圓融寺2022年06月02日 16:49



 散歩するには、厳しい季節になりつつある。雨模様が続き、湿気も多く蒸し暑い。

 それでも今日は比較的天候に恵まれていたので、目黒区の学芸大学駅へ行ったついでに、圓融寺まで足をのばした。
 学芸大学駅で用事を済ませ、昼、蕎麦を食べてから、碑文谷の圓融寺に向かった。

 経王山文殊院圓融寺、平安時代創建と伝えられる天台宗の古刹、閑静な住宅街の中にあって立派な寺である。
 東門より参詣すると、まずは阿弥陀堂がそびえている、これは昭和の建立。次いで、室町時代とされる重文の釈迦堂をみて、隣接する墓地を一巡りした。渡哲也、西城秀樹の墓がある。境内はサツキかツツジか、まだまだ花が盛りで見事なり。そのあと、仁王門、山門をくぐって西小山駅まで歩いた。これで歩数にして約1万歩。

 今回は立ち寄ることができなかったが、林試の森公園、目黒不動尊龍泉寺なども徒歩圏にある、散歩コースとしてお勧めである。

つゆのあとさき2022年06月08日 13:17



 おととい、気象庁は関東の梅雨入りを宣言した。平年より1日、去年より8日早いという。
 梅雨の合間を見計らって歩くことにする。だいたい、漫然と歩くよりは、目的地を定めたほうがいい。

 ひとつは公園。近ごろの公園は規模の大小問わず、子供用の遊具だけでなく、大人用の道具が設置されているところがある。滑り台やブランコ、ジャングルジムといった子供向けの定番だけでなく、大人用と注意書きのあるぶら下がり器、背が半円形になったベンチ、身体をひねる器具等々。むかし、室内用のぶらさがり健康器具が流行ったが、その屋外バージョン、背伸び用のベンチ、回転台のついた手すりなどだ。
 お気に入りはぶらさがり器、最初は3秒と握れなかったものが、繰り返すうちに1分くらいは何とか我慢できるようになった。もっとも、これによって猫背が矯正されるとか、握力が増すとか、筋力がつくとか、といった効果はほとんどないと思う。でも、身体を動かすことは悪いことではない。

 もうひとつは寺社。この辺りは神社なら天照大御神、熊野権現、大物主神、稲荷神、八幡神など八百万の神が御座る。仏閣なら真言宗、法華宗、浄土宗、真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗など各宗が集まっている。
 一度で4、5社寺ほど巡ることができる。境内では四季折々の花々に感心し、手入れの行き届いた樹々を楽しむことができる。時には犬猫を揶揄って時間をつぶす。

 今日は公園を目的地にした。
 この季節、歩いていると、『つゆのあとさき』の断片の幾つかがぼんやりと纏わりつく。時代は違っても、長年世話になった日比谷、数寄屋橋、銀座の街並みや、梅雨の始めから終わりの移り変わり、浅薄な男と奔放な女の絡み合いが、突き放したような筆の運びでもって描かれていた。

 この鬱陶しい時代の鬱陶しい季節、あらためて荷風を読んでみようか。「静かな処で小さく暮すのが、私に一番適当して居る」といった反時代主義者の荷風を。

2022/6/10 広上淳一×日フィル プロコフィエフとショスタコーヴィチ2022年06月11日 12:05



日本フィルハーモニー交響楽団 
   第378回横浜定期演奏会

日時:2022年6月10日(金) 19:00 開演
会場:神奈川県民ホール
指揮:広上 淳一
共演:ヴァイオリン/ボリス・ベルキン
演目:プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第2番
           ト短調 op.63
   ショスタコーヴィチ/交響曲第5番 ニ短調 op.47


 本当は、桂冠指揮者で芸術顧問のラザレフが振る予定だった。日フィルのHPには「現在起きている諸状況を考慮し、楽団と同氏の双方で協議を重ねた結果、残念ながら今回の来日を断念することになりました」とアナウンスされ、広上に代わった。

 都響においてもピアニストのニコライ・ルガンスキーが「現下の諸状況に鑑み、双方で協議を重ねた結果、残念ながら今回の来日を断念することになりました」と同じような文面で告知されていた。
 東フィルのプレトニョフは来日している。ボリス・ベルキンはロシア人であっても西側に亡命しているから?そのまま登場。紛争の影響とはいえ、すっきりしない対応ではある。

 音楽は、政治と関係ない、政治から超越している、との野暮は言わない。そればかりか政治や社会環境と作家の緊張関係は、揺れ動く感情を介して音楽に刻印されるものだろう。それは音楽の始原からしてそうだった。ショスタコーヴィチ作品の屈折、本音と建前をあらためて指摘するまでない。
 演奏も同様だろう。音盤を通してさえメンゲルベルクの「マタイ」、フルトヴェングラーの「エロイカ」の只ならない気配は感じる。生身の演奏会であれば尚更、すべての演奏会がその時々の政治・社会の背景から逃れることはできない。
 だからといって、否、だからこそ、「敵性音楽」を禁止した阿呆なようなことを、またぞろ繰り返しているのは情けない。政治・社会と音楽は、もちろん関連する。しかし、政治・社会の犯した愚を音楽と音楽家に負わしてはいけない。
 待て待て、政治・社会の愚かしさの帰結としての阿呆なのだから、それに対して何かができるというわけではない。ただ、自己に向けて小さく異議申し立てをしておきたい。

 さて、広上×日フィル+ベルキンの演奏。
 指揮者広上とソリストのベルキンとは30年来の友人で、一緒に録音をし、国内の演奏会だけでも日フィル、N響、読響、京響、名フィル、札響などと共演している。プログラムノートによると広上&ベルキンと日フィルとの組み合わせは今回で5度を数えるという。このプロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」も何度かとりあげていて、まるで、はじめから二人のために用意したような演目である。

 作曲家プロコフィエフもロシアから亡命した。しかし、長い亡命生活のあと祖国に戻る。「ヴァイオリン協奏曲第2番」は、その祖国永住の決意を固めたころに書いたという。因みに「ヴァイオリン協奏曲第1番」は、若き日、ロシアから亡命する直前に書かれている。

 ベルキンは1948年生れ、70歳半ばの老人だが、見た目も仕草も若々しい。
 試し弾きのように音楽をはじめ、力みは一切なく自然体のまま終えた。作曲家から想像されるような激しさや鋭角的なところは希薄で、全体にソフトな肌ざわり。
 そうであっても音は一音たりともオケに埋没しない。すべての音が鮮明に届いてくる。これはプロコフィエフの管弦楽法の故なのか、広上のツボを押さえたサポートの所為なのか。どうして、何よりもベルキンの熟練のなせるわざ、というべきだろう。
 第1楽章はちょっと郷愁を誘うような民謡風の旋律が耳に残る。第2楽章は本演奏の白眉。機械的な弦楽器のピツィカートと木管楽器のスタッカートの上を、独奏ヴァイオリンが抒情的なメロディを奏でる。無機的な音と有機的な音が絡み合い、甘すぎず辛すぎず、現代社会における心の様々のようで、たまらずホロリと来た。第3楽章は躍動的な5拍子、7拍子といった舞曲風のリズムにのって打楽器が活躍、そのなかで独奏ヴァイオリンが豊かに鳴る。
 ベルキンのヴァイオリン捌きの見事なこと、いい音楽を聴かせてもらった。

 ショスタコーヴィチは、命の危険に晒されながらも、終生祖国に留まった。
 その一番の危機のとき、つまり、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が『プラウダ』上で“音楽の代わりの支離滅裂”“荒唐無稽”と批判され、スターリンの不興をかった。
 このとき強力な援助をしてくれたのが、トゥハチェフスキー元帥だった。音楽愛好家であった元帥は、恐怖と絶望の渦中にあったショスタコーヴィチを救うため、スターリンに嘆願書を書いてくれた。ショスタコーヴィチ自身も自己批判の姿勢を示す交響曲を書く。これが「5番」。
 話はこれで終わらない。「5番」を作曲している途中、彼を窮地から救ってくれたトゥハチェフスキー元帥が突然逮捕される。でっちあげの「スターリン暗殺計画」に関与したとして銃殺刑となる。ショスタコーヴィチも秘密警察に呼び出され、トゥハチェフスキー元帥との関係を尋問される。このときショスタコーヴィチは死を覚悟した。ところが、嘘のような偶然で、彼を尋問していた人間が刑務所送りとなって難を逃れる。
 「5番」は完成した。ムラヴィンスキー×レニングラード・フィルによる初演は圧倒的な成功をおさめ、「改悛の情明らか」と認められ名誉を回復する。

 「交響曲第5番」は、表向きは「体制を肯定し、社会主義リアリズムに沿った作品」とされている。その後『ショスタコーヴィチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ)が出版され、それには「強制された歓喜なのだ」とある。真偽不明ながらいろいろ騒々しい。
 また、交響曲のとことどころにビゼー「カルメン」からの引用があって、どう解釈するかについて議論が別れている。第4楽章には、直前に書いた「プーシキンの詩による四つのロマンス」の旋律があり、その歌詞は意味深である。<野蛮人の手によって汚された天才の絵は、年月が経って剥がれ落ち、やがて天才の創造物は美しさを取り戻し、われわれの前に現れる>と。とまれ、ショスタコーヴィチの韜晦、多義性を巡っては何冊も本が書けるほどだ。

 しかし、ここでは音楽そのものについての話。
 広上はさりげなく「交響曲第5番」を開始した。冒頭は低弦の動機がカノン風に推移し、ほとんどの演奏において極めて強い衝撃を与える部分だが、広上は呆気にとられるほど物静か。そして、そのまま冷え冷えとした音楽が続いていく。熱量がないわけではない、氷の炎が勢いを増していくような感じ、と言ったらよいか。寒々しい荒涼とした風景が映し出される。
 広上は加速、減速に癖があって、待ち構えているとはぐらかされる。その感触が曲によってはわざとらしさというより新鮮な驚きとなる。加えて、たえず主旋律を浮かび上がらせながら、副旋律のそれぞれを多分に強調するから、自ずと緊張感が高まって行く。
 「5番」は、ベートヴェン的な“苦悩の克服から歓喜へ”“闘争から勝利へ”といった文脈で語られ、「人民を鼓舞する分かりやすい音楽」として大人気となったけど、正直、楽観的な解放された気分などほとんど感じられない。暗く冷たく、外に怒りをぶつけるのではなく、内へ内へと怒りが向けられ、ついにはそれが頂点に達して崩壊する、といった風にしか捉えられない。また、それがショスタコの実際の心情ではなかったかと思う。
 広上の演奏は、その姿をよく表現していた。日フィルの演奏もほの暗い、それでいて透明感のある音質で弦・管・打いずれも好演、さすがショスタコを得意としているオケだけのことはある。
 広上は京響を退任したあと、ラザレフと並んで日フィルの芸術顧問に就任した。今後の活躍が楽しみだ。

音大フェスティバル2022年06月12日 21:45



 今年末の音大オーケストラ・フェスティバルと、今年度末の音大フェスティバル・オーケストラ公演の詳細が発表になった。

 オーケストラ・フェスティバルは、いつものように11月と12月に東京芸術劇場とミューザ川崎で計4公演を行う。今年は芸大が不参加だが8つの音大が集う。チケットは7月9日発売。
 次の通り、チラシが出来上がっている。

 https://www.geigeki.jp/wp-content/uploads/2022/05/c259.pdf

 来年3月の音大フェスティバル・オーケストラ公演は、首都圏9音楽大学選抜オーケストラを井上道義が振る。芸術劇場とミューザの2会場、同一プログラムで開催する。伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」とストラヴィンスキーの「春の祭典」という注目すべき演目。チケットの販売は11月11日から。
 以下は東京芸術劇場の公演情報。

 https://www.geigeki.jp/performance/concert258/

あじさい寺 前編2022年06月15日 16:13



 季節はあじさい寺だから、今週の金曜日、いつもの北鎌倉の食事処を予約した。
 準備は万端なのだが、予定を眺めてみると、一日ではちょっと難しい。とくに、昼食時間をゆっくり確保するには厳しい計画となっている。
 で、急遽、二日に分けることにして、雨のなか鎌倉へ出かけた。

 長谷寺は今年のはじめ訪れているし、江ノ電・長谷駅の混雑ぶりを見て、一つ先の極楽寺駅で降りた。
 門前の紫陽花が出迎えてくれる極楽寺。
 開山は癩病者・貧者救済に努めた忍性。縁起によれば金堂、講堂、十三重塔などのほか約50の塔頭を備えた大伽藍だったという。現在、その面影はなく、合戦や火災、地震により茅葺屋根の山門と本堂を残すのみで、こじんまりとした境内である。その境内の紫陽花もひっそりと雨に打たれている。拝観は無料、京都の寺とは大違い。わずかばかりの志を納めて外に出た。

 極楽寺坂切通に沿った石段の、西結界から成就院に向かう。
 参道の紫陽花は、震災後200株以上を南三陸町へ寄贈し、今は30株ほどのようだ。あいにく由比ヶ浜の海はけぶって見えなかったが、雨に映えた紫陽花はさすが趣がある。紫陽花の跡地には宮城県の花である萩を植えたという。秋にはまた格別の見ものとなるだろう。山門の大きな鉢には様々な色彩の紫陽花が活けてあり、手水鉢にも紫陽花が浮かべてある。境内には御本尊の不動明王の分身が祀ってある。この歳ではもう縁ないが、恋愛成就のお寺だという。ここも拝観料をとらない。本堂のお不動様にも手を合わせてきた。

 切通を長谷駅の方へおりて行くと、成就院の境外仏である虚空蔵菩薩の堂があり、並んで鎌倉十井のひとつ星の井がある。昼でも井戸を覗き込むと星の影が見えたことから、星の井と名づけられ、僧行基はこの井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身として虚空蔵堂を建てたという伝説がある。

 これらをゆっくり廻って約半日、そのまま鎌倉駅まで戻り、帰路についた。
 週末は北鎌倉で紫陽花と再会する。