2026/2/24 川瀬賢太郎×名フィル R.シュトラウス「英雄の生涯」2026年02月25日 15:03



名古屋フィルハーモニー交響楽団
           東京特別公演

日時:2026年2月24日(火) 19:00開演
会場:サントリーホール
指揮:川瀬 賢太郎
共演:語り/五藤 希愛
   アコーディオン/大田 智美
   ヴァイオリン/小川 響子
演目:武満徹/系図-若い人たちのための音楽詩
   R.シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」


 毎年恒例の名フィルの東京特別公演、今回は従来のオペラシティコンサートホールから場所を移してサントリーホールでの開催となった。
 川瀬賢太郎は月初に東響相手の演奏を聴いたばかり。あたためて引き締まった身体が好ましい。昨年の状態ではこのまま恰幅がよくなるばかりか、と心配をしていた。指揮者にとって運動能力が大切なのは言うまでもない、スポーツ選手と同様にウエイトコントロールは大事である。

 武満の「系図」でスタート。武満の楽曲のなかでは聴く機会が多い。調性的な後期の作品で、発表時の批判をものともせず代表作のひとつとなった。「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おとうさん」「おかあさん」は、それぞれ老い、死、孤独、不在に焦点が当てられる。「むかしむかし」で家族の始源がためらいがちにひらかれ、「とおく」で家族のこれからを垣間見るように閉じられる。眺める少女の目線は作為がなくとも複雑で胸を突く。谷川俊太郎のシンプルでありながら研ぎすまされた言葉と、静謐で柔らかな武満の音楽とが相まって心が大きく揺り動かされる。
 五藤希愛は愛知出身の今年16歳、10歳のときから俳優として活動しているらしい。楽譜も台本も置かず完全に自分の言葉とし、発声は明瞭で朴訥ながら瑞々しい語りを聴かせてくれた。アコーディオンの大田智美は沼尻のときにも共演をしていた。終曲のアコーディオンの旋律は何度聴いても目頭が熱くなる。オケの音はあたたかく少し重たい。川瀬のことだから鈍いところはないけれど、もっと浮遊感のある飛翔するような軽やかさが欲しかった。

 R.シュトラウスの「英雄の生涯」はヴィオッティ×東響の「ふたつの英雄」以来、もう3、4年まえになるか。シュトラウスの交響詩時代の最後の作品、「エロイカ」と同じ変ホ長調、ホルンが大活躍する。編成は4管、舞台上に100名を超える奏者が揃った。演奏する側にとっては難曲だが聴き手にとっては魅力満載の楽曲。
 いきなり低弦とホルン9本の強奏で「英雄」のテーマが提示される。跳躍の多い雄渾な音楽。川瀬はチェロ、コントラバスをはじめ低音域をしっかりと響かせる。でも威圧的ではなくさりげないくらいで、初っ端から意表をつかれる。英雄のテーマは力を蓄え、様々な動機を組み合わせながら立体的に盛り上がっていく。頂点に達したところで突如休止し次の場面へ。
 スケルツォ風のカリカチュア化した主題が木管群により吹奏される。「敵」が現れる。吹き散らかすようなフルートは客演の東フィル首席・神田勇哉、「系図」の滑らかな旋律に耳を奪われたが、敵としての尖りかたでもひときわ目立つ。嘲笑するようなざわざわとした木管たちの動機が勢いを増し、それに対抗するように英雄の主題が現れては消える。
 「伴侶」は緩徐楽章、独奏ヴァイオリンがテーマを提示する。ソロヴァイオリンはオケと交錯しながら甘美な情景を描く。ここはコンマスの小川響子に尽きる。会場は最大限の緊張状態、音の艶といい旋律の歌いかたといいヴァイオリン協奏曲のソリストでも稀にしか出来ないほどの芸当。麗しく妖艶で鬼気迫る演奏、過去に例をみない最高の伴侶だった。プログラムノートの案内によれば来年の名フィル東京公演では、小川は葵トリオとして出演、カゼッラの「三重協奏曲」が予定されている、楽しみである。
 舞台裏のファンファーレから始まる「戦場」。トランペットが鳴り敵との戦いが始まる。打楽器の連打の中で英雄と敵の主題が交錯する。川瀬の設計と思われるが打楽器群の音圧は常に一律ではなく、ティンパニ、バスドラム、フィールドドラム、スネア、シンバルなどそれぞれが主役となって移り変わっていく。激烈な戦いのシーンにおけるすさまじい効果となった。そして、時折り伴侶であるヴァイオリンが英雄を支え、これまでのテーマや動機が入り乱れ目も眩むようなオーケストレーションが展開された。
 曲は落ち着き「業績」が披瀝される。R.シュトラウスの10作品ほどが引用されているといわれるが、作品の断片が巧みに織りこまれているためか聴くだけではほとんど判別できない。そのうちテンポがさらに落とされ自己の内部に沈潜していくような趣となる。
 イングリッシュホルンの音が聴こえ「隠遁と完成」に至る。「ドン・キホーテ」終曲のテーマが鳴り諦観の気分が色濃くなる。闘争の動機,伴侶の動機などが回想され、敵の批判も英雄の意欲も収まっていく。小川響子のヴァイオリンと安土真弓のホルンのやり取りは涙なしには聴けない。英雄の動機が最後のクライマックスを築き力を失い静かに全曲が閉じられた。
 R.シュトラウスの音楽描写は、緻密で幾層にも重なる分厚いオーケストレーションから生み出される。個々のプレーヤーの技量はもちろん、それを整理し組み立てる指揮者の力量も試される。川瀬は振幅を大きくとった濃厚な表現、陰影も際立っている。それに加えさまざまな局面で意外性をみせ頼もしい。名フィルは昨年も感じたが低音域の存在感が無類でその重量感は賞賛に値する。川瀬とは名コンビで豪奢な音響が着実に進化している。

 「英雄の生涯」の“英雄”とはR.シュトラウス自身のことで、R.シュトラウスというのは自己顕示欲の強い鼻持ちならない奴、との評価もある。たしかに「業績」において自作品を多数引用し、シュトラウス本人も実利的な現実主義者であったことは確かだ。
 でも一方で、彼はモーツァルトと同様、全てのことを音楽で表現できると発言するほどの職人だった。作品にのめりこんで我を失うような醜態をさらすはずはなく、華麗な音楽とは裏腹にシャイで冷静沈着、自己顕示や自己宣伝などとは遥かに遠いところにいた。「英雄の生涯」において自伝を書こうとしたわけではないだろう。
 「英雄の生涯」は“生涯”とは言ってもR.シュトラウスが30歳半ばに書いたもので、「ドン・キホーテ」と一対になる作品とも語っているのだから、空想の英雄に憧れ見果てぬ夢を追い続ける物語と、現実の英雄としてのありうべき物語とを対比させてみたのかも知れない。
 邪推だがR.シュトラウス自身は自嘲しつつ「ドン・キホーテ」的人生――口煩い伴侶はいないし、世間など一顧だにする必要もない人生、を夢想し親近感させ覚えていたのではないか。しかし、実際のR.シュトラウスはこのあと50年を生きて、皮肉にも「英雄の生涯」に近い道を歩んだ、と。
 衝撃の川瀬×名フィルの「英雄の生涯」を聴かされたあと、そんな徒然を帰りの電車のなかで反芻していた。

2025/8/30 田部井剛×MM21響 メシアン「トゥーランガリラ交響曲」2025年08月30日 20:23



みなとみらい21交響楽団 第29回定期演奏会

日時:2025年8月30日(土) 13:30開演
会場:みなとみらいホール
指揮:田部井 剛
共演:オンド・マルトノ/市橋 若菜
   ピアノ/加畑 嶺
演目:R.シュトラウス/メタモルフォーゼン
   池辺晋一郎/独眼竜政宗・八代将軍吉宗   
   メシアン/トゥーランガリラ交響曲


 「トゥーランガリラ交響曲」一曲だけでも演奏するに大変なのに、「メタモルフォーゼン」とNHK大河ドラマのテーマ曲も併せて披露するというMM21響らしい欲張ったプログラム。

 最初は「メタモルフォーゼン」から。
 ナチス・ドイツ崩落直前に作曲され「23の独奏弦楽器のための習作」と名付けられている。原曲はヴァイオリン10人+ヴィオラ5人+チェロ5人+コントラバス3人による独立したパートで構成されているが、今日のMM21響は23人の弦楽奏者に拘らず拡大版として演奏した。MM21響の弦楽奏者の腕の見せ所となった。
 音楽はベートーヴェンの「英雄」葬送行進曲の冒頭が“変容”をかさね、最後は葬送行進曲の主題が原型のまま現れる。滅びゆくものに対する嘆きと諦念が色濃く、いつ聴いても胸を突かれる。終焉に向かおうとするクラシック音楽対する追悼であり、その音楽を生み育てた社会や文化・伝統の喪失に対するレクイエムともいえる。同時に、80歳を越えていたR.シュトラウスが、習作と言いつつ新たな作曲技法に挑戦した未来へ放たれた音楽のようにも思える。

 弦楽奏者の一部が交代し、管楽器、打楽器、ピアノ、オンド・マルトノが加わり、NHKで放映された「独眼竜政宗」と「八代将軍吉宗」のテーマ音楽が続いて演奏された。大河ドラマなど観ないからもちろん音楽は知らない。珍しい電子楽器であるオンド・マルトノが使われているので選曲したのだろう。
 作者の池辺晋一郎が来ていた。一階の中央で拍手を受けていた。池辺さんは以前「横浜みなとみらいホール」の館長を務めていたことがあるし、「ミューザ川崎」でも見かけたことがある。神奈川在住なのかも知れない。
 
 チラシでは「トゥーランガリラ交響曲」と書いてあるのだけど、しばしば「トゥランガリーラ交響曲」とも云う。どちらが正しいのか? 楽譜の表記からすると“リーラ”と伸ばすのが適切なようだ。もとはサンスクリット語。意味もさまざまにあてられるが、とりあえずは“時間の遊び”としておこう。
 「トゥーランガリラ交響曲」は20世紀音楽のなかでは比較的演奏機会が多いものの、10年ほど前にカンブルラン×読響で聴いて以来、久しぶりである。交響曲と言っても10楽章もある。それぞれに標題がつけられている。プログラムノートに従うと次のようになる。
 第1楽章「序章」 
 第2楽章「愛の歌1」 
 第3楽章「トゥーランガリラ1」 
 第4楽章「愛の歌2」 
 第5楽章「星たちの血の喜悦」
 第6楽章「愛の眠りの園」
 第7楽章「トゥーランガリラ2」
 第8楽章「愛の展開」
 第9楽章「トゥーランガリラ3」
 第10楽章「終曲」

 戦後音楽にありがちな12音技法や不協和音がいっぱい、和声や旋律より音響や色彩感、リズムの面白さを味わう作品ではあるけど、調性が全くないわけじゃない。力強い主題やなよやかな主題、愛のテーマなどが繰返し現れ、鳥の鳴き声がそこら中に散りばめられている。コテコテの現代音楽といったとっつきにくさはなく親しみやすい。聴いているうちに知らずと身体が浮遊するようなような気分にもなる。
 「トゥーランガリラ交響曲」は全10楽章のうち5楽章までの前半と、6楽章以降の後半の2つの交響曲として聴くことができる気がする。前半は「序章」と有名な第5楽章の「星たちの血の喜悦」の間に、二つの「愛の歌」によって「トゥーランガリラ」が挟まれている。「星たちの血の喜悦」はフィナーレにも匹敵するほどの高揚感がある。後半は「愛の歌」と「トゥーランガリラ」が交互に歌われ「終曲」を迎える。音の洪水である。第6楽章の「愛の眠りの園」の陶酔感は「トリスタンとイゾルデ」に似ている。
 田部井剛はワインディングロードを走るがごときスリリングなところはなく、どちらかというと平地を安全運転している風。アマオケ相手だから無理もない。しかし、この難曲を大きな破綻なく乗りこなした。指揮、オケともども大健闘であった。

2025/3/1 吉﨑理乃×ユニコーンSO 交響詩「ドン・キホーテ」2025年03月01日 19:36



ユニコーン・シンフォニー・オーケストラ 
          第18回定期演奏会

日時:2025年3月1日(土) 13:30開演
会場:大田区民ホール・アプリコ 大ホール
指揮:吉﨑 理乃
共演:チェロ/齊藤 響
   ヴィオラ/山分 皓太
演目:ワーグナー/歌劇「ローエングリン」
         第一幕への前奏曲
   R.シュトラウス/「ばらの騎士」組曲
   R.シュトラウス/交響詩「ドン・キホーテ」


 目当ては吉﨑理乃、昨年の東京国際指揮者コンクールにて、邦人最高位の第3位を獲得し、併せて特別賞・齋藤秀雄賞を受賞した。すでに京都市交響楽団を指揮してデビューを飾っているが、首都圏のプロオケを振るのはまだ先だろうから、まずはアマオケでお手並み拝見である。
 相手をするユニコーンSOの母体は慶應義塾中等部の卒業生、一年前に聴いた太田弦指揮のブルックナー「交響曲第8番」の演奏が強く印象に残っている。

 演目は3曲、共通のキーワードは「騎士」ということになろうか。
 メインの「ドン・キホーテ」は、昨冬の沼尻×桐朋の名演があるから、どうしても分が悪い。チェロ、ヴィオラによる二重協奏曲のようなところがあるし、管のフラッタータンギングや弦の高速トリルとか均一な持続音など奏法の難易度が高く、合わせるだけでも大変である。
 ユニコーンSOは一般の大学オケレベルで、上野通明、田原綾子のソロや桐朋の音大生と比べるのはかわいそう。吉﨑理乃も慎重さが勝って、それぞれの場面での閃きは確かにあったけど、変奏によってドン・キホーテの数々の奇行を描く物語としては単調というか平板なものになってしまった。
 「ドン・キホーテ」は「英雄の生涯」と並ぶ交響詩の名作ながら、「英雄の生涯」がどんな演奏であっても余り失望しないのに対し、「ドン・キホーテ」は演奏によって感銘の度合が大きく違う。なかなか難しい曲ではある。

 前半の2曲は健闘した。「ローエングリン」の前奏曲は、冒頭から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが密やかで繊細な音を奏でた。さまざまな楽器が加わり音量が増してクライマックスが來る。吉﨑理乃はクレッシェンドのとき徐々に減速し、滑らかに音量を増して行く。その速度感、音量加減は才能だろう。ワーグナー音楽の高揚感をもたらしてくれた。
 「ばらの騎士」の組曲はオペラの各場面をつなぎ合わせたもの。前奏曲からはじまってすぐに第2幕の騎士の到着とばらの献呈となり、カオスな音楽を挟んでオックス男爵の有名なワルツから、第3幕終盤の三重唱と二重唱の音楽が続き、最後はオペラの順序を違え、オックス男爵が退場するワルツにより盛り上げて終わる。吉﨑理乃は緩急が交互に繰り返す曲の構成を活かし、しっとりとした情緒とドタバタや混乱など、オペラの各場面が目に浮かぶような演奏を聴かせてくれた。

 吉﨑理乃の指揮は見た目にも拍が正確でしっかり振る。オケの手綱さばきも手堅い。取り立てて目立つような指揮ぶりではないが、つくりだす音楽は決して凡庸なものでない。今後が楽しみな指揮者の一人である。

2024/12/13 ノット×東響 「ばらの騎士」2024年12月14日 15:20



東京交響楽団 特別演奏会 
 R.シュトラウス/オペラ「ばらの騎士」
        (演奏会形式、全3幕)

日時:2024年12月13日(金) 17:00開演
会場:サントリーホール 大ホール
指揮:ジョナサン・ノット
演出監修:サー・トーマス・アレン
出演:元帥夫人/ミア・パーション
   オクタヴィアン/カトリオーナ・モリソン
   ゾフィー/エルザ・ブノワ
   オックス男爵/アルベルト・ペーゼンドルファー
   ファーニナル/マルクス・アイヒェ
   マリアンネ/渡邊仁美
   ヴァルツァッキ/澤武紀行
   アンニーナ/中島郁子
   警部・公証人/河野鉄平
   元帥夫人家執事・料理屋の主人/髙梨英次郎
   テノール歌手/村上公太
   動物売り・ファーニナル家執事/下村将太
   合唱/二期会合唱団


 一昨年の「サロメ」、昨年の「エレクトラ」に続いて、今年は「ばらの騎士」である。これでノット×東響によるR.シュトラウスのコンサートオペラが完結する。
 「サロメ」「エレクトラ」の公演はセンセーショナルにして衝撃の出来事だった。「ばらの騎士」となるとモーツァルトやJ.シュトラウスの影がチラチラする。R.シュトラウスによる過去を回顧し引き受けながらの、微妙な均衡によって成り立っている20世紀の音楽をノットと東響がどう描くのか期待は高まる。

 オケの規模は「サロメ」「エレクトラ」ほど大きくない。それでも弦は14型、特殊楽器がちらほら、打楽器奏者も8、9人が待機している。舞台前面は以前の2公演よりはちょっと余裕があり、上手に小さな丸テーブルと椅子が2脚、下手にソファーが置いてある。P席は空いていて小ぶりの合唱団が何度も出入りした。

 第1幕の前奏曲から精妙でありつつ躍動的な音楽が鳴る。注意すると活き活きとした音符の動きのなかに翳りがさして上々の滑り出し。元帥夫人とオクタヴィアンが登場しソファーの上で戯れる。のっけから不倫の現場とは穏やかでない。ミア・パーションは深紅のドレス、カトリオーナ・モリソンは上背があってシンプルな衣装が似合っている。両者の絡み合う声が魅惑的だ。
 オックス男爵が現れ、がらりと雰囲気が変わる。アルベルト・ペーゼンドルファーは声といい演技といいオックスのイメージそのもの。その助平なこと、自己顕示欲の強いこと、男の馬鹿さ加減に思わず苦笑する。オックスは「フィガロの結婚」でいえば伯爵、さらにいえばドン・ジョヴァンニと対比できるかも知れないが、貴族の嗜みや気品など更々なくて滑稽で粗野そのもの、その姿はわれわれに限りなく近い。だから、男の厭らしさには辟易するものの、あまりにも身近な存在として親しみさえ覚えてしまう。レポレッロの“カタログの歌”のような台詞を自ら喚き、散々ドタバタを演じて舞台から下がる。
 激しい音楽が転機を迎える。ノットと東響の演奏は優しさを増していく。元帥夫人は時の移ろいと老いゆく自分に溜息し、オクタヴィアンにも別れる定めだと説く。「夜中に起きて、すべての時計を止めるの…」と歌いだすと、もう涙を止めようがない。「もしよければプラーター公園に来て、馬車の隣で馬に乗るといいわ…」と、一緒には馬車に乗らないことで別れを暗示する歌となって、観客はついに泣き崩れる。
 ミア・パーションはここ十数年来、「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルディリージ、「フィガロの結婚」の伯爵夫人ロジーナ、そしてこの元帥夫人マリー・テレーズと聴いて来た。たしかに御歳を召されたが、容姿、声の美しさは全く衰えない。いま望みうる最上の元帥夫人に出会っているのだろう。
 
 第2幕はファーニナル家の広間。オクタヴィアンが「ばらの騎士」としてファーニナル家に到着する音楽の華やかで煌びやかなこと。
 ゾフィーのエルザ・ブノワは失礼ながら写真で見るよりずっと可憐で可愛い。修道院から連れ戻された少女そのもの。当主ファーニナルのマルクス・アイヒェはゾフィーの父親として若々しすぎる感じはするが、声はよく伸びてなかなかの好感度。
 野卑なオックス男爵が舞台に上がるとゾフィーやオクタヴィアンとひと悶着、オクタヴィアンと刃傷沙汰となり怪我をして大騒ぎとなる。てんやわんやの末、オックス男爵はワインで憂さを晴らし、逢い引きの手紙をもらい、上機嫌となって「俺なしでは、毎日が君にとって不安。俺となら、どんな夜も君には長すぎない」と独白が始まり、彼の一人舞台となる。有名なワルツが会場に響き渡るころには目頭がまた熱くなる。
 ノットと東響は、「サロメ」の“七つのヴェールの踊り”での完全無欠な舞踏曲と同様、これ以上ない“オックスのワルツ”を奏でた。第2幕を終えたあとの会場は熱狂的となり、ノットとペーゼンドルファーが呼び返されていた。

 第3幕の冒頭、居酒屋を「お化け屋敷」に改造する場面での音楽のそれらしさはまさにR.シュトラウスの練達の技、ノットの指揮のもと東響はオケの表現力の幅広さをまざまざと見せつけてくれた。
 女装したオクタヴィアンと彼(彼女?)を口説くオックス男爵、そこに亡霊や警部たちが入り乱れ、ドタバタ劇が始まる。呼ばれてやってきたファーニナルとゾフィーは男爵の醜態に怒り、婚約は破談だとわめき散らす。元帥夫人が登場し、オックスに「何も言わずに立ち去るよう」命じ、男爵はすべてを諦めることになる。この場面でのミア・パーションは緑のドレスに着替え凛とした佇まいを崩さない。
 ここからのマリー・テレーズとオクタヴィアンとゾフィーとの三重唱は、やはりこの作品の最大の聴きもので、まさに陶酔の世界。オケは繊細極まる伴奏で応える。壊れてゆくものの美しさ、滅びの美ともいうべきか、残酷ではあってもこれが定めだと納得させてくれる終幕だった。

 耽美で爛熟の音楽を書いたといわれるR.シュトラウスだが、実生活ではドイツの崩壊とともに歩まざるをえなかった。それは独墺音楽の終焉と軌を一にしていたのだろう。すでに「ばらの騎士」の音楽に、音楽の未来に対する憂いと消滅とを予兆してしまう。
 それにしても昨夜の「ばらの騎士」は、サー・トーマス・アレンの水際立った演出もあって、大仰な装置がないだけで何の不満のない本格的な歌劇だった。コンサートオペラの集大成として究極ともいえるべきものであり、10年を経たノットと東響の到達点でもあった。ひとつの金字塔を打ち立てたといっても言い過ぎではない。
 明日15日、ミューザ川崎でも同一プログラムが上演される。東京公演と同様、完売のはずである。

2024/11/23 音大オケ・フェス 昭和音大・藝大・桐朋学園2024年11月23日 21:27



第15回音楽大学オーケストラ・フェスティバル2024
    昭和音大・藝大・桐朋学園

日時:2024年11月23日(土) 15:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
出演:昭和音楽大学(指揮/時任康文)
   東京藝術大学(指揮/下野竜也)
   桐朋学園大学(指揮/沼尻竜典)
         (チェロ/上野 通明)
         (ヴィオラ/田原 綾子)
演目:バルトーク/管弦楽のための協奏曲(昭和)
   三善晃/焉歌・波摘み(藝大)
   ベートーヴェン/「レオノーレ 第2番」(藝大)
   R.シュトラウス/「ドン・キホーテ」(桐朋)


 首都圏の音楽大学によるオーケスト・フェスティバルの季節がやってきた。今年で第15回となる。昨年、上野学園が新規の学生募集を停止したことから1校減った。今年も昨年同様8大学の参加である。
 また、従来はミューザ川崎と東京芸術劇場で各2公演、4日間の開催であったが、今年は芸術劇場が改修工事で休館のため、ミューザ川崎で2公演、すみだトリフォニーホールで1公演の計3日間に変更となった。ミューザ川崎では2公演とも3大学が競演する。

 最初は昭和音大のバルトークの「オケコン」、指揮は時任康文。
 難しい曲で実演ではほとんど満足したことがない。「序奏」「対による提示」「哀歌」と聴きながら、やはり演奏するに難物だな、と声に出さないまま呟いていたが、「間奏曲」の例のショスタコーヴィッチのパロディあたりから、俄然、精彩を帯びてきた。「フィナーレ」は生命力に溢れ、なかなかの盛り上がりで感心した。

 藝大は序曲「レオノーレ 第2番」と三善晃の「焉歌・波摘み」の2曲。
 下野竜也のベートーヴェンは力強い。「焉歌・波摘み」はチェロの高音域のすすり泣きから始まり、慟哭、怒りを経て、ヴィオラに先導された弦の子守歌で終る。この間、管楽器と打楽器は狂奔するばかりでなく、静謐な祈りの調べを奏でる。鎮魂歌である。
 そういえば「美しき水車小屋の娘」の終曲は小川の子守歌だった。「マタイ受難曲」の終曲も子守歌のように聴こえないこともない。子守歌は古今東西、究極の魂振なのだろう。
 音大フェスティバルで何度か藝大を聴いてきた。下野は間違いなく藝大から最高のパフォーマンスを引き出した。

 最後は桐朋学園。チェロの上野通明とヴィオラの田原綾子が加わり、沼尻竜典が指揮するR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」。
 沼尻はいつも手堅い。あまり驚きがない演奏もママあるが、時としてとてつもない音楽をつくることがあって目を離せない。まさしく今日がそう。まったく隙がない。絶妙のバランス感覚と色彩感。自然な息遣いと無理のない進行。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅が続く。次々と景色が目の前に現れ、ドン・キホーテの狂気と悲しみが浮かび上がる。
 上野通明と田原綾子の名演ももちろんだが、精密なアンサンブル、緻密な弦楽器、粒の揃った管楽器など、桐朋学園の実力を再認識した。過去の音大オケ・フェスを通しても屈指の演奏だった。