2021/5/2 大植英次×東響&木嶋真優のチャイコフスキー2021年05月03日 08:32



東京交響楽団 川崎定期公演 第79回(延期公演)

日時:2021年5月2日(日)14:00
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:大植 英次
共演:ヴァイオリン/木嶋 真優
演目:チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35
   チャイコフスキー/交響曲第4番 へ短調 op.36

 中止となった2021年1月17日の公演を、改めて日程調整し延期開催する演奏会。
 前回はリハーサル中にウーハンコロナの陽性者が発生したため急遽とり止めに。今回は隣接の東京都が緊急事態宣言中だが、ここ川崎はぎりぎりセーフで無事開催の運びとなった。

 チャイコフスキーは楽器の活かし方が上手い。各楽器の一番美味しいところを引き出してくる。響きは重苦しくならず音量もたっぷりある。どの曲も開放的でありながら感傷的というイメージ。でも、苦手。
 なぜ好きになれないのか、よく分からない。あまりに甘美で哀愁に満ちたメロディが、お涙頂戴的に思えて嫌なのか、音楽以前に音響的な面白さを感じ取れないせいなのか。

 チャイコフスキーの演目は避けることが多いのだが、定期演奏会のプログラムに含まれていると仕方ない。旧ソ連を含めロシア音楽は、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチなど好んで聴くほうだけど、チャイコフスキーとなると尻込みをしてしまう。如何せんどうにも生理的に合わない。

 前半は「ヴァイオリン協奏曲」。
 木嶋さんの音は厚くよく通る。大音響のオケからも浮き上がって、はっきりと聴こえてくる。ソリストとしては大きな武器だろう。美音ばかりではないが情緒纏綿とたっぷり歌う、テンポの揺れも大きい、ちょっと時代がかった厚化粧気味の演奏。これもチャイコフスキーだからか。伴奏の大植のせいもあるかも知れない。緩徐楽章の木管との絡みなど美しい箇所はいっぱいあったが、やはり居心地の悪いまま聴いていた。

 後半は「交響曲4番」。
 大植はねちっこく濃厚、微に入り細を穿つ演奏、緩急は極端。こぶしが回ったロシア風演歌といいたいぐらい。チャイコフスキーの音楽そのものが感情過多なのだから、演奏はさりげなくすっきりと、淡々と進めたほうが、より作家の悲しみが伝わるのではないかと思うが、解釈はそれぞれ。こう演奏したくなる気持ちは分からないでもない。もちろん共感はできないけど。

 チャイコフスキーは時代に取り残された?
 書いた年代の問題じゃない。バッハなどは時代時代における新しい演奏、新しい発見があって生き残ってきた。モーツァルトやベートーヴェンだって、そう。チャイコフスキーはどうなんだろう、こういった演奏では音楽そのものがあまりにも古めかしい感じがする。もっともわずかな機会を捉えて決めつけるのは僭越である、と急いで付け加えておく。

 同じ月の中旬には、ノットの代役で大植が再登場する。
 演目のブラームス「交響曲2番」は大好きな曲、もう一度、大植をじっくり聴いてみようとは思っている。この調子でブラームスを振られたら目も当てられないが…

ニワフジ2021年05月05日 08:37



 ニワフジ(庭藤)が見頃となってきた。
 フジと名付けられているが、蔓性のフジとは全く異なるマメ科の落葉小低木である。川岸の岩場などに自生し「岩藤」とも呼ぶ。山野草の類で、近年、自生ものは希少らしく、園芸品種にしてもあまり出回らないようだ。

 昨年、この時期に花の付いた幼木をたまたま入手した。冬には葉が落ちて頼りない株立ちとなったが、この春、芽吹いて、今またフジの花に似た赤紫の花をたくさん咲かせている。丈夫で頑健、手がかからず育てやすい。
 本来のフジとは違って蔓は延びず、背丈は大きくならない。葉を四方八方に伸ばし、縦よりは横へと広がる。株の根元から10~20cmも離れたところで根萌芽が幾つか顔を出すが、樹形は比較的コンパクトにまとまる。花だけでなく新緑もとても綺麗だ。

 さて、今日は「こどもの日」。五節句のひとつ「端午の節句」、「菖蒲(尚武)の節句」とも。
 季節の変わり目、春が終わり、これから梅雨を迎え、夏へ。今年も、はや三分の一が終わった。まさに“無常迅速 時不待人”。せめて、柏餅か粽でも食べるとしよう。

2021/5/9 井上喜惟×マーラー祝祭オーケストラ マーラー交響曲3番2021年05月09日 18:58



マーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会

日時:2021年5月9日(日)14:00
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:井上 喜惟
共演:アルト独唱/蔵野 蘭子
   児童合唱/横浜少年少女合唱団、カントルムみたか
   女声合唱/東京オラトリオ研究会
   ゲスト・コンサートマスター/岩切雅彦
演目:マーラー/交響曲3番 ニ短調

 マーラーの音楽を一聴すると、民謡や軍楽、乱痴気騒ぎや詠嘆などの様々を、強弱も緩急も音量の大小も脈略なく詰め込んで、矛盾の塊を抛り出したように思える。
 聖と俗とが一緒くたになり、曲の統一とか統合とかにはほど遠い。それが20世紀の半ばを過ぎた60年代に入ってから、その当時の空気に奇妙にマッチしていたためか、急速に人気を得てきた。
 LP初期のモノラルにはワルターとかメンゲルベルクとか評判の音盤もあったが、全曲は揃わなかった。ステレオの出現といった録音技術の進歩に与る部分も大きかったのだろう。ショルティやバーンスタインの全曲盤の果たした役割も見逃せない。

 御多分に漏れずマーラーの交響曲は、音盤でも実演でも「1番」からはじまって「2番」「4番」に馴染み、次いで「5番」「6番」「8番」を聴き、最後に「3番」「7番」「9番」へと進んだ。後回しとなった「3番」はとにかく長い、「7番」はヘンテコ、「9番」は難しい曲だった。

 「3番」は、6楽章構成で演奏時間は100分を越える長大な交響曲。最初の構想ではもう1楽章あった。今ではそれは「4番」の最終楽章へ収まっていることは有名な話。第1楽章は行進曲、ここだけで30分以上を要す。主題が4つもあり、展開部と再現部ではトロンボーンの独奏がある。第2楽章はメヌエット、第3楽章はスケルツォ。ひとつの交響曲のなかにメヌエットとスケルツォが一緒に入っているのは珍しい。第3楽章の中間部ではポストホルンが難しいソロを吹く。第4楽章は神秘的なアルトの独唱、歌詞はニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』より。第5楽章は児童合唱が鐘の音を模した「ビム・バム」を繰り返し、アルトと女性合唱が「3人の天使が美しい歌を…」、と歌い出す。最終楽章は美しいアダージョ、嘆きと救済の音楽を奏でる。

 「3番」をはじめて面白く聴いたのは、インバルのN響海外公演、そのTV放映だったと思う。ひどく感心した。実演でもやはりインバルが都響と演奏した「3番」に惚れ込んだ。
 マーラーの音楽はその構造ゆえに、各断片をちゃんと聴かせようとすると、部分部分は確かに感じ入るが、全体として、はて?何か残ったのだろうか、ということになる。そして、やはりというか、実演ではそういった演奏がほとんど。それでも演奏会に足を運んで、その外見に驚くのだが、何かマーラーの思いが完全には掬い上げられていないのではないかという不満をずっと引きずっていた。
 インバルは違う。あんなに部分の奇天烈な音楽が、曲の進行とともに収斂され、マーラーが描こうとした世界が全体のなかで浮かび上がってくる。喧噪や不協和音、大げさな嘆きや甘さの背後に、優しく穏やかで平和な世界が見えてくる。波だった海面でありながら海底ではゆったりと流れている音楽。凄いことだ、これはマーラー演奏のひとつの到達点、マーラーをこう聴かせるのは特別のことではないかと思った。
 それ以来、マーラーの「3番」はプロ、アマ問わず、機会があれば聴くようにしてきた。
 
 今回はマーラー祝祭オーケストラ。指揮者の井上喜惟の提案により2001年に発足したアマチュアオケ。すでにマーラー全曲のサイクルを終え、2巡目に入っているようだ。
 アマオケを聴くのは、3年ほど前に坂入健司郎指揮の東京ユヴェントスフィルのマーラーの「8番」以来。「3番」といい「8番」といい、アマオケが取り組むには、無謀としかいいようがない。
 たしかに響の薄さ、音色の平板さ、演奏の瑕瑾など言挙げしたらキリない。しかし、100人以上の人たちが、1年以上もかけて巨大な曲に立ち向かい、その成果を披露する。そういった試みをアマオケが挑戦している。そのことにただただ感銘を覚える。
 
 今日のプログラムノートのなかに、楽団員の方が調べた「アマチュア・オーケストラによるマーラー交響曲3番演奏履歴(2006-2020年)」が掲載されていた。これによると15年間に少なくとも19回「3番」が開催されているという。「3番」だけで毎年1回か2回アマオケが演奏しているわけだ。何という無鉄砲な。

 わが国にはこういった集まりが幾つあるのだろう。ネット上には「オケ専」とか「i-Amabile」とか「Concert square」などアマチュアの演奏団体を扱った情報サイトもある。クラシック音楽の危機が叫ばれて久しいが、西洋音楽に本格的に触れてから百数十年、その間には欧米との仲違いがありながら、今ではそのすそ野は広大なものとなっている。
 日本人の受容能力の素晴らしさに改めて感嘆した一時だった。

之を楽しむ者に如かず2021年05月13日 06:49



書 名:『之を楽しむ者に如かず』
著 者:吉田 秀和
刊行年:2009年
出版社:新潮社

 久しぶりに、いやいや久しぶりどころではない、何十年ぶりかに吉田秀和の本を手に取った。白水社から出ていた全集のうちの10巻ほどを読んだのが最後だったから、どれほど前のことなのか。
 この本も刊行後すでに10年以上経っている。『レコード藝術』に連載された最晩年の「之を楽しむ者に如かず」と「今月のディスク」をまとめて一冊にしたものだ。

 『レコード藝術』という月刊誌も懐かしい。LPを聴き始めて暫くはほぼ毎月購読していたが、吉田秀和のこれら連載の頃には、時々本屋で立ち読みするくらいだったけど。
 「今月のディスク」は2000年から2003年にかけて、「之を楽しむ者に如かず」は2006年から2009年にかけて執筆されている。彼は20012年(平成24年)98歳で亡くなっているから、このふたつの連載は90歳を境に、その前後に書かれたものとなる。

 怪物である。頭の衰えも筆の衰えもみられない。「之を楽しむ者に如かず」とは『論語』からの借用。その『論語』や『徒然草』の箴言を、融通無碍に音楽評論に組み込んでしまうという離れ業もみせる。
 作曲家としてはモーツァルト、奏者としてはピアニストが比較的頻繁に取り上げられるが、主題は楽譜と演奏、作曲家と演奏家との緊張関係を解きほぐそうとの試み。音楽という再現芸術のあり方をゆるやかに思索する。あちらを見ながらこちらを見て、道草や寄り道を厭わず、前後左右の空間を飛び越え、昔の実演から最新の音盤まで時間を超越し、ああでもないこうでもないと独白する。
 実際、議論は前に進んでいるのか後戻りしているのか、よく分からなくなることもある。そのうち思索の道筋を一緒に辿っているような感じがして、快感を覚えてくる。そうそう、比べるのはもちろん適切ではないが、ブルックナーの音楽を聴いているようなところがあるな、とチラリと思う。
 
 「今月のディスク」のほうは、評論のマトとなる音盤や作品がはっきりしているせいか、論旨がより真っ直ぐで、直球を投げ込んで来るような爽快感がある。著者の好き嫌いや作家、演奏家に対する評価も、情緒的な言い分だけではなく技術的な側面も含めてかなりはっきりと打ち出している。
 毎回、音盤を3,4種類紹介することが多いが、取り上げる作家はバッハ、ヘンデルからメシアン、ブリテンまで、楽曲は声楽、交響曲から室内楽、独奏曲まで、とうぜん音盤すべてのジャンルに及ぶ。その多彩な世界に向けて言葉を駆使し、縦横無尽に羽ばたいてみせる。
 そして、話の持って行き方は、直球とはいえ、その目の前の事象だけに終始するのではなく、やはり空間と時間を自由に行き来し、政治社会と音楽との関連にまで、さりげなく筆は及ぶ。読み手は、著者の知識と経験と見識に唖然としながら、言葉の海に漂う。やはり、これは一種の快楽というほかない。

 そうだった、彼の音楽評論は、作曲技法的なことや演奏技術的なことに関しては、こちらの知識不足で百分の1どころか千分の1も理解できないが、茫漠たる視野の拡がり、積み重なった歴史に圧倒され、日本語の柔らかさと鋭さ、情と理の配合、文章の自在さに引き込まれて読み進んでしまう。
 今後の楽しみを見つけた気分だ。彼の新しい作品はもう現れないにせよ、まだまだ目を通していない著作はたくさんある。逍遥するように、気ままに、思いついたときに、これからも少しずつ読んでみようか、と思っている。

2021/5/15 大植英次×東響&北村朋幹 武満・バルトーク・ブラームス2021年05月15日 20:26



東京交響楽団 名曲全集 第167回

日時:2021年5月15日(土)14:00
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:大植 英次
共演:ピアノ/北村 朋幹
演目:武満徹/鳥は星形の庭に降りる
   バルトーク/ピアノ協奏曲第1番 Sz.83
   ブラームス/交響曲第2番 ニ長調 op.73

 名曲全集とはいえノット監督らしいプログラム。武満の代表曲の一つにバルトークのピアノコンチェルトとブラームスの「交響曲2番」。バルトークは「3番」ではなくオケもピアノも難易度が高い「1番」、独奏者はピエール=ロラン・エマールの予定だった。
 ところが、監督もピアニストも来日がかなわず、指揮者は大植に、ピアニストは北村さんに変更となった。ノットの武満、ピエール=ロラン・エマールとのバルトークは是非とも聴きたかったが止む無し。
 ただ、東響のHPによると、ノットはスイス・ロマンド管弦楽団関係施設における感染者発生のため来日が遅れたが、5月10日の時点ですでに入国しており、22日と27日の特別演奏会にむけて待機期間に入っているという。27日には1年半ぶりにノットを聴くことができそうだ。

 『武満徹 自らを語る』という本がある(青土社、2010年)。還暦前の武満のインタビューをまとめたもの。その中に今回の「鳥は星形の庭に降りる」について語った部分がある。ちょっと引用してみる。
 <ぼくは自分の音楽を作るときに、……いろんなかたちを作るとき、……そんなにかたちってもの自体には、音楽的な、よく言われている、たとえば主題が出てどうでこうなるとか、ソナタとかロンドとかなんとか、あんまりそういうのには興味ないんですよ。そうじゃなくて心理的に音を聴いて、そこでかならずしも視覚とは言わないけど、匂いでもなんでもいいんですけど、なにかある、こう心象的なものを作りたいと思いますね。『鳥は星形の庭に降りる』というのは、十三、短い小見出しがあって、まず「飛ぶ」ということ、それから「雲から見える」とか、……「欲望の鳥たち」とかですね、自分でそういう見出しを作ったんですね>
 <でも、それは楽譜には書いてないですね。---自分のスケッチには書いてあったりするけどね……だから、全部一つ一つエピソードがある。ひじょうにこう視覚的な物語がある>
 と、こんなことを喋っている。
 しかし、こちらの耳のせいか13あるというエピソードの区別はつかない。過去にもこの曲を聴いているが、毎回迷路に入り込んだように道筋が辿れなくなる、今回もそう。美しい部分はあるにせよ、視覚的なイメージも物語も浮かんでこない。
 世界のタケミツというが、こちらの感受性の許容量からすれば、せいぜいサントリーリザーブのCM音楽ぐらいが限度である

 バルトークの「ピアノ協奏曲第1番」は、日本の時代区分では昭和のはじめに完成した。名ピアニストでもあったバルトーク自身が弾くための作品で、初演はフルトヴェングラーが指揮をしたという。
 バルトークは「ピアノ協奏曲第1番」について次のような言葉を残している。“私の最初の協奏曲は、自分でも成功したとは思います。しかしスタイルは多少難解で、おそらくオーケストラや聴衆には非常に難しい作品かもしれません”と。
 ピアノはバルトークらしく打楽器的な扱いで技巧的。ソリストの北村さんは達者。管弦楽の伴奏はストラヴィンスキーを彷彿とさせ、打楽器群が大活躍する。
 音楽はもちろん聴いて楽しむものだが、曲によっては指揮者の捌きぶりを観ることで分かった気になることもある。不純な聴き方と非難されてもバルトークの幾つかにはその傾向がある。大植のように堅苦しく不動に近い指揮ぶりでは足取りが重そうで面白さが半減する。スリリングでエキサイティングなこの作品は、やはりノット監督向けの曲であったようだ。

 ブラームスの交響曲は、ベートーヴェンの重圧下で創られたことからしてベートーヴェンと同様、素晴らしい演奏に出会ったときの衝撃の大きさは計り知れないけど、反対につまらなくて退屈極まりないこともママある。演奏会の当り外れが大きい。
 大植はやはりねちっこく濃い。大げさに言うと2楽章など通常の倍くらい時間がかかったのではないかと錯覚したくらい。3楽章は先日のチャイコフスキーが眼前に現れたよう。最終楽章のコーダの前の急減速と急加速もちょっとやり過ぎ。だが、全体としてはなかなか面白かった。
 大植は譜面を置いて振った前半の2曲とは大違いで、表情も動きも思い入れたっぷり。この指揮について行く東響の対応力にも感心した。ブラームスは各楽器の重ね方が渋く分厚いから、逆に手練手管を労してもチャイコフスキーのように、あざとさがあまり目立たないのかも知れない。美しい音に助けられた部分もあろう。結構楽しませてもらった。
 ことブラームスに限っては当りに属する演奏会だった。