2021/10/24 ノット×東響 モーツァルト「レクイエム」2021年10月24日 20:52



東京交響楽団 名曲全集 第170回

日時:2021年10月24日(日)14:00
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ソプラノ/三宅 理恵
   メゾソプラノ/小泉 詠子
   テノール/櫻田 亮
   バスバリトン/ニール・デイヴィス
   合唱/新国立劇場合唱団
演目:デュティユー/交響曲 第1番
   モーツァルト/レクイエム K. 626
    「コンムニオ」の前に、リゲティ作曲
    「ルクス・エテルナ」を演奏。


 前日のショスタコーヴィチの毒が滓のように残ったまま川崎に向う。
 ラザレフの容赦のない音楽に打ちのめされ、気持ちが奮い立たない。こういうときは2、3日ぼんやりとしていたいのだが、致し方ない。
 ご丁寧にも、次の日がモーツァルトの「レクイエム」というのも、相当なものだ。二重苦になりそうな予感がした。

 「レクイエム」の前にデュティユーの交響曲。
 デュティユーの「交響曲第1番」は戦後間もなく創られた。4楽章形式、30分ほどの古典的な外観。中身はかなり自由な音楽になっている。
 1楽章はパッサカリア。厳密な感じは受けない、むしろ、形式のないまま書かれたように聴こえる。茫漠とした低絃のピチカートが響き、各種の楽器がそれを繰り返して行く。
 2楽章はスケルツォ。ドビュッシー風の響きも聴こえる。木管と金管がからみあって面白い。
 3楽章は緩徐楽章の間奏曲。無調ならではのけだるさ。雨の街を彷徨い歩くとき、後ろで鳴っていてもよさそうな雰囲気がある。
 4楽章は変奏曲。冒頭のファンファーレの後、主題が提示され変奏して行く。緩急が頻繁に交代し、打楽器も効果的。最後は速度を落とし、消えるように閉じる。
 デュティユーは、ブーレーズ、メシアンと並ぶフランス現代音楽の大家らしい。メシアンは派手、ブーレーズは素っ気ないが、デュティユーは適度に色彩感があり優しい音楽で聴きやすい。けれど、また聴きたいか、と問われれば首肯できない。やはりゲンダイ音楽、とくに無調は苦手。

 モーツァルトの「レクイエム」は、よく知られているように遺作にして未完。ラクリモサの8小節目で筆が止まっているのは有名な話。
 今回のラクリモサの補筆はジュスマイヤー版ではなく、英国の作曲家マイケル・フィニッシー版(2011年)に依っているとのこと。合唱にソリストが加わり、とりわけソプラノが強く声をだす。意表を突かれるが、どの版であろうともラクリモサは涙なしに聴けない。ソリストたちは、バス・バリトンのニール・デイヴィスのみ来日できたが、あとの3人は代役となった。ソプラノの三宅理恵は、透明感のある清潔な声で、このラクリモサでも素晴らしい歌を聴かせてくれた。
 ラクリモサ以降は通常のジュスマイヤー版で、補筆だから作品後半は音楽的に弱いというのがもっぱらの定説となっている。しかし、サンクトゥスやベネディクトゥスなど心を動かされる部分もある。ここはモーツァルトの指示が、口頭であれジュスマイヤーになされていた、と考えたほうが納得できる。終曲コムニオも苦し紛れのように冒頭のイントロイトゥス、キリエを転用しているものの、もともとの楽想が強靭で、十分に全曲を受け止める音楽になっている。
 
 今回ノットは、リゲティの「ルクス・エテルナ」を「レクイエム」のアニュス・デイ(神の小羊)とコムニオ(聖体拝領唱)の間に置いた。「ルクス・エテルナ」は、無伴奏16部混声合唱曲でテキストは聖体拝領唱。したがって、リゲティとモーツァルトの聖体拝領唱を続けて聴いて「レクイエム」が終わる、という仕掛けである。モーツァルトの「レクイエム」のなかに『2001年宇宙の旅』が挟みこまれた。
 「ルクス・エテルナ」における新国立劇場合唱団には舌を巻いた。どうやって音程を保っているのか不思議で、唖然とするほど、驚異的な歌唱力である。虚空に吸い込まれるような感覚がよぎって不覚にも落涙した。
 このあと、モーツァルトのコムニオが演奏されたわけだが、ここは「レクイエム」の冒頭を回帰させているから、ちょうど輪廻が続いていくような感じを強く受ける。永遠に終わることがない、と言っているように。
 未完ということは、閉じられた音楽ではなく、未来へ開かれた音楽ということだ。これ以上の贅沢を言うのはよそう。モーツァルトの「レクイエム」は、未完でありながら、過去の200年、そしてこの先も、様々な諸相を見せながら、受容されて行くことになるのだから。

 二重苦は杞憂に終わった。ノット×東響+新国立劇場合唱団のモーツァルトによって、ショスタコーヴィチの毒素に侵された脳髄が、少し癒されたような気がした。