2025/2/2 高橋勇太×MM21響 ショスタコーヴィチとプロコフィエフ ― 2025年02月02日 18:55
みなとみらい21交響楽団 第28回定期演奏会
日時:2025年2月2日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:高橋 勇太
演目:チャイコフスキー/スラブ行進曲
ショスタコーヴィチ/交響曲第9番
プロコフィエフ/交響曲第5番
ロシア音楽集。最初は「スラブ行進曲」、チャイコフスキーの書いた祖国愛にあふれた曲。「1812年」と同様、帝政ロシアの国歌が朗々と流れる。旧ソ連では帝政ロシア国歌の部分はカットして演奏されていたという。西欧ではウクライナ戦争以降、両曲とも自粛する傾向にあるのようだが。
みぞれがチラチラする今日、寒さのせいかMM21響の出足は不安定、音程も合奏もいまひとつ。10分程度の曲が終わるころには本来の調子が戻ってきた。暖気運転に丁度よい選曲だったかも知れない。
続くショスタコーヴィチの「交響曲第9番」は、「7番」「8番」とともに戦争3部作のひとつ。ベートヴェンの「第九」並みを期待したソ連政府をがっかりさせた曰くつきの作品。その後、ジダーノフ批判を受けてショスタコーヴィチは苦闘するけど、曲自体は軽妙洒脱な佳品。
第1楽章のピッコロ、第2楽章のクラリネット、第3楽章のトランペット、第4楽章のトロンボーンとチューバのファンファーレ、そしてファゴットのソロ、第5楽章の打楽器群などが冴え渡り、最初から最後まで間断なく面白かった。管楽器は超絶技巧がテンコ盛りでMM21響としては危ういところもあったけど、そこも含めてスリリングだった。この曲、スターリンを揶揄したようだ、と言われればその通りかも知れないが、戦争終結の解放感と捉えればこんな魅力的な曲もない。
休憩後、昨年末に広上×東京音大の名演を聴いたばかりのプロコフィエフの「交響曲第5番」。これも戦争交響曲と呼んでいいだろう。祖国へ帰還していたプロコフィエフが、戦争末期に勝利祈願というか、愛国心に駆られて作曲したものだという。ここではベートーヴェンの「交響曲第5番」を意識したのかどうか。結果的に作品番号は100と節目の数字が打たれ、彼の代表作のひとつとなった大掛かりな曲である。
一点に向かって凝縮していくような広上×東京音大の演奏に比べれば、高橋×MM21響は相当ゆるい。音があちこちに拡散するようにも思える。技量のせいもあってか時として騒々しい。しかし、この音楽の強靭さと重厚さ、他方で冷淡で奇矯ともいえる多面的なプロコフィエフがよく描かれていた。
来月にはオスモ・ヴァンスカ×東響で同じ「交響曲第5番」が予定されている。たまたま、同一楽曲を立て続けに聴くわけだが、「交響曲第5番」はプロコフィエフの最高傑作といってよい。今度はプロオケでじっくり楽しみたい。
2025/2/9 ポペルカ×N響 二つの「シンフォニエッタ」 ― 2025年02月09日 20:54
NHK交響楽団 第2031回 定期公演 Aプログラム
日時:2025年2月9日(日) 14:00 開演
会場:NHKホール
指揮:ペトル・ポペルカ
共演:ラデク・バボラーク
演目:ツェムリンスキー/シンフォニエッタ
R.シュトラウス/ホルン協奏曲第1番
ドヴォルザーク/交響詩「のばと」
ヤナーチェク/シンフォニエッタ
N響初登場のポペルカ、数年前マティアス・ピンチャーの代役で東響を振ったのが日本デビュー。この公演を聴き逃してしまった。昨年のプラハ放送響の来日公演も行くことができなかった。で、今回、N響との組み合わせで聴くことに。
プログラムはツェムリンスキーとヤナーチェクの「シンフォニエッタ」を最初と最後に置き、間にR.シュトラウスの協奏曲とドヴォルザークの交響詩を挟むという凝ったもの。
「シンフォニエッタ」といえば、ヤナーチェクがあまりにも有名で、ツェムリンスキーは珍しい。ツェムリンスキーの作品は「抒情交響曲」しか聴いたことがない。ぼんやりとマーラーとシェーンベルクの間にあるようなイメージだけどよくは知らない。略歴をみると妹がシェーンベルクの妻であり、アルマ・シントラーとは一時恋愛関係にあったらしいから、当たらずといえども遠からずだろう。しかし、作品の印象はシェーンベルクにもマーラーにも似ていない。
「シンフォニエッタ」は3楽章形式。第1楽章は活気あるリズムで辛辣かつシニカル。第2楽章は神秘的なバラード、途中爆発的に高まり最後は静寂のなかへ消えて行く。第3楽章は舞踏的でエキゾシズムな雰囲気がある。ポペルカは活き活きと曲を運び、リズムのキレもいい。指揮姿もつくりだす音楽もしなやかだ。ただ、ツェムリンスキーの曲自体に手ごたえが乏しい。一度聴いただけでは正直作品の良さがよく分からない。
R.シュトラウスの「ホルン協奏曲第1番」は彼が18か19歳のときに書いたものだという。モーツァルトをお手本にしたような古典的な作風。冒頭のファンファーレからしてバボラークは超一級。中間のアンダンテを典雅にうたい、最終のロンドはホルンではとても難しい跳躍を連続してこなしていく。思わずトランペットではないのだから、と呟いてしまった。
R.シュトラウスは赤子のときから父親のホルンの響きのなかで育ってきた。管弦楽曲作品でもホルンが効果的に用いられている。そのR.シュトラウスの「ホルン協奏曲」をバボラークが吹いてワクワクしないわけがない。演奏後、バボラークに対してN響のホルン奏者が大きな拍手で称えていた。
「のばと」はアメリカから帰国したドヴォルザーク晩年の作品。チェコの詩人エルベンの詩集「花束」に基づく連作交響詩のうちのひとつ。「のばと」の物語は、夫を毒殺して若い男と再婚した女が、故人の墓の上の木にとまった野鳩の鳴き声を聴いて、良心の呵責に苛まれ自死する、というちょっとおぞましい内容。ドヴォルザークはこの話を1.夫の葬送、2.若者の出現、3.求婚、4.墓の野鳩、5.女の葬儀、という5つのセクションに分けて作曲した。
冒頭はフルートとヴァイオリンで奏でられる葬送行進曲、女に迫る若者の姿はトランペットで表わしているのだろう。第3のセクションに入ると若者と再婚した女が踊るダンスの場面、第4セクションは苛烈、野鳩の鳴き声が女の罪の意識を刺激し、悲劇的な最期に導く。落ち着かないオケの音響と低域のバスクラリネットが印象的。最後は再び葬送行進曲が流れ今度は女を弔う。コーダは長調に転じ浄化されるように終わる。
ポペルカはドラマの各場面を巧みに描き分け、終始見通しのよいドラマをつくった。ドヴォルザークの音楽は写実的で、小交響曲と交響詩の違いがあるにせよツェムリンスキーに比べると圧倒的に分かりやすい。
ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」は最晩年の傑作。第一大戦後、祖国は独立しヤナーチェク自身は老いらくの恋の真っ最中。その高揚と情念が「シンフォニエッタ」を生み出したかも知れない。1.ファンファーレ、2.城、3.修道院、4.街路、5.市庁、の5楽章構成で、交響曲の型にはまらない自由さと奔放さがある。
第1楽章はバンダとティンパニだけのファンファーレ。バンダはトランペットを中心に13人が舞台最後列に並び、ステージ上のオケではティンパニ奏者のみが演奏する。リズムは複雑、メロディは幾つかの声部に分かれ掛け合う。13人のバンダが優秀で見事なファンファーレを吹奏した。
第2楽章は民俗舞曲調、ポペルカは速めのテンポで旋律の歌わせ方も上手い。第3楽章は優美な曲調と過激な曲調が同居し、ポペルカは才気あふれる指揮でもって捌いて行く。第4楽章のトランペットの執拗なオスティナートも颯爽とした演奏。
第5楽章は「タラス・ブーリバ」を思い起こさせる。楽章の後半において沈黙していたバンダが再び加わる。このファンファーレ以降のポペルカのテンポの伸び縮みは絶妙としかいいようがない。力任せのところが全くないのにどこまでも高みに昇って行く。
N響の適応力も素晴らしく鳥肌がたつほどだった。コンマスは長原幸太、この4月からN響の第1コンサートマスターに就任する。
2025/2/11 インバル×都響 「死の島」と「バビ・ヤール」 ― 2025年02月11日 22:07
東京都交響楽団 都響スペシャル
日時:2025年2月11日(火・祝) 14:00開演
会場:東京文化会館
指揮:エリアフ・インバル
共演:バス/グリゴリー・シュカルパ
男声合唱/エストニア国立男声合唱団
演目:ラフマニノフ/交響詩「死の島」 op.29
ショスタコーヴィチ/交響曲第13番 変ロ短調
op.113「バビ・ヤール」
久しぶりのインバル×都響である。ひと昔前のマーラー・チクルスには熱心に通ったが最近はご無沙汰、5年くらい前のブルックナー「交響曲第8番」か、ショスタコーヴィチ「交響曲第12番」以来ではないかと思う。
「バビ・ヤール」の前にラフマニノフの交響詩「死の島」から。
絵に着想を得て書かれた音楽だという。絵と音楽といえばムソルグスキーが有名だけど、ラフマニノフはベックリンの絵画に触発されて曲を作った。不気味な絵である。墓地である孤島、島には糸杉が茂っている、棺桶を乗せた小舟が島に向かっていく。
ラフマニノフは揺れ動く波のような音型をppで開始し、何度も繰り返す。小舟が島に向かって行く情景だろう。中盤は生を回想するような優しさがある。終盤は死に呑み込まれていくかのよう。ラフマニノフが偏愛した死者を弔う「怒りの日」のメロディも登場する。
昔からインバルが都響を振ると音が変わるが、やはりオケの解像度が尋常ではない。明晰で混濁することがない。各声部がはっきり聴こえ、せめぎ合い、弛緩することもない。巨大な編成のオーケストラを操って、暗く陰鬱ながら同時に激しくロマンチックな音楽が聴こえてきた。
ショスタコーヴィチ「交響曲第13番」については、忘れられない演奏がある。同じ都響をヘスス・ロペス=コボスが指揮したもの。ロシア人でなくスペイン人指揮者というのが面妖だが、演奏が終わった後、そのまま凍りついて動けなくなった。都響の表現力にいたく感心した。ほどなくして聴いたテミルカーノフと読響に失望したのが不思議な対比だけど。
今日のインバル×都響のそれは、冷徹でいながらそれでも地の底からエネルギーが吹き上がるような凄まじい「バビ・ヤール」だった。地響きがするほどの重低音、冴え冴えとした管楽器群、切れ味鋭い打楽器たち。コンマスの水谷晃のソロやリードは鬼神が乗り移ったようで、すべてのセクションがアグレッシブに攻め続けた。
チューバやファゴットの歌いまわしは滑稽さを通り越して涙が出る。鐘を容赦なく打ち鳴らし、ウッドブロックは乾きに乾き、チェレスタは寒々と減衰して行く。インバルは躊躇なく進むのだが、楽想のひとつひとつが味わい深くコクがある。いつの間にか恐ろしいほどの音響に包まれていた。
今まで「バビ・ヤール」を悲惨で陰鬱な曲として納得していたが、インバルで聴くと凄惨な現実に逞しく立ち向かう、過激でしたたかなショスタコーヴィチの姿が見えてくる。
エストニア国立男声合唱団は50人ほど、音域は広く音量は豊かで余裕の歌声だった。ソロのグリゴリー・シュカルパは、バスにしては少し軽めだか、声量に不足はなく、オケの音に被さって不明瞭になることもない。東京文化会館という声楽に理想的な音響空間も幸いした。
「交響曲第13番」は、スターリン没後の「雪融け」の中、若き詩人エフトゥシェンコが反ユダヤ主義を批判する詩「バビ・ヤール」を発表し、衝撃を受けたショスタコーヴィチが全5楽章の声楽付き交響曲としてまとめたもの。
第1楽章が「バビ・ヤール」。“バビ・ヤールに墓碑銘はない”との独白から始まる。ユダヤ人であることの迫害や恐怖を歌う。全編に渡って反ユダヤ主義を批判する。第2楽章は「ユーモア」、スケルツォ風の楽章。権力への反抗・反骨としてのユーモアを礼賛する。第3楽章は「商店にて」、アダージョ。“女性たちは黙々と商店の前に並ぶ。食料を買うために耐えながら”と虐げられた女性たちの忍耐を称える。第4楽章が「恐怖」、ラルゴ。粛清の恐怖は消えつつあるものの、体制への迎合がはびこっていると警告する。第5楽章が「出世」。“ガリレオは抑圧されても真実を主張し、今では認められている。出世しないことこそが出世なのだ”と歌う。
ショスタコーヴィチの交響曲は、やれ体制迎合的であるとか、やれ体制批判的であるとか様々に評されるが、それほど単純な話ではない。仮面を被って表の顔を決してみせない筋金入りの役者である。ショスタコーヴィチがソヴィエト連邦に生れていなければ、単なるモダニストの音楽家で終わっていたかもしれない。しかし、幸か不幸かソヴィエト連邦とともに彼が歩んだことによって、その音楽は音楽以上の意味を持たざるを得なくなってしまった。
インバルは来年、90歳記念公演としてマーラーの「千人交響曲」が予定されている。何回目かのマーラー・チクルスの一環だが、チケットが入手できるかどうか。もう一度マーラー・チクルスを聴く必要がありそうだ。
2025/2/15 沼尻竜典×神奈川フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」 ― 2025年02月15日 22:03
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会 第402回
日時:2025年2月15日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
共演:ヴァイオリン/服部 百音
チェロ/佐藤 晴真
演目:ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための
二重協奏曲 イ短調Op.102
ショスタコーヴィチ/交響曲第10番 ホ短調Op.93
今年初の神奈川フィルだが、年度でいえば終盤、今日の沼尻監督のあと来月のライスキンにて閉幕となる。沼尻はショスタコーヴィチを毎シーズン取りあげており、前々期が「8番」、前期が「7番」で、今期が「10番」、来期開幕の4月には「12番」が予定されている。
前半はブラームスのドッペルコンチェルト、ソリストは服部百音と佐藤晴真。
以前、広上×京響のドッペルコンチェルトを佐藤晴真で聴いている。相方のヴァイオリンは黒川侑だった。服部百音は過去にはエッティンガー×東フィルとのメンコンを聴いた。
ドッペルコンチェルトはブラームス最後の管弦楽曲、「交響曲第5番」になるはずが協奏曲になった楽曲と言われている。地味だけどブラームスらしく骨太でがっちりした構造、幾つかの主題も魅力的だ。
アレグロは、力強いテーマと抒情的な曲調が反復しつつ、ブラームスらしい旋律が演奏される。チェロとヴァイオリンが交互にリードしながら進行する。佐藤と服部のハーモニー、沼尻の振る力漲るオケ、いずれも好調である。
アンダンテは、ホルンでのびやかに開始され、管楽器がこだまのように鳴る。ホルンは新人と客演で固めていたが良い音を出していた。弦楽器の伴奏にのって独奏のヴァイオリンとチェロが寂しい雰囲気の主題を奏でる。チェロとヴァイオリンの対話が際立ち、静謐で甘美なメロディが会場を満たす。
ヴィヴァーチェは、ジプシー音楽のような舞曲風の楽章。ユーモラスに聴こえる部分もあるけど難曲。テーマが繰り返され、さまざまな変奏が行われることで興奮が高まっていく。石田泰尚が率いるオケも二人のソロも表現の濃淡が鮮やかで情熱的なブラームスだった。
アンコールはヴァイオリンとチェロの二重奏によるヘンデルの「パッサカリア」、ハルヴォルセンの編曲だという。これが絶品。セカンドヴァイオリン首席の直江さんが何度も頷きながら聴いていた。満員の客席が沸きに沸いた。
後半がショスタコーヴィチの交響曲、今年になってからN響の「7番」、MM21響の「9番」、都響の「13番」と続き、今日が「10番」である。「10番」は「5番」と並んで聴く頻度が高い。
第1楽章は冒頭の低弦から緊張感が徐々に高まり、恐怖が迫る暗澹たる楽章。神奈川フィルの弦や管、打楽器の妙技に魅せられているうちに終わった。体感的に長さを全く感じさせない。
第2楽章は各楽器が入り乱れ、銃弾が飛び交うような狂気のアレグロだが、そのスピード感が爽快に思えるほど。「10番」はアマオケでもときどき取り上げるけど、プロとの差が歴然とするのはこの楽章。沼尻×神奈川フィルの速度とキレ、一糸乱れぬアンサンブルに大興奮。
第3楽章はいびつな舞曲で、しつこいくらいイニシャルの音型が散りばめられている。この音名象徴で目立つのはホルンの豊田さん。以前のユージン・ツィガーンのときに比べると格段に安定していた。ホルンチームの新人たちとの連携も良好。
最終楽章は第1楽章が戻ってきたように開始されるが、アレグロに突入すると乱痴気騒ぎとなる。神奈川フィルはこのところフルート、ファゴット、ホルン、トロンボーン、パーカッションなど各セクションに契約団員が何人も加入している。契約団員は本採用待ちの団員だと思うが、この混沌とした音楽を容易く捌いて行く。将来が楽しみである。
沼尻のショスタコーヴィチは、神奈川フィルとの「8番」、東響との「11番」が名演だった。この「10番」も恐怖や暴力、皮肉や諧謔を感じさせるよりは、純粋な音楽として説得力があった。ショスタコーヴィチの二重言語的な振舞いや、暗号のような音名象徴にとらわれなくても、あるがままの絶対音楽としてどうか、と問うているようでもあった。
沼尻は、この4月に神奈川フィルとの「12番」が控えているが、その前の3月末には音大合同オケを振って「4番」を披露する。これだけ素晴らしいショスタコーヴィチとなれば期待は高まるばかりである。
イベリスとサントリナ ― 2025年02月19日 16:20
煉瓦積み風の小さなブロックプランターが4つある。
季節に応じてさまざまな花を植えてきたが、ここ数年はほとんど手入れをしていない。
今では「カーネーション」のみが生き残り、プランターのひとつを占領し、あとの3つは空地のまま雀の砂浴び場となっていた。
さすが冬は花が少なくて寂しい。
で、先日、近くの花屋を覗いたら「イベリス」を売っていたので衝動買いをした。
「イベリス」はスペインやポルトガルのあるイベリア半島で自生していることから名づけられた。1年草と多年草があって、これは「宿根イベリス」となっている。白い金平糖が集まったような花が愛らしい。
多年草とはいっても日本の夏を越すのは難しく過去に失敗している。もう一度挑戦するつもり。これでひとつのプランターが埋まった。
数日たって、同じ花屋を訪れると「サントリナ」という花名が目についた。
細かく枝分かれした銀白色のハーブのような佇まいで、名前からして「サフィニア」みたいにサントリーが企画した新品種か、と思って店の主人に聞いてみた。
主人曰く、デイジーの仲間でありながら別名は「コットンラベンダー」というハーブの一種、地中海沿岸原産の防虫効果がある低木で宿根草のように育てることができる。サントリーとは関係がない。姿形に特徴があり、初夏には黄色い花をつけるし、なんならドライハーブにもできる、云々。営業トークにほだされて購入した。
あとで調べてみると「サントリナ」という名の由来は、ラテン語の「sanctum(聖なる)」と「linum(亜麻)」が合わさって「Santolina」となったという。
これで、4つのブロックプランターが埋まった。
「イベリス」はすでに6つ7つの白い花が咲き可愛い。「サントリナ」は2つのプランターに分けて植えたが、こんもりとした全体の姿と、枝というか葉というか微妙な色合いが美しい。ただ、今のところハーブらしい匂いは感じられない。数年前からの「カーネーション」もナデシコ科のせいか地植えに耐え丈夫である。
もう少し花壇の手入れに力を入れなければならない。