2026/7/3 藤岡幸夫×新日フィル 日本のオーケストラ作品2026年07月03日 22:07



新日本フィルハーモニー交響楽団
   すみだクラシックへの扉 #41

日時:2026年7月3日(金) 14:00開演
会場:すみだトリフォニーホール
指揮:藤岡 幸夫
共演:ヴァイオリン/木嶋 真優
演目:芥川 也寸志/交響管絃楽のための前奏曲
   伊福部 昭/ヴァイオリンと管絃楽のための
      協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)
   吉松 隆/交響曲第3番 op.75


 邦人の現代音楽を3曲並べた演奏会。ゲンダイ音楽といっても調性や旋律の復興を掲げた伊福部、芥川、吉松の作品。当時のアカデミズムは時流の音楽創作に異を唱えた彼らに冷淡だった。ひとつの例として70年の歴史を誇る作曲賞の尾高賞に3人の名前はきれいさっぱり、ない。
 今日のプログラムを眺めると、藤岡幸夫が首席客演指揮者を務めるシティフィルの定期公演でもよさそうなものだが、どういうわけか新日フィルを相手にして、定期でなくちょっと軽めの「すみだクラシックへの扉」としてのコンサートとなった。いきさつはともあれ、ソロの木嶋真優を含め聴き逃すわけにはいかない。

 開演の30分ほど前に弦楽四重奏のプレコンサートと、そのあと藤岡幸夫のプレトークがあった。弦楽四重奏は「アトム・ハーツ・クラブ・カルテット」の第1楽章などを演奏し、プレトークでは今回の3曲にまつわる話を手際よく。それと、同一プログラムの今日と明日の演奏会、チケットは両日とも9割以上が捌けたという。邦人作品でこの売れ行きは、事件である。

 最初は芥川也寸志の「交響管絃楽のための前奏曲」。芥川は伊福部の弟子で、この曲は東京音楽学校の卒業作品として書かれたもの。彼の管弦楽曲の第1作といっていいだろう。同じような題名の出世作である「交響管絃楽のための音楽」より数年前の作品だが、初演は芥川の死後、作曲されてから40年以上も経っていた。初演の指揮者は山田一雄となっている、懐かしい。藤岡幸夫によればプロオケが演奏するのは本日がはじめてのことらしい。
 全体は緩―急―緩―急が一応の構成。初めは静かに悠然と、フルート、クラリネットなどの木管群が音量を増し、弦楽が重なりピアノが加わる。突然、曲調が変わり低音の強調、金管の強奏、打楽器の強打と派手派手になる。上品で高貴な舞から、激しく民俗的な舞踏に切り替わるよう。緩急ともに伊福部の影響が見られなくもない。緩―急を繰返したあとコーダとなるが、コーダらしくない断ち切るような終結。藤岡×新日フィルは若き芥川の意欲を感じさせる熱量と、細部まで神経が行き届いたこなれた演奏で、さすがの完成度だった。

 次は、木嶋真優を迎えて伊福部昭の「ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲」(ヴァイオリン協奏曲第1番)。木嶋真優は周防亮介とともに今もっとも注目すべきヴァイオリニスト。
 「ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲」は「ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲」に続く伊福部の2作目の協奏曲。幾度か改訂され緩徐楽章はまるっと削除し、現行版では2楽章構成となっている。伊福部は幼少のころからヴァイオリンに親しんでおり、大学ではコンマスを務めたほどだから腕前はかなりのものだった。何度も改訂を重ねたということは本作に相当愛着があったのだろう。
 伊福部の言葉が残されている。曰く「長い歴史をもつヴァイオリン音楽には、それぞれ勝れた様式や流派が確立されていますが、この作品ではそれ等から少し離れたいわばジプシィ・ヴァイオリンに近い様式がとられています。それは、余りにも洗練され、ヨーロッパ化した様式と、又、近代の虚脱から逃れてみたいと考えたからに他なりません。――この楽器の祖先は本来アジアなのですから。第一楽章では主として旋律的な要素に、又、第二楽章では律動的な面に主眼がおかれています。」とある。
 第1楽章はのっけからカデンツァ風のヴァイオリンソロで開始される。木嶋はこの曲を何と暗譜。ヴァイオリンの音には艶と潤いがあり、音の立ち上がり、減衰はスムーズ。音色に得も言われぬ色気があって非の打ちようがない。伊福部が言うように西欧の流儀とは全く別の奏法を用いているようでもある。しかも演奏するにはかなり難易度が高そうだ。長大なソロが一段落すると管弦楽は次第に力強いオスティナートとなり、「シンフォニア・タプカーラ」のような土俗的な曲想も現れる。そのうち『ゴジラ』のテーマがそのまま出現する。作曲の時期からいえばはこちらがオリジナルかも知れない。いや、『ゴジラ』のテーマの淵源を辿ることは難しい、ひょっとするとラヴェルあたりに行きつくやもしれない。藤岡は「シンフォニア・タプカーラ」や『ゴジラ』のテーマであっても冷静にオケをコントロールする。とまれ、伊福部のこれらの律動と旋律たちは独自の個性をもち、やはり日本人の根源的な感情や感性を大いに刺激する。
 第2楽章はリズムに主眼が置かれ、エネルギーが充満し、ヴァイオリンの超絶技巧と管弦楽の変拍子が混然一体となって圧倒的なクライマックスを築く。ここでも洗練され華やかな西欧のヴァイオリン協奏曲に対して、アジア的で民俗性が濃厚なヴァイオリン協奏曲といった雰囲気、木嶋のカデンツァはやはり抜群で、鬼神が乗り移ったような迫力。藤岡は木嶋の情念を受け止めながら、それでもオケを悠々と制御していた。
 この「ヴァイオリン協奏曲第1番」は、狂詩曲という題名からしても通常のヴァイオリン協奏曲とは異なる音楽空間という感じがするが、今年、ここまで演奏会を聴いて来たなかで、楽曲の魅力、演奏ともにベストワンといえそう。

 休憩後、吉松隆の「交響曲第3番」、吉松の“英雄”交響曲とよく言われる。
 4楽章構成という、もはや死に絶えた古典形式のなかに、ありとあらゆるものを詰め込んだ交響曲。マーラー的といえばそうかも知れないが、あまりに何でも有りなため、音楽は拡散し、形式は交響曲であっても内容は幻想曲のようになっている。まさしくゲンダイ音楽であって面白味は尽きない。作者のHPには自身による各楽章の解説がある。
 “第1楽章:アレグロ。「陰」と「陽」、「希望」と「怨念」、「慈悲あるもの」と「凶暴なるもの」と言った相反する二面の性格が交錯しぶつかり合うドラマとしてのアレグロ楽章。(吉松)”
 冒頭は不協和音の爆発。管楽器が音ではなく空気を吐き出す。風が通り抜け、悲しげなオーボエの独白が主題として登場する。ティンパニが激しく叩きつけられ、すさまじいオスティナートが吹き荒れる。やがて鳥の声のあとアダージョとなり、東洋的な静寂が訪れる。再びアレグロが戻ってきて疾走感を快復し、最後は徐々にテンポが落ち、幾つかの主題の断片が回想され交差する。
 “第2楽章:スケルツォ。ジャズやロックからアフリカやアジアの民族音楽に至る様々なリズムの断片がパズルのように錯綜し変化してゆく、リズムの万華鏡としてのスケルツォ楽章。(吉松)”
 舞踏音楽だが多種の打楽器が民族音楽を模倣し、ガムラン音楽のようなところもある。どちらかというとアジアンテイスト。トリオではジャズやロック風のノリとなる。全体的にマリンバの活躍が印象的。
 “第3楽章:アダージョ。アジア風の暗い情念によるアダージョ楽章。2本のチェロが核となって語られる悲歌でもあり、真夜中の走馬灯の中に映る遠い昔の記憶のような仮面劇でもある。(吉松)”
 不協和音が再現しチェロのレチタティーヴォが絡む。甘美な旋律が心地よいがトーン・クラスターが出現し一筋縄ではいかない。ティンパニの強烈な打ち込みのあとは感傷的な旋律が続き、コーダはショスタコーヴィチのように独奏ヴァイオリン(コンマス:崔文洙)とチェレスタの音が消えゆくように終わる。
 “第4楽章:フィナーレ。前3楽章の素材が合流し堆積してゆく大団円としてのフィナーレ。雲の切れ目から射すかすかな日の光が巨大な日の出へと拡大してゆき、太陽の祝祭を迎える。(吉松)”
 各楽章の主題が回帰し、再構築されながら輝かしく高揚していく。とにかく恥ずかしいくらいアップテンポとなって盛り上がる。これだけあっけらかんとした空騒ぎはマーラー「第7番」の終楽章に匹敵するだろう。映画のクライマックスにおける背景音楽としても通用するくらい。
 藤岡幸夫はこの「交響曲第3番」を献呈され初演している。プレトークによれば数年前にシティフィルの定期演奏会で「第3番」を公演する予定が急性肺炎に罹って降板となり、改めて今日の機会を得たということらしい。藤岡×新日フィルはものすごい集中力だった。各楽器はしっかり分離し、オケ全体にはほどよい疾走感と躍動感があり、大音量を意図した交響曲でもうるさくならない。藤岡と新日フィルは相性も良さそうだ。もっとも藤岡は東響への客演でも感動的な演奏を聴かせてくれる。渡邉暁雄の弟子ということを別にしても音楽に品がある。彼の情熱と実力は侮れない。
 吉松の“英雄”交響曲は、外観は疑似古典形式で、中身はマーラーのように森羅万象を詰め込み、管弦楽法はショスタコーヴィチを参照したようなところはあるけれど、本質は吉松流の音楽による真剣な遊びであろう。小難しいことに頭を巡らすより、その響き、旋律、律動、和声のたわむれを単純に楽しめればいいのではないかと思う。もともと音楽を聴く快楽とはそういうことだ。その意味でもこの演奏会、十二分に満足した。