ウインターコスモス2021年11月03日 08:06

 

 衆議院議員総選挙が終わって、今日は「文化の日」、戦前の「明治節」。
 
 ウインターコスモスという花がある。コスモスという名が付いているが、コスモスの仲間ではなくキク科、別名ビデンス。原産地はメキシコらしい。
 花姿は名前の通りコスモスに似ていて、コスモスの花が終わったころから咲き始め、冬まで花を楽しめる。葉や茎はコスモスよりしっかりしているから、コスモスのようにだらしなく倒れることはない。
 先月、花壇のケイトウが駄目になったので、その跡地に植えた。いま、中心が黄色く周囲の白い小さな花がさかりで、目を和ませてくれる。

 「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」とはSir Winston Churchillの言葉だが、総選挙の結果は、とりあえずは国民の絶妙の判定だったようだ。

お寺の猫2021年11月09日 11:16



 商店街のほぼ尽きたところに寺がある。浄土宗の寺で街中にあるにしては境内も広く立派である。
 その門前に猫がいた。虎猫というのか、腹は白く背に黄茶の縞模様が入っている。歳のころはよく分からない。若くもなく、かといって老いぼれてもいない。中肉中背、ほどよい加減で、ちょこんと座っていた。
 少し間合いをとって、しゃがんで手を出してみた。一瞬、目を合わせたが、あとは無視された。寄ってこない。嫌がる風でも逃げるわけでもない。細い首輪をつけている。飼い猫である。しばらく眺めていたが、猫はしつこくされるのを嫌う。そろりと暇乞いである。

 山門に向って左手には子育地蔵尊があって、会釈をして山門をくぐった。境内に入って本殿や庚申堂、鐘楼などを一通り拝見させてもらってから、帰ろうと踵を返したとき、足元にさっきの猫がいた。
 もう一度座って手を出すと、今度は寄ってきたので、頭と首を撫でてやった。でも、嬉しがる風はない、一二度身体に触らせると距離をとった。また邪険にされた。
 こちらも構うことはしないでただ見ていた。そのうち、猫は石畳の上で寝っ転がって、気持ちよさげにしている。寝返りうって、背中を石畳に擦りつけている。べつに痒いからそうするのではないようで、たんに石と砂の感触を楽しんでいるように思えた。

 とつぜん、枯葉が一枚舞い落ちてきた。転げまわっていた猫は、吃驚したように、ひょいと左手でその枯葉を掬い地面に押し付けた。ちょっと手の下の枯葉を確かめていたが、相手が生き物でないと知ったのか、急に興味を失った。それをきっかけにして猫は立ち上がり、本殿のほうにゆっくりと歩いて行った。その間、こちらには一瞥もしない。
 後ろ姿からは、なかなか手足の長い端麗な猫で、しゃなりしゃなり、ミスコンの資格がありそうだなと思ったあと、オスかメスかを知らないのに、と一人笑った。

樋口一葉展―――わが詩は人のいのちとなりぬべき2021年11月11日 19:09



 根岸線の石川町駅から歩いた。所要時間は20分か25分。ただ、行程の最後に谷戸坂を登りつめなければならない。「港の見える丘公園」を横目で追いながらにしてもこれはキツイ。
 再び神奈川近代文学館を訪れた。目的は樋口一葉展である。

 まず驚くのは資料が豊富なこと。原稿はもちろん日記、手紙、写真、衣装見本、遺品である笄や髪飾り、住居模型、さらには父親の任官書などもある。年代順に4つに区分して展示してある。一葉の生涯が俯瞰できるほど充実している。
 これはひとえに一葉の妹くにの功績が大きい。妹は姉の遺言に反してまで、日記や草稿、反故紙を含め、姉の書き残したものを大切に保管した。
 くには一葉の2つ下。一葉は独り身のまま24歳で夭折するが、くには10人以上の子をもうけ50歳を越えて生きた。露伴の娘、幸田文は、くにのことを色白で美しい人、浮世の砥石にこすられて、才錐の如く鋭いところがある、と評したという。類まれな才能豊かな姉妹だったのだろう。

 この一葉の特別展は11月28日まで開催されている。月曜日は休館。天気の良い日、「港の見える丘公園」を散策しながら一回りすれば、半日楽しめる。秋の花が公園のそこかしこで咲いている。
 関連してもう一つ。いま台東区立一葉記念館では、開館60年記念と銘打って「たけくらべ」入門、という企画展を12月19日まで開催している。

2021/11/14 ウルバンスキ×東響 カルミナ・ブラーナ2021年11月14日 21:07



東京交響楽団 川崎定期演奏会 第83回

日時:2021年11月14日(日)14:00
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
共演:ヴァイオリン/弓 新
   ソプラノ/盛田 麻央
   テノール/彌勒 忠史
   バリトン/町 英和
   コーラス/新国立劇場合唱団
   児童合唱/東京少年少女合唱隊
演目:シマノフスキ/ヴァイオリン協奏曲第1番 op.35
   オルフ/カルミナ・ブラーナ

 
 ほぼ3年ぶりのウルバンスキ。当時のプログラムは、ショスタコーヴィチの「交響曲4番」とエーベルレがソロを弾いたモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲3番」だった。
 今回の来日では、ブラームスの「交響曲4番」を中心とするドイツ・オーストリア音楽集と、大曲「カルミナ・ブラーナ」を核にした二つのプログラム。
 一つ目のドイツ・オーストリア音楽集は、生では聴けなかったがネット放映で確認した。

 今日は、最初にシマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲1番」が演奏された。ウルバンスキの母国ポーランドの作曲家である。
 ヴァイオリン協奏曲というよりはソロヴァイオリン付の管弦楽曲というくらいソロとオケとが融合しながら進んでいく。鳥が鳴きかわすようにして始まり、途中、ストラヴィンスキー的な調べや印象派風の音楽などが聴きとれるが、それ以上に、様々なざわめきによって曲全体が組み立てられ、創られているような感じがする。
 弓新は、この難曲を暗譜で聴きこなした。普段、暗譜のウルバンスキは、さすがにスコアを置いていたけど。後半のカデンツァのとき、ウルバンスキは指揮台から降りて、弓新のヴァイオリンにスポットを当てていた。
 20世紀の初頭に書かれたこの協奏曲はなかなか難物、筋書きをたどるのに苦労する。とはいえ、ウルバンスキ×東響とボムソリの代役弓新は、官能的でありながら気品のある響を聴かせてくれた。

 次いで、3人のソリスト、混声合唱、児童合唱を伴う「カルミナ・ブラーナ」。
 ウルバンスキにとって、シマノフスキはお国ものだから得意としているだろうが、オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、スタイリッシュで貴公子然としたウルバンスキのイメージに何となく合わない。そのアンバランスがどんな化学反応を起こすのか。
 いやいや、どうしてどうして、非常に面白かった。
 「カルミナ・ブラーナ」は、19世紀初めにドイツ南部、バイエルン選帝侯領にあるベネディクト会のボイエルン(ブラーナ)修道院で発見された300編にものぼる中世の詩歌集(カルミナ)。オルフがその中から20数編を選び、世俗カンタータとして1936年に作曲した。単純明快な形式と和音、単旋律的な合唱、強烈なリズム、執拗なオスティナートが特徴で、原初的なエネルギーに満ち溢れている。
 それが、ウルバンスキにかかると、野卑なところが全くない。エグ味が捨象され、スマートでモダンな音楽として聴こえてくる。しかし、音づくりとしては技巧的というか変態的で、同じオスティナートでもさかんにテンポを伸縮させ、音色もオケでは使っていない電子楽器のような音を出させたり、オルガンのように響かせたりもする。
 コーラスは、ぎりぎり絞り込んで50人ほどの少人数。でも新国立劇場合唱団の迫力は並みじゃない。児童合唱団も10数人だったが粒揃いの歌唱、不足はない。ソリストはテノールが彌勒さん、海外勢の代役でソプラノが盛田さん、バリトンが町さん。いずれも大健闘。
 「第二部 酒場」でのテノールの独唱の場面では、彌勒さんが白鳥の縫いぐるみを持って登場。「第三部 求愛」でのソプラノ独唱は、まるでオペラの一場面のよう。コーラスも曲によっては、身体を左右に揺り動かして視覚的な演出も加えていた。
 「カルミナ・ブラーナ」は、音楽的には素朴で深みはないかもしれないが、勢ぞろいした打楽器、滑稽な木管楽器、鋭く咆哮する金管楽器など聴き処は一杯ある。野趣あふれるエネルギッシュな演奏もいいが、今日のような新しいスタイルの演奏も曲が近代化された按配でまた楽しい。

DUNE/デューン 砂の惑星2021年11月17日 20:10

 

『DUNE/デューン 砂の惑星』
原題:Dune: Part One
製作:2021年 アメリカ
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本:エリック・ロス、ジョン・スペイツ、
   ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ティモシー・シャラメ、レベッカ・ファーガソン、
   オスカー・アイザック


 ホドロフスキーが頓挫し、デイヴィッド・リンチの汚名ともなった『砂の惑星』が、ドゥニ・ヴィルヌーヴによって蘇った。
 『メッセージ』『ブレードランナー2049』は、この『DUNE/デューン 砂の惑星』を映像化するための序奏、原作の壮大すぎる物語を映画とするには、これほどの時間が必要だった、と言ってみたくなるほどの出来栄え。

 SFとは言ってもアンドロイドもAIも登場しない。星間航行が現実となっている西暦10000年の世界。宇宙の統治形態は中世の封建制そのもの。皇帝のもと各惑星を大領家が支配する。そのひとつアトレイデス家に砂の惑星アラキスを治めるよう皇帝から命が下る。
 通称デューンと呼ばれるアラキスは、星間航行に必須の抗老化作用を持つ香料メランジの唯一の生産地だ。アトレイデス家はメランジを採掘し管理することによって、莫大な利益を生むはずだった。しかし、その命令はアトレイデス家を滅ぼそうとする皇帝とメランジの採掘権を持つハルコンネン家が結託した陰謀だった。

 主人公はアトレイデス公爵の息子ポール(ティモシー・シャラメ)。夢の中で未来を知る能力を持ち、救世主信仰の当事者として悩む。最初に登場するときはひ弱い美少年だが、劇の進行とともにどんどん逞しく成長して行くさまが観るものを惹きつける。シャルメの演技力の賜物だろう。
 ポールの母親レディ・ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)も魅力的。ベネ・ゲセリットという女性のみの神秘主義教団の一員で、精神と肉体を鍛錬し、強い超能力を持つ。華奢な身体でありながら、危機にあっても臆することなく、ポールの導き役を務める。

 映画としての造形、大小の道具もアイデアが一杯つまっている。巨大なサウンドワーム(砂蟲)、メラジンの採掘機、トンボのような飛翔体、個体の防御シールド、保水スーツなどなど凝りに凝っている。
 サンドワーム(砂蟲)は、『風の谷のナウシカ』の「オーム」を思い出させる。レディ・ジェシカが声で人を意のままに操る「ボイス」は、『スター・ウォーズ』の「フォース」を連想させる。いや、「オーム」や「フォース」が、原作であるフランク・ハーバートの『デューン 砂の惑星』(訳本はハヤカワ文庫)から影響を受けている。
 この伝説的SF小説は1965年に出版された。その後のSF映画が、ヒューゴ賞とネビュラ賞をダブル受賞した小説『デューン 砂の惑星』を無視して製作することは難しかったろう。

 美しく落ち着いた映像、あらゆるものが巨大で、広大で、この大きさを余すことなく画面に定着させたヴィルヌーヴの手腕に脱帽する。巨大な砂蟲、広大な砂の惑星、その砂の惑星を宇宙の辺境と嘯く帝国の拡がり。それと対比するように、特別な存在としての人間、鍛錬による身体的・精神的拡張の限りない可能性、人類が継続するための救世主信仰などを織り交ぜながら、壮大な叙事詩を描いていく。

 そして、ハンス・ジマーの素晴らしい音楽。リゲティの声楽曲を意識したような。『2001年宇宙の旅』に対抗するごとく、声の効果をふんだんに用い、ジマーらしい重低音の上を多分民族楽器であろう打楽器が打ち込まれる。荘厳でいて土俗的。不穏、不安な音の揺らぎが悲劇を想起させる。
 今、このサントラがYouTubeで無料公開中である。

 https://www.youtube.com/watch?v=uTmBeR32GRA

 この映画の原題にはPart Oneとある。したがって、映画は途中で閉じられる。まさに次回をお楽しみという終わり方。
 ヴィルヌーヴは、『DUNE/デューン 砂の惑星』を3部作として構想しているらしい。最悪でも前後編は必要なのだが、如何せん興行成績次第。このまま中途半端で次の製作が叶わないことも想定された。
 幸いこのPart Oneの興行成績はまずまずで、評価も高い。結果、続編の撮影が決定した。2023年の公開予定だという。心待ちにしたい。
 いや、その前に、まずはもう一度このPart Oneを観るつもり、今度はIMAXで。