2026/7/29 FSM:大野和士×都響 ブリテンとシューマン2026年07月29日 21:34



フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2026
  東京都交響楽団

日時:2026年7月29日(水) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:大野 和士
共演:ヴァイオリン/竹澤 恭子
演目:ブリテン/青少年のための管弦楽入門
   ブリテン/ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
   シューマン/交響曲第4番 ニ短調


 今年のFSMはブリテンでスタート。猛暑のなか客の入りは6、7割程度、1階と2階の正面はほぼ埋まっていたが、3、4階はガラガラ、P席や2階の舞台横も空席のほうが目立っていた。たしかにコンサートを楽しむような季節じゃない。

 ベンジャミン・ブリテンは声楽を含んだ「戦争レクイエム」や歌劇「ピーター・グライムズ」などの大曲で有名だけど、「青少年のための管弦楽入門」や「シンプル・シンフォニー」「4つの海の間奏曲」などの管弦楽曲も人気があってよく演奏される。
 「青少年のための管弦楽入門」はヘンリー・パーセルの主題を使って“変奏曲とフーガ”の形式で書いた楽曲。音楽教育を兼ねた解説付きの公演が一般的だが今日は音楽のみ。主題は総奏→木管→金管→弦→打楽器→総奏と演奏され、その後、楽器ごとに各楽器の特性を活かした旋律を披露する。終盤はピッコロを合図にフーガの追っかけっこがはじまり、そのフーガにパーセルの主題が重なるコーダが興奮させてくれる。楽器紹介音楽なれど普通の管弦楽曲としても非常よく出来ている。

 ソロの竹澤恭子が登場してブリテンの「ヴァイオリン協奏曲」。失礼ながら竹澤は御幾つになられたのだろう。前橋汀子よりはかなり若いが還暦くらいか? 昔はときどきお二人の協奏曲を聴かせてもらった。
 第二次世界大戦前夜、ブリテンが20代半ばで書いた「ヴァイオリン協奏曲」は、古典的な3楽章形式で切れ目なく演奏される。冒頭はティンパニとシンバルによるためらいがちな行進曲風の音型で始まるが、独奏ヴァイオリンが哀愁を帯びた美しい旋律を弾く。竹澤は伸び伸びとした表現の一方で豊かな叙情性をもつ。親しみがありながら気品のある哀歌を奏でてくれた。第2楽章はスケルツォ風で、激しさのなかでヴァイオリンの超絶技巧が全開となる。終盤には長大で劇的なカデンツァが用意されている。竹澤のヴァイオリンは力強く緊迫感をはらみ、ヴァイオリンから最大限のエネルギーを引き出した。終楽章はパッサカリア。トロンボーンが提示した重厚な主題が様々に変奏されていく。コーダは大野×都響が細心の注意を払った弦のピチカートとミュートをつけた金管の弱音、ハープの爪弾きを背景に、竹澤のヴァイオリンが昇天するかのごとく上り詰め静かに曲が閉じられた。20世紀音楽として最良の美しさであった。

 シューマンの「交響曲第4番」は「第1番」と同じ年に書かれたが10年後に改訂され、出版年次から「第4番」となった。もとはクララの誕生祝としてプレゼントされたものらしい。全曲休みなしで続けて演奏される。
 暗く幻想的な序奏ではじまり、その後、速度を増して主部に突入する。繰り返される転調や楽想の転換が印象的で、不安と情熱とが入り交じりながらエネルギッシュに進行する。アンダンテは弦楽器のピチカートを伴奏にしてオーボエとチェロのソロが重なる。中間部ではヴァイオリンの繊細な独奏があり、穏やかでロマンティックな気分が充満する。スケルツォは力強くリズミカルだけど浮き浮きした雰囲気にはほど遠い。トリオでは前楽章のヴァイオリンの旋律が回帰して懐かしさが戻ってくる。最終楽章は霧に包まれたような序奏から輝かしいトランペットのファンファーレとともに明るく劇的な主部となり、開始楽章の主題も織り交ぜながら熱狂的に全曲を締めくくる。ここはベートーヴェンの「運命」を下敷きにしたのだろう。
 シューマンの交響曲は管楽器の重ね合わせが多く、オーケストレーションは重厚だけど濁りが目立つことがある。大野はこれを逆手にとり複雑に絡み合う声部をバランスよくまとめ、分厚く推進力のある堂々とした音楽を明快に鳴らした。ファンタジーや夢想的な世界を大切にしつつも、クライマックスでは劇的でエネルギッシュな響きを都響から引き出した。翳りや葛藤を緻密なアンサンブルで表現すると同時に、情熱を迸らせ感情の爆発を率直に描いた。

 それにしても、交響曲が誕生プレゼントとはなんとも豪奢だが、クララを描いたにしてはイメージがそぐわない。一応、「第4番」は暗から明へ、苦悩から歓喜へという構造といえるから、シューマンはクララとの結婚までの苦難と勝利を音にしたものなのかも知れない。
 クララはこの交響曲を贈られてどう思ったのだろう。後年、ブラームスが初稿版を出版しようとしたときクララは賛成をしなかったようだから、誕生祝の初稿より現在演奏される10年後の改訂版のほうに愛着があったかに思える。
 イメージがしっくりこないのはシューマンの管弦楽法にも原因がある。弦楽器は刻みが目立ってて音が整理しづらいし、木管楽器は一斉に吹奏させるから重苦しい。はっきり聴かせるためには金管楽器でアクセントを付けるとか、打楽器をうまく打ち込めば分かりやすくなるはずで、マーラーなどはオーケストレーションを改変して演奏していた。
 さて、クララ自身も芸術家ではあったけど、シューマンもブラームスも実生活の相手として相応しかったのかどうか。シューマンは精神を病み、ブラームスはマザコンで、普通の生活者としては微妙なところだ。芸術と生活という領域を一人の女性がどう折り合いをつけて生き抜いたのか、この辺りのクララの気持ちを知りたいと思う。大野×都響のシューマンの「交響曲第4番」を聴きながら、こんな他愛もないことをぼんやりと考えていた。

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