2022/7/1 藤原歌劇団 コジ・ファン・トゥッテ2022年07月02日 10:13



藤原歌劇団・NISSAY OPERA 2022 公演
     「コジ・ファン・トゥッテ」

日時:2022年7月1日(金) 14:00 開演
会場:日生劇場
指揮:川瀬 賢太郎
演出:岩田 達宗
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
出演:フィオルディリージ/迫田 美帆
   ドラベッラ/山口 佳子
   グリエルモ/岡 昭宏
   フェランド/山本 康寛
   デスピーナ/向野 由美子
   ドン・アルフォンソ/田中 大揮
   合唱/藤原歌劇団合唱部
演目:モーツァルト/コジ・ファン・トゥッテ 全2幕


 ダ・ポンテ三部作と「魔笛」の上演は頻繁で、「イドメネオ」「後宮からの誘拐」「ティトの仁慈」などもオペラハウスの重要なレパートーリー、モーツァルトのいない劇場など考えられない。
 ダ・ポンテ三部作のうち、「ドン・ジョヴァンニ」だけはどうにも苦手だ。多分、モーツァルトは、ここで“真”のない人間世界を描いている。それがあまりにも完璧だから、できるだけ近寄らないようにしている。
 「フィガロの結婚」と「コジ・ファン・トゥッテ」、それに「魔笛」は順位がつけられない。「フィガロの結婚」を聴けば一番だと頷く。「コジ・ファン・トゥッテ」を観終わると、これ以上のオペラはないと確信する。「魔笛」のハチャメチャな筋を人はとやかく言うが、こんな真実にあふれた音楽は他にないと思う。この3作品はすべて一等だ。
 
 モーツァルトのオペラは何年ぶりだろう。10年ほど前、ダ・ポンテ三部作と「魔笛」「イドメネオ」「後宮からの誘拐」を立て続けに観たことがあった。その前後、モーツァルト以外にも「さまよえるオランダ人」や「リゴレット」「トゥーランドット」などを散発的に聴いた。コロナ禍の所為もある。長時間の上演が体力的にキツくなってきたこともある。ここ4、5年はご無沙汰、久しぶりである。

 藤原歌劇団のモーツァルトは、以前、アルベルト・ゼッタ指揮による「フィガロの結婚」を観て、いたく感心したことがあった。マルコ・ガンディーニの保守的な演出も良かった。演出といえば、新国立の「コジ・ファン・トゥッテ」で話題となったミキエレットなどは、あまりにも読み替えが酷くて楽しめなかった。初演、再演とご丁寧にも2度まで観てしまったけど。
 ミキエレットは「コジ・ファン・トゥッテ」を現代ドラマとしてキャンプ場に舞台設定した。モーツァルトとダ・ポンテの仕掛けた罠を読み解こうとし、その解答を分かりやすく示すために舞台・時代設定を変更したのだろう。しかし、「コジ」は、やはり、ひろびろとした海が似合っている。せっかく、モーツァルトは風と波と海の匂いを書いたのに、山のなかでは「風よ穏やかなれ」「甘くやさしいそよ風よ」などの情景が生きてこない。それに、姉妹は良家のお嬢さま、恋人たちは士官。キャンプ場をうろつくミーハーやヒッピーまがいの若者であるはずがない。だから、このとき、保守的な人間としては、目を瞑って鑑賞?していた。

 さて、藤原歌劇団の「コジ・ファン・トゥッテ」、岩田達宗の新制作だという。幕が上がると、円形の舞台に女性の人形が2体。生身の女性は思い通りにならない、その逆の象徴が人形というわけか。やはり、ひろびろとした海のイメージは希薄だったが、時代・場所の読み替えはそんなに極端ではない。
 物語が始まると、笑劇のように言葉が間髪を入れず飛び交う様子がない。レチタティーヴォの間合いが長く、ちょっとギクシャクした感じ。川瀬のテンポも息急き切るふうでなく、悠然と進めていく。これはブッファではなくて心理劇だ、と解釈しているのか。
 先の人形もそうだが、スター・ウォーズのライトセーバーといった小道具など、小ネタを交えた遊びもあるけど、全体としては深刻で真面目な取り組み。笑いに紛れて物語がすごい勢いで前へ進むというよりは、正劇のようにじっくりと解きほぐして行くよう。しばらくは、この展開に戸惑った。
 でも、この結構が、フィオルディリージのアリア「岩のように動かずに」では絶大な効果をあげた。モーツァルトはあらゆる感情を音楽であらわした人だが、迫田美帆と川瀬×新日フィルは、その心理の襞に分け入るようなアリアをつくりあげた。
 後半、フィオルディリージの「恋人よ、許して」ではさらに切実さを増す。彼女の心の動揺のひとつひとつはオケの各楽器によって表現され、秘めやかに迫田美帆の声を支える。ここでは照明も細かく変化し、フィオルディリージの心の揺れをさらに強調していた。
 「コジ」に真実があるとするなら、音楽は明らかにフィオルディリージに寄り添っている。「恋人よ、許して」のあと、フィオルディリージは、フェルランドの軍服を着て、当のフェルランドによって陥落してしまう二重唱などにも、偽りではない心が、その乱れる想いが、溢れている。「コジ」のクライマックスもここにある。川瀬の設計もその通り。遅めのテンポ、濃密な表現、それでいて古楽器のような音色も聴こえる。楽器を丁寧にからませ歌わせる。
 この二重唱、相方のフェルランドの口説きは、筋書きから言えば戯れのはず。でも、音楽は真剣で、とても嘘とは思えない。だからこそ、フィオルディリージも持ちこたえられない、神に救いを求めつつ身体を預けてしまう。男は妻子があろうとフィアンセがいようと、口説くときは我を忘れやすいのだから、これはよく分かる。
 しかし、女と男の、同じ真実でも「コジ」における境界線は、女は騙されていることを知らない、男は知ったうえで、そのきっかけが阿呆な賭け、という決定的な違いがある。それが惨めな不幸のはじまりだった。
 「コジ」のフィナーレの音楽には、解放も解決もない。なぜ、大団円のさなか、想いを断ち切るようなパウゼが何度もあるのか。心優しいモーツアルトがこんな突き放したフィナーレを書いたのはこの作品だけ。祭りのあとをどうしても考えてしまう。この居心地の悪さ、ぎこちなさ、宙ぶらりんにされた気分。「人間は、みんなこうしたもの」と小さく呟いてみたからといって納得できるわけはない。

 改めて思う。「コジ・ファン・トゥッテ」を完全に理解することは、誰一人できないと。
 「コジ」を不謹慎と一言で片付けたり、不道徳とそっぽを向いたり、人間機械論で切り捨てることができれば簡単だが、そうはいかない。登場人物の心情、心理にぴったり寄り添う音楽を聴いていると、音楽は、物語や演出を超えて、誰一人、本当の心とはなにか、人の心とはなにか、ということが分からなくなる。“分からなくなる”ということが分かってくる。モーツァルトの仕掛けはここにある。
 何事もすべてはうまくいかない、物事は見かけどおりではない。信念とか愛とか生とかの、なんとも頼りなく脆いもの、その儚さを表象するために、モーツァルトは、この音楽を書いたとしか思えない。「レクイエム」は未完であることで、後世に開かれている。「コジ」は完璧に完成していても、閉じることはない。

 モーツァルトの音楽は、不仕合せのなかで微笑んでいる。仕合せのなかでも涙ぐんでいる。その美しい躍動感のなかに、はかり知れないペシミズムがあり、どうしようもない人の愚かさと救いようのなさを描き出す。恐ろしい作家だね。

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