之を楽しむ者に如かず2021年05月13日 06:49



書 名:『之を楽しむ者に如かず』
著 者:吉田 秀和
刊行年:2009年
出版社:新潮社

 久しぶりに、いやいや久しぶりどころではない、何十年ぶりかに吉田秀和の本を手に取った。白水社から出ていた全集のうちの10巻ほどを読んだのが最後だったから、どれほど前のことなのか。
 この本も刊行後すでに10年以上経っている。『レコード藝術』に連載された最晩年の「之を楽しむ者に如かず」と「今月のディスク」をまとめて一冊にしたものだ。

 『レコード藝術』という月刊誌も懐かしい。LPを聴き始めて暫くはほぼ毎月購読していたが、吉田秀和のこれら連載の頃には、時々本屋で立ち読みするくらいだったけど。
 「今月のディスク」は2000年から2003年にかけて、「之を楽しむ者に如かず」は2006年から2009年にかけて執筆されている。彼は20012年(平成24年)98歳で亡くなっているから、このふたつの連載は90歳を境に、その前後に書かれたものとなる。

 怪物である。頭の衰えも筆の衰えもみられない。「之を楽しむ者に如かず」とは『論語』からの借用。その『論語』や『徒然草』の箴言を、融通無碍に音楽評論に組み込んでしまうという離れ業もみせる。
 作曲家としてはモーツァルト、奏者としてはピアニストが比較的頻繁に取り上げられるが、主題は楽譜と演奏、作曲家と演奏家との緊張関係を解きほぐそうとの試み。音楽という再現芸術のあり方をゆるやかに思索する。あちらを見ながらこちらを見て、道草や寄り道を厭わず、前後左右の空間を飛び越え、昔の実演から最新の音盤まで時間を超越し、ああでもないこうでもないと独白する。
 実際、議論は前に進んでいるのか後戻りしているのか、よく分からなくなることもある。そのうち思索の道筋を一緒に辿っているような感じがして、快感を覚えてくる。そうそう、比べるのはもちろん適切ではないが、ブルックナーの音楽を聴いているようなところがあるな、とチラリと思う。
 
 「今月のディスク」のほうは、評論のマトとなる音盤や作品がはっきりしているせいか、論旨がより真っ直ぐで、直球を投げ込んで来るような爽快感がある。著者の好き嫌いや作家、演奏家に対する評価も、情緒的な言い分だけではなく技術的な側面も含めてかなりはっきりと打ち出している。
 毎回、音盤を3,4種類紹介することが多いが、取り上げる作家はバッハ、ヘンデルからメシアン、ブリテンまで、楽曲は声楽、交響曲から室内楽、独奏曲まで、とうぜん音盤すべてのジャンルに及ぶ。その多彩な世界に向けて言葉を駆使し、縦横無尽に羽ばたいてみせる。
 そして、話の持って行き方は、直球とはいえ、その目の前の事象だけに終始するのではなく、やはり空間と時間を自由に行き来し、政治社会と音楽との関連にまで、さりげなく筆は及ぶ。読み手は、著者の知識と経験と見識に唖然としながら、言葉の海に漂う。やはり、これは一種の快楽というほかない。

 そうだった、彼の音楽評論は、作曲技法的なことや演奏技術的なことに関しては、こちらの知識不足で百分の1どころか千分の1も理解できないが、茫漠たる視野の拡がり、積み重なった歴史に圧倒され、日本語の柔らかさと鋭さ、情と理の配合、文章の自在さに引き込まれて読み進んでしまう。
 今後の楽しみを見つけた気分だ。彼の新しい作品はもう現れないにせよ、まだまだ目を通していない著作はたくさんある。逍遥するように、気ままに、思いついたときに、これからも少しずつ読んでみようか、と思っている。