの怪演と狂気の画像のなせるわざである。脚本・監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの才能に感服し脱帽する。さらに極めつけはラストシーンからエンドロールまで続くクライマックス。SF映画で観るディストピアでありながら、その最悪な世界のなかでも人々は創作への共感を失わない。

 『DIGGER/ディガー』の興行成績は日米とも大コケだという。今のところ全世界でわずか1,700万ドルの売上である。ほぼ同時期公開の『バイオハザード』が1億ドルを超過しているのに。「Rotten Tomatoes」の評価もトマトメーターは53%という体たらく。これだけポリコレや左巻きの思想を糾弾したらハリウッドとその周辺の評論家たちの顰蹙を買うのは当たり前だ。この映画がアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞をとったとしても驚かないが、まぁ無理だろう。
 たしかに人を選ぶ作品である。一緒に観た子供たちは、一人は俳優たちの大騒ぎと刺激の強い効果音に我慢できず、映画館を出たいと思ったらしい。もう一人は途中で居眠りをして中抜きで観賞したという。二人とも全く面白くなかった、とぶつぶつ文句を言っていた。

 『DIGGER/ディガー』は虚構と現実とが曖昧な、前衛にして風刺の効いたブラック・コメディであり、パラマウントに買収される前のワーナー最後の作品となった。こういった多義性を隠し持った映画が製作できなくなるとすればハリウッドはもう終わりだろう。
 音楽でいうとショスタコーヴィチを聴いたときのような感慨がある。体制の批判、反抗は本気なのか。複雑、執拗で深刻な問題を、辛辣、滑稽に皮肉と韜晦にくるんで作品とする。作品のなかへ全てをぶちこみ混沌としつつも自立すればそれで了とする。ショスタコーヴィチには圧倒的な音響の快楽があり、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥには真偽が定かでない映像の快楽がある。
 騙されたことに心地よい快感があった。

2026/10/11 ヴィオッティ×東響 ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」 ― 2026年10月11日 21:48



東京交響楽団 東京定期演奏会 第746回

日時:2026年10月11日(日) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演目:J.S.バッハ/シャコンヌ(齋藤秀雄編)
   ショスタコーヴィチ/交響曲第10番 ホ短調


 齋藤秀雄が編曲したバッハの「シャコンヌ」で開始。「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番」の終曲を、合奏力や表現力を学ぶ教材として学生たちのために編曲したものだという。ヴァイオリン一挺による多声的音楽を弦楽器だけでなく管楽器にも割り振って再構築した。齋藤は一時東響の常任指揮者に就いたこともあるようだが、何より弟子の秋山和慶が東響の初代音楽監督を長く務めたから東響との縁は深い。
 ヴィオッティはゆったりと大きな音楽をつくって行く。変奏が重なっていくごとに光は増し、その神々しいほどの美しさに鳥肌が立ち涙腺が緩む。齋藤は“天上の音楽”を教材にしたわけだ。
 「シャコンヌ」のあと、切れ目なくそのままショスタコーヴィチの「交響曲第10番」となった。冒頭のコントラバスはまるで地獄からの地鳴りのよう。景山昌太郎の率いる弦5部の音圧は筆舌に尽くしがたく、耳慣れない音色も初めての経験。第2楽章の疾走感はショスタコーヴィチのアレグロの限界に挑んだに等しい。楽譜からこのスピード、音量、音色を引き出したのは信じがたい。気が付けば前のめりになって聴き入っていた。第3楽章は頻繁に出現する作家の音型や恋人の音型よりも狂気の舞曲のほうが印象的だった。フィナーレは沈鬱なゆっくりとした曲想のあとヌヴーのクラリネットで一転、福士マリ子のファゴットが大活躍をしてどんちゃん騒ぎとなるが、どこか上品で優雅なのは不思議な感触だった。最後は怒涛の勢いでもって終結した。
 ヴィオッティのショスタコーヴィチを聴いていると、作家の思惑とか時代背景とかがほとんど頭に思い浮かばない。陰陰滅滅で苦虫を嚙み潰したようなショスタコーヴィチも、音名象徴の自己主張も感じない。アレグロだってスターリンの恐怖はない。ソヴィエト社会主義共和国連邦の不気味さも曖昧模糊としたまま。だけど、これはヴィオッティが構築した純粋な音楽なのだ。ダイナミクスは桁外れに大きく、表現の幅はとてつもなく広い。聴いたことのない音色を作り出し、緩急によって緊張感が途切れることもない。音楽が持つ質量の凄まじさに説き伏せられたといってもよい。終わってみれば特別な時間を体験したという感覚で満たされていた。
 盛大な拍手の中、ヴィオッティは最初に福士マリ子を、そしてヌヴーを称え、次々と管楽器、打楽器、弦楽器奏者を賞賛した。オケが舞台裏に引けた後は熱狂的な聴衆によるヴィオッティの一般参賀となった。

2026/4/18 沼尻竜典×神奈川フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」 ― 2026年04月18日 21:21



神奈川フィルハーモニー管弦楽団
 みなとみらいシリーズ定期演奏会 第413回

日時:2026年4月18日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
共演:ヴァイオリン/石田 泰尚
演目:ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲第2番
           嬰ハ短調Op.129
   ショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調Op.47


 神奈川フィルの2026/27シーズンはショスタコーヴィチの2作品でスタート。監督が振りコンマスがソロを務める。早々に完売公演となった。
 沼尻は監督に就任以来、各シーズンともブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチを積極的にプログラムしている。交響曲についてはそれぞれチクルスを完成させようとの計画があるのかも知れない。
 コンマスの石田泰尚は荒井英治ほどではないけどショスタコーヴィチの室内楽をよく取り上げている。神奈川フィルのショスタコ・ヴァイオリン協奏曲となれば彼しかいない。荒井英治も今シーズンのシティフィル定期で一気に2曲演奏するが、これは別件があって聴くことができない。

 ショスタコーヴィチは生涯に6曲の協奏曲を書いた。ピアノ、チェロ、ヴァイオリンが各2曲ある。「ヴァイオリン協奏曲第2番」は最後の協奏曲作品、内省的で陰鬱、難解だと思う。前年には「チェロ協奏曲第2番」を完成している。交響曲でいえば「第13番」と「第14番」の狭間、ショスタコーヴィチの晩年である。
 「第1番」の20年後に作曲された「第2番」はダヴィット・オイストラフの誕生祝らしい。古典的な3楽章の形式だが調性は不安定で響きはしばしば無調的。激しさと緊張感、打楽器をからめた独特の響きは晩年作品の典型といってもいい。ソロは最初から最後まで休むことなく弾きっぱなし。カデンツァは長大かつ複雑で難易度がとんでもなく高い。
 オケのコンマスはゲストの佐久間聡一。金管はホルンのみでトップは元PPTの吉田智就、このゲストの若手奏者がべらぼうに上手かった。打楽器はティンパニとトムトムだけを用いる。篠崎史門と金井麻理が大活躍した。ソロの石田泰尚は雑音の少ない弓使いと滑らかな音色。アレグロだって興奮に我を忘れることはない。尖った音楽ながら響きはまろやかで、難曲をいつものように柔らかな美音で軽々と弾いた。
 第1楽章はコントラバスとチェロのピチカートで始まり、重厚な第1主題と軽妙な第2主題が対比される。全体的に薄暗く不穏な雰囲気が漂う。第2楽章は緩徐楽章、舞曲風の旋律で開始されるが、次第に重苦しい悲劇的な情感が満ちてくる。短いカデンツァを経て切れ目なく第3楽章へ。第3楽章は躍動感のある皮肉めいたフィナーレ。ヴァイオリンとホルンのふざけた掛け合いから変拍子となり打楽器が介入してエネルギッシュな展開となる。中盤には長大なカデンツァが置かれ最後は祝祭的な結末を迎える。ソロ・ヴァイオリンとティンパニ、トムトムとの掛け合いや、ホルンとのやりとりは鮮烈な印象を残した。
 アンコールは沼尻のピアノのもと、石田と佐久間とでショスタコのポルカ、「2つのヴァイオリンとピアノのための5つの小品」からだという。「ジャズ組曲」もそうだけどショスタコーヴィチはこういったあっけらかんとした曲も書く。会場は大うけだった。

 ショスタコーヴィッチは「交響曲第4番」で思う存分前衛的な作品を書いたが結局これを封印し、誰が聴いてもわかる「交響曲第5番」を世に出した。全4楽章で編成も普通、“苦悩から勝利”の筋書きを経て最後も決然と終わる。構造はシンプルでシンプルゆえに演奏はかえって難しい。
 第1楽章は弦楽器による悲痛な響きからはじまり、やがて伸びやかな主題があらわれる。ピアノが入ってきて次第に緊張が増し、唐突にマーチとなり最高潮に達したあと、最後はチェレスタの上昇音型で冷たく終わる。第2楽章はスケルツォで低弦の厳格なリズムを基礎にした杓子定規な3拍子が続く。トリオの田舎風のレントラー舞曲はマーラーのよう。第3楽章は重苦しい緩徐楽章。金管楽器は休みとなり弦楽器が分奏する。木管ともども悲哀の音楽が連続する。第4楽章は不気味な木管のトリル、ティンパニの強打に次いで金管の荒々しい主題が現れ壮絶に展開される。嵐が静まると静寂の中で回想的な音楽となるが、再び盛り上がりティンパニとバスドラムの強打をともなった全合奏で終結する。
 驚いたことに協奏曲で独奏した石田泰尚が後半はコンマスとして座り、ここでも流麗なソロを披露した。隣には佐久間聡一、弦は協奏曲のときの12型から16型に拡大。ホルンのトップは豊田実加に代わり、前半好演した吉田智就は3番を担当した。
 「第5番」は作品成立の過程での国家との関係や、個人的な女性問題などがやたら取り沙汰されるが、沼尻はその諸々に惑わされず交響曲形式による起承転結が明快な古典的作品として真正面から向き合ったようだ。混じりっけのない交響曲と割り切り、各パートを丁寧に浮かび上がらせつつ階層的な程よい重量物として構築した。最終楽章だけはテンポアップしたものの他の楽章は揺るぎのない堂々とした歩みで、こねくり回した変化球ではなく気持ちのいい直球でもって真っ向勝負した。神奈川フィルも弦、木管、金管、打楽器それぞれが音量豊かに隙の無い演奏を繰り広げ、監督の要求に十全に応えていた。幸先のよい新シーズンの幕開けとなった。
 今日の演奏会場には録音マイクが林立していた。CD化されるのかも知れない。

2025/6/28 ボレイコ×新日フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第11番」 ― 2025年06月28日 21:56



新日本フィルハーモニー交響楽団
 #664〈サントリーホール・シリーズ〉

日時:2025年6月28日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:アンドレイ・ボレイコ
共演:ピアノ/ツォトネ・ゼジニゼ
演目:ストラヴィンスキー/ピアノと管弦楽のための
             カプリッチョ
   ショスタコーヴィチ/交響曲第11番ト短調
             「1905年」


 ストラヴィンスキーには2曲のピアノ協奏曲があるという。プログラムノートによると、ひとつは「ピアノと管楽器のための協奏曲」、そして、もうひとつがこの「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」。2曲とも聴いたことはない。音盤を持っていないし、実演も初めて。
 「カプリッチョ」はストラヴィンスキーが新古典主義時代の作品、ドライな音楽で反ロマン的といったらよいか、ピアノが打楽器のように活躍する。ストラヴィンスキーの特質であるリズムと音色と音響は健在であるが、情感に訴えることや歌い上げることはしない。軽快な曲運びは好ましいけど、正直あまり面白い曲ではない。プレスト、ラプソディコ、カプリッチョーソの3つの楽章が続けて演奏された。
 ソリストは日本でいえば高校生のツォトネ・ゼジニゼ、ジョージア出身で作曲もするらしい。音楽の世界では昔から早熟の異才が現れる。「カプリッチョ」が20分程度の短い曲だったせいかゼジニゼはアンコールを3曲も披露した。3曲とも自作だと知ってびっくり。

 ショスタコーヴィチの「交響曲第11番」は10年ほど前のラザレフ×日フィルが基準となっている。井上、沼尻、角田、インバル、カエターニなど聴いたが、ラザレフは別格である。今では「第11番」は劇伴音楽として聴けばいいのではないかと冗談もいえるけど、当時は恐怖と混乱がしばらく尾を引いた。いまだに「第11番」の演奏会になると身構えてしまうのはその後遺症が癒えていないためだろう。
 別名「1905年」、ロシアにおける「血の日曜日事件」を描く。帝政ロシア末期、貧困と飢餓に苦しむ人々はサンクトペテルブルグの宮殿前広場に集まった。その民衆に向かって軍隊が発砲し、数千人の死傷者を出す大惨事となる。これが共産主義国家ソヴィエト連邦成立の遠因となった。
 第1楽章「宮殿前広場」、ハープが鳴り、陰鬱な雰囲気の主題が提示され、ティンパニとトランペットの不気味な呟きへと引き継がれる。その上を幾つかの革命歌の旋律が流れる。帝政ロシアの圧政、重苦しさが漂う。ボレイコは音圧を絞り抑圧的な音響で緊張感を高めていく。
 第2楽章「1月9日」、民衆が行進をはじめる。変奏と変拍子が次第に緊迫の度合いを増す。前楽章の主題が鳴り渡ると、突然、スネアドラムを筆頭に打楽器の連打となる、民衆への無差別の銃撃。広場は阿鼻叫喚の地獄となる。ボレイコの描写力は過たない。大音響が止み身動きする者は誰もいない。その不気味な静寂と惨状。
 第3楽章「永遠の記憶」、重々しいしいピチカートに乗って、ヴィオラが革命歌を奏でる。葬送行進曲である。ボレイコはヴィオラの音量を抑える。弔いの鐘のような金管の呻きは慟哭というしかない痛切な叫びとなる。音楽はやがて力尽きるかのように沈黙する。
 第4楽章「警鐘」、決然とした金管楽器の動機は民衆が蜂起する様だろう。ここでも革命歌が引用され、イングリッシュホルンの調べに泣かされる。ボレイコは力任せではなく、むしろ追憶としてのイングリッシュホルンの旋律に焦点をあてた。最後は全管弦楽の強奏のなかで鐘が激しく打ち鳴らされる。このとき普通はチューブラーベルという管状の鐘を何本もセットした楽器が使われるが、今回は金属板をぶら下げたツリーチャイムを鳴らした。楽器の挙動は多少不安定ながら異様な音と残響が鳴り渡った。この民衆のエネルギーともいうべき勇壮なフィナーレにおける鐘は未来へのまさに警鐘のようだ。
 ボレイコの音楽は心身とも巻き込まれてしまいそうな苛烈なものではない。テンポやバランスがよく整えられた堅実でハッタリのない演奏である。作者ショスタコーヴィチが何を訴えようとしたのかを示唆してくれるような音楽だった。
 ボレイコはサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)生れ、ショスタコーヴィチと同郷である。父親はポーランド人、母親はロシア人だという。2023/24までワルシャワフィルの音楽監督を務め、昨年、手兵と来日している。以前は東響やN響を指揮したこともあるようだが、日本のオケを振るのは珍しい。ボレイコのショスタコーヴィチは他も聴いてみたい。

2025/5/17 ウルバンスキ×都響 ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」 ― 2025年05月17日 19:57



東京都交響楽団 都響スペシャル

日時:2025年5月17日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
共演:ピアノ/アンナ・ツィブレヴァ
演目:ペンデレツキ/広島の犠牲者に捧げる哀歌
   ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番ヘ長調
   ショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調


 東響の首席客演指揮者だったウルバンスキが都響を振る。東響とは首席客演指揮者を退任したあとも毎年のように共演しているウルバンスキだが今シーズンはパスをした。シェフを務めるワルシャワフィルと来日するためかと思ったら、都響を指揮するという驚きのニュース、そのサプライズに抗しがたく早々にチケットを手配した。
 プログラムは“ショスタコーヴィチ没後50年記念”と銘打って、ピアノ協奏曲と交響曲、それにお国のペンデレツキを組み合わせた。

 「広島の犠牲者に捧げる哀歌」は10年ほどまえ東響定期で聴いた。たしか首席客演指揮者の就任披露公演だった。ウルバンスキにとっては名刺代わりの作品なのだろう。微分音が密集するトーン・クラスター技法を用いた弦楽合奏曲で、原題は「8分37秒」と味気ない。標題は後付けながらこの標題によって有名になったともいえる。
 旋律らしきものはなく悲劇的な音響が最初から最後まで続くが、ウルバンスキのそれは威圧的ではなく、どこか穏やかで優しい、これは意外。もっとも前回どうであったか思い出せないから比較できないのが残念だけど。
 そうそう作者のペンデレツキのこと。都響定期に登場したことがある。庄司紗矢香をソリストとした自作のヴァイオリン・コンチェルトとベートーヴェンの交響曲を振った。自作品は剣呑ながら姿形は好々爺としか見えなかった。

 ショスタコーヴィチはヴァイオリン、チェロ、ピアノの協奏曲を各2曲ずつ書いている。ヴァイオリンとチェロ協奏曲はいずれも重く気難しい作品だけど、ピアノ協奏曲は2曲とも軽快で楽しい。「第1番」はトランペットとの二重協奏曲のようだし、「第2番」はトランペットを欠いた小編成のオケと協演する。
 ツィブレヴァは色彩感で聴かせるタイプではないが、音は硬質かつ明瞭で濁りかなく良く鳴る。軽やかなこの協奏曲には似合っている。緩-急-緩の古典的な3楽章形式、第1楽章は若々しく快活。のんびりした主題が登場するが、すぐ駆け足となり、いかにもショスタコらしく忙しくなって行く。展開部以降は音楽が華やかさを増す。次の緩徐楽章はメロディーも響きもしゃれた夜想曲風。素直な叙情性に溢れ感動的。こんなに素のままなショスタコは珍しい。続けて演奏される第3楽章は快活な民族舞曲のよう。ハノンのピアノ練習曲も引用されているという。目まぐるしく同じ音型が転げ回る様子はユーモラスでスリリングだ。フィナーレに向けて興奮は頂点に達した。
 演奏が終わって、P席からブラヴォーがかかったのだろう、ツィブレヴァは後ろを振り返って丁寧に頭を下げていた。好感度満点である。

 後半の「交響曲第5番」は最弱音で開始されたラルゴに尽きる。ウルバンスキの設計した音量、音価、内声部のバランスなどが独特で、しばらくのあいだ弦5部それぞれの行方を見通すことができず不安になったほど。全く覚えのない曲に対面しているようだった。中間部のオーボエの寒々としたソロ、続くクラリネット、フルート、ファゴットの冷たい音色、シロフォンの強打とハープの爪弾きにも震撼する。悲しみと怒りの極地が現出した。そのあとのフィナーレの無機質な高揚こそが白々しく思える。「第5番」は体制に迎合し屈服したようにみせながら、自らの生命を救った交響曲である。彼の生死を分けた作品であることを変態ウルバンスキ×都響の演奏によって改めて知ることができた。