シャクヤク2023年05月10日 16:38



 三年目にしてようやく芍薬(シャクヤク)の花が咲いた。直径十センチほどの花が一輪,あと開花しそうな蕾がふたつ。硬い蕾はすべて摘み取った。去年は咲かないまま枯れてしまったが、今年は上手くいった。

 品種は「サラベルナール」、略して「サラベル」。ボリュームのある淡いピンクの八重咲で、甘い華やかな香りを放っている。19世紀末から20世紀初頭に活躍したフランスの大女優サラ・ベルナールにちなんで名づけられたという。

 そうそう、女優サラ・ベルナールは、作家エドモンド・ロスタンとも親しかった。俳優コクランの依頼で書いた『シラノ・ド・ベルジュラック』は、サラ・ベルナールがロスタンにコクランを紹介したことがきっかけだった。この辺りの事情は映画『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』にもきっちり描かれている。

 エドモン・ロスタンはサラ・ベルナールのために幾つか戯曲を書いた。『遠国の姫君』などは彼女の当り役。また、この芝居はアール・ヌーヴォーを代表する画家のアルフォンス・ミュシャが舞台美術、衣装をデザインしている。調べてみるとなかなか興味深い。

 芍薬の「サラベル」は、専門家の手にかかるとニ十センチ以上の大輪になるそうだが、素人でここまで育てるのは難しい。今はまだ茎が頼りないほど細くて花を支えきれない。もう数年かけて株を大きくする必要がありそうだ。それでもこの花を愛でていると、美人を形容する「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といった言葉に納得すること頻りである。

リバーサルオーケストラ2023年03月16日 17:30



 日テレが放映した『リバーサルオーケストラ』全10話が終わった。
 ここ十数年、まともにテレビを観ていないから、TVドラマは『坂の上の雲』以来かも知れない。いま、ニュースや天気予報はWebで間に合うし、安直なドラマのため決まった時間にテレビの前に座るなど苦行に等しい。PCの動画配信で好きな時間に旧作映画を楽しんだほうがよっぽど自由だ。テレビから遠ざかるのは無理ないだろう。
 で、『リバーサルオーケストラ』もリアルタイム視聴したのではなくTVer経由だった。

 TVerの宣伝文句より粗筋を抜き書きすると、“超地味な市役所職員・谷岡初音(門脇麦)、実は彼女は…元天才ヴァイオリニスト。表舞台から去り、穏やかに暮らしていたはずが、強引すぎる変人マエストロ・常盤朝陽(田中圭)に巻き込まれ、地元のポンコツ交響楽団(児玉交響楽団、略称=玉響)を一流オケに大改造。しかし、2人の前には、数々の障害と強敵が…「崖っぷちだけど、音楽が好き」、夢にしがみつき、懸命に頑張る愛すべきポンコツオケ。夢を追う生き方は、難しいけれど、面白い! スカッとして胸がアツくなる、一発逆転の音楽エンターテインメイント”となる。

 『リバーサルオーケストラ』は、神奈川フィル事務局の音楽主幹である榊原徹さんが、ことあるごとに宣伝をしていたので、つい観賞する羽目に。
 しょっぱな俳優さんたちを見て愕然、顔と名前が一致しない。平田満と原日出子、石野真子くらいしか分からない。主演の2人でさえ茫漠として、田中圭の顔は見覚えがあるが名前が出てこない。門脇麦の名前は聞き覚えているが顔は知らない。およそ30歳以上の俳優さんに関してはこの程度、坂東龍汰とか恒松祐里とか20代の俳優さんともなれば顔も名前も全く承知しない。これでは浦島太郎のようなものだ。まぁ、そのお陰で逆に新鮮だったのかも知れないけど。
 TVドラマだからとうぜん戯画化されているし、細部がいろいろ気になったのは最初だけ、ドラマの中身が盛沢山で展開もスピーディー。そのうちハラハラドキドキ、笑いあり涙ありの物語に夢中になってしまった。
 ドラマはSNSと連携し、劇中のオケである児玉交響楽団のTwitterアカウントが作られたり、instagramへ画像がupされる。YouTubeやTikTokでショート動画が発信され、架空の音楽雑誌に玉響の記事が掲載されるなど、お遊びも満載だった。 
 
 脚本は清水友佳子。音楽科出身ということもあり、音楽へのリスペクトがいたるところ顔をだす。各話ごとオケのメンバーに焦点をあて、気持ちよい物語を紡いでいく。
 例えば、2話では若きフルート首席の庄司蒼(坂東龍汰)が、経済的困窮のせいで家業を継ぐか音楽を続けるかの板挟みになっている。4話ではヴィオラ首席の桃井みどり(濱田マリ)が家庭とオケとの両立に悩み、大学受験を控えた娘(凛美)との葛藤もある。6話ではチェロ首席の佐々木玲緒(瀧内公美)が、失恋に加え自らの才能に対する疑問からやる気をなくし意気消沈している。8話ではオーボエ首席の穂刈良明(平田満)が認知症である妻(宮崎美子)の介護のため退団を考えるほど追い込まれている。主人公である天才ヴァイオリニストの初音や才能ある指揮者の朝陽だけでなく、ポンコツオケの楽団員たち一人ひとりの音楽と生活が浮き彫りにされ、彼らの抱える難題や苦悩をオケのメンバーたちが力を合わせて解決し、手を差し伸べ乗り越えていく。
 テーマはまさしく愛といっていいが、それは若い人たちの恋愛感情だけでなく、親子、姉妹、夫婦、オケ仲間の愛である。そして、何より音楽への愛が通奏低音のように全編を流れる。その音楽にまつわる物語が強い共感を呼ぶ。

 ドラマを支える劇伴音楽の存在も大きい。音楽を担当したのは人気ピアニスト・清塚信也と啼鵬。ベートーヴェン、ブラームス、パガニーニ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ラヴェル、ラフマニノフなどの有名曲を、ピアノを含めた小編成でもって大胆にアレンジし、ポップ調で軽やかな音楽に変身させドラマを盛り上げる。

 また、『リバーサルオーケストラ』は、題名通りオケの演奏シーンが多い。これには神奈川フィルが全面協力し、「アルルの女」「ウイリアム・テル」「威風堂々」「チャイコン」「運命」、そして、最終話の勝負曲「チャイ5」など、練習場や公民館、学校、コンサートホール、新設のシンフォニーホールにおいて迫力ある音楽を奏でる。まさに本物のオーケストラによる音が鳴り、架空のオケである児玉交響楽団の成長ぶりを説得力あるものにしている。
 神奈川フィルの楽団員もちゃんと演技をしている。ティンパニの篠崎さんは玉響を早々に退団してしまうが、台詞も喋ってなかなかの存在感。ホルンの豊田さん、トランペットの林さん、トロンボーンの府川さん、クラリネットの斎藤さん、ファゴットの鈴木さんなど、やはり管楽器の首席は目立つ。でも、最も花形だったのはセカンド・オーボエの紺野菜実子さん。場面は玉響の練習風景、オーボエトップの穂刈が介護問題で不調を極め、朝陽の指示で紺野さんが代わりにトップを務める。「運命」のオーボエソロを何度も繰り返す。ドラマの場面転換で重要な役割を果たしていた。

 神奈川フィルのドラマ出演については、長年、日テレの音楽番組の構成に携わっている新井鷗子さん(みなとみらいホールの館長)が、日テレから相談を持ち掛けられ、芸大時代の知人である神奈川フィルの榊原さんに頼み込んだのが切っ掛けだったようだ。
 結局、新井さんは番組製作の音楽監督を担い、榊原さんは田中圭の指揮指導をし、1話では朝陽が来る前の指揮者役で出演、スタッフ側のオーケストラ監督としてもクレジットされることになった―――だから、あんなに『リバーサルオーケストラ』のことをアナウンスしていたわけだ。
 面白いのは神奈川フィルの音楽監督である沼尻竜典で、オーケストラ監修として番組スタッフに加わっているが、本編へも引っ張り出され、最終話の審査員役で音楽評論家・沼倉次郎となって、新井さんと共に顔を出している。もう一人、同じ審査員役で名物コンマスの石田組長が沼尻監督と並んで登場していた。おぉ~、神奈川フィルハーモニー管弦楽団総出だ。

 地方のポンコツオケ・児玉交響楽団が神奈川フィルの協力を得たことは、ドラマ成功の大きな要因の一つになったと思う。
 神奈川フィルは名匠ハンス=マルティン・シュナイトが鍛えたオケであり、首都圏の他のオケと比べても技術や音楽に取り組む姿勢など見劣りしない。ひとつ違いがあるとすればローカリティを併せ持っているということだろう。定期演奏会の公演回数が少ない分、アウトリーチが多い。学校行事や県内巡回公演等々、地域における音楽の普及活動に積極的に取り組んでいる。公共スペースを使って演奏することもある。また、様々なジャンルの演奏家とのコラボレーションもたびたび。庶民的で“オラが町のオーケストラ”といった風である。
 そういえば、2月には「リバーサルオーケストラ・スペシャルコンサート」と銘打って田中圭と門脇麦を招き演奏会を開催した。劇中において演奏された曲を披露し、会場のみなとみらいホールは盛況だったようだ。とにかく楽団のフットワークがとても軽い。
 地方で育ち、地方オケの創成期を知る人間としては、神奈川フィルにはどことなく懐かしさを覚える。そのちょっぴり泥臭くてアットホームな雰囲気が、児玉交響楽団にぴったしで、これ以上ない絶妙の配役だったといえる。

 TV放映は終わり、TVerでは1~3話と最終話が視聴できる。いつまで見逃し配信が可能かは不明。Huluは全10話見放題であり、2週間の無料視聴期間が設けられている。日テレの公式チャンネルではYouTube経由で各話を10分程度にまとめたダイジェスト版を提供している。
 TVerとHulu、それに日テレの番組公式チャンネルのリンクを貼っておく。

https://tver.jp/series/sr84opbk2g
https://www.hulu.jp/reversal-orchestra
https://www.ntv.co.jp/reveorche/

アプローズ、アプローズ!2022年08月25日 16:02



『アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台』
原題:Un triomphe
製作:2020年 フランス
監督:エマニュエル・クールコル
脚本:エマニュエル・クールコル、
   ティエリー・ド・カルボニエ
音楽:フレッド・アブリル
出演:カド・メラッド、マリナ・ハンズ、
   ソフィアン・カメス


 実話をベースにしているという。スウェーデンの俳優ヤン・ジョンソンの実体験で、20年ほど前にも『Les prisonniers de Beckett』というドキュメンタリー映画がつくられている。今回は舞台をフランスに移し、エマニュエル・クールコルが脚本を書き、監督をした。

 売れない中年の役者エチエンヌ(カド・メラッド)は、刑務所での矯正プログラムの講師に招かれる。塀の中の、一癖も二癖もあるハグレ者たちに演技を教えるのだ。
 エチエンヌは、サミュエル・ベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』を演目に選び指導を開始する。演劇に対する彼の情熱は、囚人たちや刑務所の所長(マリナ・ハンズ)の心を動かし、半年後、困難を乗り越えて塀の外での公演にこぎつける。
 囚人たちの芝居は、観客やメディアの評判を得て再演を重ね、ついにはフランス随一の大劇場、パリ・オデオン座から公演のオファーが届く…
 戯曲『ゴドーを待ちながら』の世界が次第に映画の現実と重なっていく。すべての人が「待っている」、果たして「ゴドー」は現れるのか。

 このところ『ゴドーを待ちながら』が屡々話題にのぼる。『柄本家のゴドー』という記録映画があった。『ドライブ・マイ・カー』の劇中劇でも使われた。
 「今日は来ないが明日は来る」というのはゴドーからの伝言だった。人は何かを待ち続ける。謎、空虚、永遠、反復、意味は分からない。意味を拒否し、自問自答させることがベケットの狙いだったのだろう。

 エンドロールの背景には、ベケットの写真や当時のゴドーの舞台写真が映し出される。流れる歌はニーナ・シモンの「I Wish Knew How It Would Feel to Be Free」。これがまた映画にぴったし、格好いい。

2022/7/1 藤原歌劇団 コジ・ファン・トゥッテ2022年07月02日 10:13



藤原歌劇団・NISSAY OPERA 2022 公演
     「コジ・ファン・トゥッテ」

日時:2022年7月1日(金) 14:00 開演
会場:日生劇場
指揮:川瀬 賢太郎
演出:岩田 達宗
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
出演:フィオルディリージ/迫田 美帆
   ドラベッラ/山口 佳子
   グリエルモ/岡 昭宏
   フェランド/山本 康寛
   デスピーナ/向野 由美子
   ドン・アルフォンソ/田中 大揮
   合唱/藤原歌劇団合唱部
演目:モーツァルト/コジ・ファン・トゥッテ 全2幕


 ダ・ポンテ三部作と「魔笛」の上演は頻繁で、「イドメネオ」「後宮からの誘拐」「ティトの仁慈」などもオペラハウスの重要なレパートーリー、モーツァルトのいない劇場など考えられない。
 ダ・ポンテ三部作のうち、「ドン・ジョヴァンニ」だけはどうにも苦手だ。多分、モーツァルトは、ここで“真”のない人間世界を描いている。それがあまりにも完璧だから、できるだけ近寄らないようにしている。
 「フィガロの結婚」と「コジ・ファン・トゥッテ」、それに「魔笛」は順位がつけられない。「フィガロの結婚」を聴けば一番だと頷く。「コジ・ファン・トゥッテ」を観終わると、これ以上のオペラはないと確信する。「魔笛」のハチャメチャな筋を人はとやかく言うが、こんな真実にあふれた音楽は他にないと思う。この3作品はすべて一等だ。
 
 モーツァルトのオペラは何年ぶりだろう。10年ほど前、ダ・ポンテ三部作と「魔笛」「イドメネオ」「後宮からの誘拐」を立て続けに観たことがあった。その前後、モーツァルト以外にも「さまよえるオランダ人」や「リゴレット」「トゥーランドット」などを散発的に聴いた。コロナ禍の所為もある。長時間の上演が体力的にキツくなってきたこともある。ここ4、5年はご無沙汰、久しぶりである。

 藤原歌劇団のモーツァルトは、以前、アルベルト・ゼッタ指揮による「フィガロの結婚」を観て、いたく感心したことがあった。マルコ・ガンディーニの保守的な演出も良かった。演出といえば、新国立の「コジ・ファン・トゥッテ」で話題となったミキエレットなどは、あまりにも読み替えが酷くて楽しめなかった。初演、再演とご丁寧にも2度まで観てしまったけど。
 ミキエレットは「コジ・ファン・トゥッテ」を現代ドラマとしてキャンプ場に舞台設定した。モーツァルトとダ・ポンテの仕掛けた罠を読み解こうとし、その解答を分かりやすく示すために舞台・時代設定を変更したのだろう。しかし、「コジ」は、やはり、ひろびろとした海が似合っている。せっかく、モーツァルトは風と波と海の匂いを書いたのに、山のなかでは「風よ穏やかなれ」「甘くやさしいそよ風よ」などの情景が生きてこない。それに、姉妹は良家のお嬢さま、恋人たちは士官。キャンプ場をうろつくミーハーやヒッピーまがいの若者であるはずがない。だから、このとき、保守的な人間としては、目を瞑って鑑賞?していた。

 さて、藤原歌劇団の「コジ・ファン・トゥッテ」、岩田達宗の新制作だという。幕が上がると、円形の舞台に女性の人形が2体。生身の女性は思い通りにならない、その逆の象徴が人形というわけか。やはり、ひろびろとした海のイメージは希薄だったが、時代・場所の読み替えはそんなに極端ではない。
 物語が始まると、笑劇のように言葉が間髪を入れず飛び交う様子がない。レチタティーヴォの間合いが長く、ちょっとギクシャクした感じ。川瀬のテンポも息急き切るふうでなく、悠然と進めていく。これはブッファではなくて心理劇だ、と解釈しているのか。
 先の人形もそうだが、スター・ウォーズのライトセーバーといった小道具など、小ネタを交えた遊びもあるけど、全体としては深刻で真面目な取り組み。笑いに紛れて物語がすごい勢いで前へ進むというよりは、正劇のようにじっくりと解きほぐして行くよう。しばらくは、この展開に戸惑った。
 でも、この結構が、フィオルディリージのアリア「岩のように動かずに」では絶大な効果をあげた。モーツァルトはあらゆる感情を音楽であらわした人だが、迫田美帆と川瀬×新日フィルは、その心理の襞に分け入るようなアリアをつくりあげた。
 後半、フィオルディリージの「恋人よ、許して」ではさらに切実さを増す。彼女の心の動揺のひとつひとつはオケの各楽器によって表現され、秘めやかに迫田美帆の声を支える。ここでは照明も細かく変化し、フィオルディリージの心の揺れをさらに強調していた。
 「コジ」に真実があるとするなら、音楽は明らかにフィオルディリージに寄り添っている。「恋人よ、許して」のあと、フィオルディリージは、フェルランドの軍服を着て、当のフェルランドによって陥落してしまう二重唱などにも、偽りではない心が、その乱れる想いが、溢れている。「コジ」のクライマックスもここにある。川瀬の設計もその通り。遅めのテンポ、濃密な表現、それでいて古楽器のような音色も聴こえる。楽器を丁寧にからませ歌わせる。
 この二重唱、相方のフェルランドの口説きは、筋書きから言えば戯れのはず。でも、音楽は真剣で、とても嘘とは思えない。だからこそ、フィオルディリージも持ちこたえられない、神に救いを求めつつ身体を預けてしまう。男は妻子があろうとフィアンセがいようと、口説くときは我を忘れやすいのだから、これはよく分かる。
 しかし、女と男の、同じ真実でも「コジ」における境界線は、女は騙されていることを知らない、男は知ったうえで、そのきっかけが阿呆な賭け、という決定的な違いがある。それが惨めな不幸のはじまりだった。
 「コジ」のフィナーレの音楽には、解放も解決もない。なぜ、大団円のさなか、想いを断ち切るようなパウゼが何度もあるのか。心優しいモーツアルトがこんな突き放したフィナーレを書いたのはこの作品だけ。祭りのあとをどうしても考えてしまう。この居心地の悪さ、ぎこちなさ、宙ぶらりんにされた気分。「人間は、みんなこうしたもの」と小さく呟いてみたからといって納得できるわけはない。

 改めて思う。「コジ・ファン・トゥッテ」を完全に理解することは、誰一人できないと。
 「コジ」を不謹慎と一言で片付けたり、不道徳とそっぽを向いたり、人間機械論で切り捨てることができれば簡単だが、そうはいかない。登場人物の心情、心理にぴったり寄り添う音楽を聴いていると、音楽は、物語や演出を超えて、誰一人、本当の心とはなにか、人の心とはなにか、ということが分からなくなる。“分からなくなる”ということが分かってくる。モーツァルトの仕掛けはここにある。
 何事もすべてはうまくいかない、物事は見かけどおりではない。信念とか愛とか生とかの、なんとも頼りなく脆いもの、その儚さを表象するために、モーツァルトは、この音楽を書いたとしか思えない。「レクイエム」は未完であることで、後世に開かれている。「コジ」は完璧に完成していても、閉じることはない。

 モーツァルトの音楽は、不仕合せのなかで微笑んでいる。仕合せのなかでも涙ぐんでいる。その美しい躍動感のなかに、はかり知れないペシミズムがあり、どうしようもない人の愚かさと救いようのなさを描き出す。恐ろしい作家だね。

シラノ2022年03月17日 15:59



『シラノ』
原題:Cyrano
製作:2021年 イギリス・アメリカ合作
監督:ジョー・ライト
脚本:エリカ・シュミット
音楽:ブライス・デスナー、アーロン・デスナー
出演:ピーター・ディンクレイジ、ヘイリー・ベネット、
   ケルビン・ハリソン・Jr


 ご存じ、エドモン・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を原作にしたミュージカル映画。もとはオフ・ブロードウエイの舞台ミュージカル。

 舞台版の生みの親はエリカ・シュミット、脚本を書き演出を務めた。題名役はピーター・ディンクレイジ。エリカとピーターは私生活でのパートナー。ロクサーヌを演じたのはヘイリー・ベネット。ヘイリーの交際相手が本監督のジョー・ライトで、恋人の招きで『シラノ』の初演舞台を観て感銘を受け、シラノとロクサーヌのキャストや音楽はそのままに、シュミットの新たな脚本によって、『シラノ』舞台版を映画化したいと申し出た。特別な関係の男女二組がこの映画製作にかかわっているというのが面白い。

 ミュージカルになった「シラノ・ド・ベルジュラック」。戯曲からはだいぶ翻案され、枝葉がかなり刈り取られている。もちろん大筋に変更はないものの味付けは薄目。だけど、歌や踊りは思いのほか違和感がない。道具立てや美術が華やかで美しい。
 ジョー・ライトの演出は、小気味よいテンポでサクサク進む。映像は『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』でもみせたように、光の使い方、スローモーション、俯瞰のカメラワークなど魔術的。感心するショットがたくさん詰まっている。
 デスナー兄弟の音楽は、サントラを買いたくなるほど、どれもこれも魅力いっぱい。有名なバルコニーシーンや戦場で家族に託した歌などに心震える。
 俳優陣ではタイトル・ロールのピーター・ディンクレイジに尽きる。シラノは群集劇でありながら一人芝居でもあるわけで、ピーター・ディンクレイジの存在感に圧倒される。シラノのコンプレックスは、大きな鼻ではなく小人症に置き換えているが、これもすんなりと納得させてしまう。ボサボサの髪と無精ひげ、眉間の皺と思慮深い目、その表情とその演技に引き込まれる。そして、張りのある低音の声が心地よい。

 しいて難点をあげると、戯曲でいえば最終章「5幕 シラノ週報の場」。ここはもっとじっくり物語を練り込んでほしかった。時も夕闇迫る時刻でなければ。
 ド・ギーシュ、ル・ブレ、ラグノオも登場させないから、シラノが倒れるまでのいきさつが分からないし、時が人に与える残酷さも諦念も浮かび上がってこない。
 それに、ロクサーヌが「あなたの不幸は私故」と嘆き、シラノが「滅相な、私は永く女の愛を知らなかった。母も私を醜い子だと思っていた。妹もいない。大人になって恋しい女の目に宿るあざけりを恐れていた。しかし、私は、初めてあなたのおかげで、少なくとも女の友をもつことができた。おもしろくもない生涯に、過ぎ行く女の衣摺れの音を聞いたのも、あなたのお陰」と応えつつも、ロクサーヌを愛していることを頑なに認めない。シラノは最期まで彼の美学を貫き死んでいく。ここがこの戯曲の最大の見せ場で、それによって悲劇が完成するのだと思うけど、名台詞ともども欠落している。ちょっと残念。

 以前、「シラノ・ド・ベルジュラック」については、まとめて書いた。
 http://ottotto.asablo.jp/blog/2021/06/06/9385123

 ともあれ、「シラノ・ド・ベルジュラック」は、百数十年にわたって人々を魅了し、愛されてきた物語だから、どう料理しても見ごたえはある。この『シラノ』は不朽の名作を、歌物語という新しい切り口で表現して、「シラノ・ド・ベルジュラック」の演劇史・映画史に、新しい1頁を付け加えたといっていいのだろう。