2025/7/5 スダーン×東響 ビゼー「アルルの女」 ― 2025年07月05日 21:54
東京交響楽団 名曲全集 第209回
日時:2025年7月5日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ユベール・スダーン
共演:ピアノ/上原 彩子
演目:ベルリオーズ/序曲「ローマの謝肉祭」
ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調
ビゼー/「アルルの女」第1、2組曲
東響の監督を引退してから10年以上になるが、スダーンはあいかわらず毎年のように来日してくれる。有難いことだ。マーラーやブルックナーような重量級の作品は少なくなったけど、フランスものやモーツァルト、ベートーヴェンの偶数番交響曲などを聴くことができる。今日はフレンチプログラムである。
「ローマの謝肉祭」から。同名の歌劇はないので序曲と言っても演奏会用の作品。元ネタは「ベンヴェヌート・チェッリーニ」というオペラで、このモチーフを使って作曲された。ベルリオーズの序曲の中では比較的よく演奏される。
力強い導入に続いて優しい主題が登場し、最上さんのイングリッシュホルンが雰囲気を一変させる。謝肉祭の場面からは打楽器が大活躍、そのまま終幕へと雪崩れ込む。あたりまえながらスダーンと東響の息はピッタシ、良い意味で力の抜けた一体感のある演奏。今日のスダーンは指揮台を使わずタクトを持たない。ときどきこういったスタイルで指揮をする。
続いてオケの編成を縮小しラヴェルの素敵な「ピアノ協奏曲」。この曲も人気があって毎年のように其処彼処で演奏される。昨日と今日の都響でもアリス=沙良・オットのソロで同曲がプログラムされていた。
上原彩子は久しぶり、チャイコフスキー国際コンクールで優勝したすぐ後に聴いている。四半世紀も昔のこと。上原さんは芯のある輪郭のはっきりした音でスウィングし、ときにアンニュイも漂わせながらオケと対話して行く。ピアノと管楽器との掛け合いは音の絡みだけでなく、奏者同士の目くばせや呼吸を合わせるための仕草など見ていて楽しい。第2楽章の長大なピアノソロや第3楽章の打楽器としてのピアノも聴きごたえがあった。ソリストアンコールはドビュッシーの前奏曲集より「パックの踊り」と紹介されていた。
「アルルの女」は戯曲の付随音楽、劇伴音楽である。そこから2つの組曲が編まれる。第1組曲はビゼー本人が編曲したもの。第2組曲はビゼーの死後、友人のエルネスト・ギローにより演奏会用に改編された作品。
「アルルの女」というと思い出すことがある。大昔、広上淳一が名フィルのアシスタント・コンダクターを務めていたことがある。キリル・コンドラシン指揮者コンクールに優勝する前。優勝したことで副指揮者は1年ほどで終わってしまった。その副指揮者時代に聴いた「アルルの女」のことである。途轍もない演奏だった。両組曲を一気に通して演奏したのか、両組曲からの抜粋だったのかは今はもう覚えていないが、前奏曲、カリヨン、メヌエット、ファランドールなど、そのリズムのキレ、フルートの音、弦のざわめきなどがちゃんと聴こえてくる。
余談だけど当時の名フィルの副指揮者の選考では広上と佐渡裕の両者の争いだった。佐渡は落選してアメリカに逃れ別の道が拓けた。人の運命は分からない。ただ、たしかなことは名フィルの事務局には若き広上と佐渡、2人の才能に注目した目利き(耳利き)がいたということだ。
さて、スダーンと東響の「アルルの女」は如何に。「前奏曲」の有名な冒頭の行進曲風の主題はプロヴァンス民謡といわれている。スダーンは弦の響きに拘りながらテンポよくスタートした。サクソフォーンが主題を歌う。ヴァイオリンが哀愁に満ちた旋律を弾く、あれ!行進曲風の主題は変奏曲となっているではないか。迂闊にも今まで気づかなかった。「メヌエット」は哀愁を帯びた調べと優艶なトリオのワルツが印象的だ。「アダージェット」は弱音器付の弦楽合奏が優しく旋律を奏でる。「カリヨン」はホルンが鐘の音を模倣して進む。第1組曲が終わった途端、会場からはパラパラと拍手が起こった。
第2組曲は「パストラール」からスタート、牧歌的旋律で始まり、途中からは綱川さんが叩くプロヴァンス太鼓が加わり、舞踏風リズムへと曲が展開していく。見慣れない太鼓だったけど本物のプロヴァンス太鼓であったかどうかは分からない。「間奏曲」は冒頭の荘厳で力強いユニゾン、サクソフォーンの奏でる優雅な旋律が耳に残る。有名な「メヌエット」は歌劇「美しきパースの娘」から借用した音楽。「アルルの女」にはなかったものだが、フルートのソロ曲としても広く知られ「アルルの女」のメヌエットといえば普通こちらを指す。ハープの爪弾きをうえを竹山愛のフルートが流れる。スダーンは他の楽器が入ってくるまでは腕組みをしたまま。竹山さんのフルートは繊細で美しい。ハープは多分研究員として入団した渡辺沙羅だと思う。ハーピストは誰しも手が綺麗だけど、彼女の手は一段と指が長くて細い。ハープの音だけではなくその手にも見とれていた。最後は「ファランドール」、華やかな舞曲と第1組曲の行進曲の主題が交互に現れ、曲はスピードを増し熱狂的に盛り上がって終わった。
「アルルの女」はポピュラーな誰でも知っている曲だが、不思議と実演にめぐり合えない。広上×名フィルのあとはアラン・ギルバート×都響の抜粋版くらいしか思い出せない。今日、改めてスダーン×東響でしっかりと聴かせてもらった。
珍しくオーケストラアンコールがあった。ソリストアンコールに合わせてなのか同じドビュッシーの「月の光」だった。舞台にはマイクが何本も立っていた。カメラは入っていなかったので、この演奏はいずれCD販売されるのかも知れない。
フェスタサマーミューザのチケット情報 ― 2025年07月03日 17:04
今月の下旬から来月の上旬にかけ恒例のフェスタサマーミューザが開催される。
ミューザのHPにはチケットの残席状況(6月20日付け)が情報提供されている。チケットの販売は伸び悩んでいるようで、全18公演中、完売はノット×東響によるオープニングコンサートのみ。券種の一部が売切れているのはシティフィル、N響、日フィルのわずか3公演である。7月中旬にはセット券の売れ残りを1回券に切り替えて販売するから、さらに残席は増えるだろう。
今年の祭りへの参加はささやかにオープニングコンサートだけを聴く予定で、チケットはすでにWebで予約し購入した。仮に公演を追加するとしてもこの販売状況であれば当日券で十分間に合う。
チケット販売がはかばかしくないのは、指揮者やソリストの集客力、あるいはプログラムの所為かも知れない。例えば指揮者をみると今回は太田弦、松本宗利音、熊倉優、出口大地といった若手30代の競演が目玉のようだが、売れ行きはN響を振る松本を除けばノット、高関健、下野竜也といったベテラン勢に負けている。
たしかに、指揮者や演目などにもうひと工夫いるようだ。それとチケット代が昨年よりだいぶ値上げされた影響もあると思う。従来はオケの違いで同じS席券でも4000円、5000円、6000円という3通りの料金設定であったものが、一律6000円に統一された。最安値のB席券では2000円、3000円、4000円の3区分が一律4000円となり、オケによっては料金が2倍となった。
さらにWeb予約のシステム利用料や発券手数料も大幅に値上げされた。ミューザ川崎のWeb予約は操作の手数が多くて面倒な「チケットぴあ」のシステムであり、そのうえ料金改定となり、できることなら使いたくない。電話予約か直接窓口という方法はあるが別の手間がかかる。チケット一枚を買うのさえ難儀だ。
最近、シティフィルや神奈川フィルなどが従来のWeb予約システムに加え電子チケット販売サービスの「Teket」を併用するようになった。
「Teket」は優れもので、東響や都響のWeb予約と同様、ホール全体の座席表から瞬時に座席を選択できる。メール登録しクレジット決済をすると座席のQRコードをモバイルへ送付してくれる。演奏会場ではそのQRコードを読み取り機にかざせば入場可能だ。紙のチケットは不要で購入側のシステム利用料や発券手数料も必要ない。
システムの運用主体はNTTの子会社のようだ。もともとアマチュアの催し物のチケット販売に活用されていたものが、徐々にプロオケなどが参加するようになっている。こうした簡便で廉価なシステムの利用拡大は大歓迎である。
2025/6/28 ボレイコ×新日フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第11番」 ― 2025年06月28日 21:56
新日本フィルハーモニー交響楽団
#664〈サントリーホール・シリーズ〉
日時:2025年6月28日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:アンドレイ・ボレイコ
共演:ピアノ/ツォトネ・ゼジニゼ
演目:ストラヴィンスキー/ピアノと管弦楽のための
カプリッチョ
ショスタコーヴィチ/交響曲第11番ト短調
「1905年」
ストラヴィンスキーには2曲のピアノ協奏曲があるという。プログラムノートによると、ひとつは「ピアノと管楽器のための協奏曲」、そして、もうひとつがこの「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」。2曲とも聴いたことはない。音盤を持っていないし、実演も初めて。
「カプリッチョ」はストラヴィンスキーが新古典主義時代の作品、ドライな音楽で反ロマン的といったらよいか、ピアノが打楽器のように活躍する。ストラヴィンスキーの特質であるリズムと音色と音響は健在であるが、情感に訴えることや歌い上げることはしない。軽快な曲運びは好ましいけど、正直あまり面白い曲ではない。プレスト、ラプソディコ、カプリッチョーソの3つの楽章が続けて演奏された。
ソリストは日本でいえば高校生のツォトネ・ゼジニゼ、ジョージア出身で作曲もするらしい。音楽の世界では昔から早熟の異才が現れる。「カプリッチョ」が20分程度の短い曲だったせいかゼジニゼはアンコールを3曲も披露した。3曲とも自作だと知ってびっくり。
ショスタコーヴィチの「交響曲第11番」は10年ほど前のラザレフ×日フィルが基準となっている。井上、沼尻、角田、インバル、カエターニなど聴いたが、ラザレフは別格である。今では「第11番」は劇伴音楽として聴けばいいのではないかと冗談もいえるけど、当時は恐怖と混乱がしばらく尾を引いた。いまだに「第11番」の演奏会になると身構えてしまうのはその後遺症が癒えていないためだろう。
別名「1905年」、ロシアにおける「血の日曜日事件」を描く。帝政ロシア末期、貧困と飢餓に苦しむ人々はサンクトペテルブルグの宮殿前広場に集まった。その民衆に向かって軍隊が発砲し、数千人の死傷者を出す大惨事となる。これが共産主義国家ソヴィエト連邦成立の遠因となった。
第1楽章「宮殿前広場」、ハープが鳴り、陰鬱な雰囲気の主題が提示され、ティンパニとトランペットの不気味な呟きへと引き継がれる。その上を幾つかの革命歌の旋律が流れる。帝政ロシアの圧政、重苦しさが漂う。ボレイコは音圧を絞り抑圧的な音響で緊張感を高めていく。
第2楽章「1月9日」、民衆が行進をはじめる。変奏と変拍子が次第に緊迫の度合いを増す。前楽章の主題が鳴り渡ると、突然、スネアドラムを筆頭に打楽器の連打となる、民衆への無差別の銃撃。広場は阿鼻叫喚の地獄となる。ボレイコの描写力は過たない。大音響が止み身動きする者は誰もいない。その不気味な静寂と惨状。
第3楽章「永遠の記憶」、重々しいしいピチカートに乗って、ヴィオラが革命歌を奏でる。葬送行進曲である。ボレイコはヴィオラの音量を抑える。弔いの鐘のような金管の呻きは慟哭というしかない痛切な叫びとなる。音楽はやがて力尽きるかのように沈黙する。
第4楽章「警鐘」、決然とした金管楽器の動機は民衆が蜂起する様だろう。ここでも革命歌が引用され、イングリッシュホルンの調べに泣かされる。ボレイコは力任せではなく、むしろ追憶としてのイングリッシュホルンの旋律に焦点をあてた。最後は全管弦楽の強奏のなかで鐘が激しく打ち鳴らされる。このとき普通はチューブラーベルという管状の鐘を何本もセットした楽器が使われるが、今回は金属板をぶら下げたツリーチャイムを鳴らした。楽器の挙動は多少不安定ながら異様な音と残響が鳴り渡った。この民衆のエネルギーともいうべき勇壮なフィナーレにおける鐘は未来へのまさに警鐘のようだ。
ボレイコの音楽は心身とも巻き込まれてしまいそうな苛烈なものではない。テンポやバランスがよく整えられた堅実でハッタリのない演奏である。作者ショスタコーヴィチが何を訴えようとしたのかを示唆してくれるような音楽だった。
ボレイコはサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)生れ、ショスタコーヴィチと同郷である。父親はポーランド人、母親はロシア人だという。2023/24までワルシャワフィルの音楽監督を務め、昨年、手兵と来日している。以前は東響やN響を指揮したこともあるようだが、日本のオケを振るのは珍しい。ボレイコのショスタコーヴィチは他も聴いてみたい。
2025/6/21 沼尻竜典×神奈川フィル 楽劇「ラインの黄金」 ― 2025年06月22日 12:38
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
Dramatic Series 楽劇「ラインの黄金」
日時:2025年6月21日(土) 17:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
共演:ヴォータン/青山 貴(バリトン)
ドンナー/黒田 祐貴(バリトン)
フロー/チャールズ・キム(テノール)
ローゲ/澤武 紀行(テノール)
ファーゾルト/妻屋 秀和(バス)
ファフナー/斉木 健詞(バス)
アルベリヒ/志村 文彦(バリトン)
ミーメ/高橋 淳(テノール)
フリッカ/谷口 睦美(メゾソプラノ)
フライア/船越 亜弥(ソプラノ)
エルダ/八木 寿子(アルト)
ヴォークリンデ/九嶋 香奈枝(ソプラノ)
ヴェルグンデ/秋本 悠希(メゾソプラノ)
フロースヒルデ/藤井 麻美(アルト)
演目:ワーグナー/楽劇「ニーベルングの指輪」
序夜「ラインの黄金」
先月のWeb『ぶらあぼ』のインタビューに沼尻監督が登場し、神奈川フィルとの楽劇「ラインの黄金」について、「セミステージ形式をオペラの新しいあり方のひとつとしてとらえたい」という話や、「ワーグナーが求めている繊細さと、重厚さの両面を聴いていただきたい」といった思い、そして、当日は「京浜急行電鉄さんにご協力いただいて、ミーメが打つ鉄床に京急の実際のレールをカットしたもの」を用いるとか、「オーケストラはワーグナーが指定した16型を採用……ハープもワーグナーの指定通り、舞台上に6台、舞台裏に1台の合計7台使い……舞台上にワーグナーが意図した豊穣なサウンドが再現されるはず」などと、その意気込みを語っていた。
https://ebravo.jp/archives/190652
序奏が始まる「リング」全体の前奏曲である。コントラバスの最低音が持続し、その上をホルンが「生成のモチーフ」を吹く、ホルンの分散和音が8番奏者から始まって次々と折り重なり1番奏者の坂東裕香まで波及していく。このときの8番奏者(正式入団したばかりの千葉大輝だと思う)のプレッシャーは並大抵ではなかっただろう。しかし、この100小節を越える音響は完璧だった。この段階で今回の公演の成功を確信した。
最初の場面は「ライン川の底」。水の精である3人の乙女たちが黄金を守っている。ラインの乙女は九嶋香奈枝、秋本悠希、藤井麻美という豪華キャスト。3人とも歌声はもちろん、揃いも揃って見目麗しく演技は細やかで眼福の極み。
ラインの黄金は愛を捨てた者のみが指輪に作り変え、その指輪で世界を支配することができるという。ニーベルング族の小人アルベリヒは愛を断念すると宣言し、ラインの黄金を盗みだす。アルベリヒの志村文彦は一人だけ譜面を使った。演奏会形式ではよくあることだけど、どうしても所作が制約される。彼はびわ湖「リング」においても同役を担っていたし、客席最前列の中央にはプロンプターが座っていたのだから、ここは譜面なしで歌ってほしかった。
2場は「山の上のひらけた台地」。大神ヴォータンは巨人ファーゾルトとファフナーの兄弟に、女神フライアを報酬として与えると約束して神々の城を建てさせた。しかし、城が完成しても約束を果たそうとしない。青山貴のヴォータンは品がありながら嫌な奴を好演、安定した歌唱と演技をみせた。妻屋秀和はさすがの存在感、これ以上ないファーゾルトだった。ファフナーの斉木健詞も深々としたバス、妻屋ともども上背があってそのままでも巨人に見える。
フライアは神々を若返らせる黄金のリンゴを育てる女神だからヴォータンの妻フリッカや雷神ドンナー、歓びの神フローは不安で仕方ない。フライアの船越亜弥はこれだけのメンバーの中だから一寸力が入ったのは仕方ない。谷口睦美のフリッカは貫禄を見せて適役、夫ヴォータンとのやり取りが人間臭くて苦笑する。ドンナーの黒田祐貴は有望株、これからが楽しみ。フローのチャールズ・キムは当初予定していた清水徹太郎の代役で、相変わらず滑らかな声だ。
さて、火の神ローゲが登場し、アルベリヒによって奪われたラインの黄金が指環に鍛え上げられたと告げる。巨人たちはフライアと世界を支配できる指輪や財宝とを天秤にかけ報酬の変更に応じるが、フライアを人質としてその場から連れ去る。澤武紀行のローゲは声質や立ち居振る舞いの切れ味が鋭く、悪辣さよりは聡明さが勝る。軽るめだが狂言回しとしてははまり役、素晴らしいローゲだった。
ヴォータンはローゲとともに、アルベリヒから指環を奪うため地底の世界ニーベルハイムへ降りていく。2場から3場への場面転換は例の鉄床が打たれる。今回P席とRA,LA席は客を入れず空席とし、RA,LAには照明装置を置き、P席の上段、オルガンの前にレールの断片を9つ並べ、一斉に打ち鳴らした。間奏曲の音楽とともにこの迫力には驚嘆。照明も物語の内容を光の強弱、色彩でもって効果的に補強していた。
3場は「ニーベルハイム」。アルベリヒはラインの黄金から指輪を作り上げた。その魔力によってニーベルング族は震えあがり地下鉱脈から財宝を精製し、鍛冶屋の弟ミーメは虐げられ姿を隠すことのできる変身兜を作ることになった。ミーメの高橋淳は「魔笛」のモノスタトスや「サロメ」のヘロデを持ち役としている。たしかにミーメに相応しい。
ヴォータンとローゲはアルベリヒを罠にかけることにする。ヴォータンとローゲはアルベリヒを捕らえ、ラインの黄金からつくった指輪と財宝を手に入れる。4場への転換に再び鉄床が鳴らされる。
4場は再び「山の上のひらけた台地」。天上界に連れて来られたアルベリヒはヴォータンに何もかも奪われ、それと引き換えに自由の身となるが、指輪に呪いをかける。ヴォータンは財宝を巨人たちにくれてやるものの指環だけは絶対に渡さないと言い張る。そのとき大地の母神エルダが現れ、呪われた指環を手放すべきだと忠告する。ヴォータンはしぶしぶ指輪を巨人たちに与え、女神フライアを取り戻し城を手に入れる。すると指輪の呪いか巨人たちはたちまち争いをはじめファフナーがファーゾルトを殴り殺す。エルダの出現と歌はこの場面に限られているが、八木寿子は物語の雰囲気を一気に変えた。聴き手は茫然自失となり、ほとんど昇天していた。今回粒ぞろいの歌手陣になかにあって、あえて選ぶとするならラインの乙女とローゲ、そしてこのエルダということになろう。
ドンナーは雲を集め稲妻を起こし、フローは虹の橋を架ける。稲妻の一発は高音の鐘ではなくて、マーラー「6番」のハンマーのようなドンといった音。ヴォータンは妻フリッカや神々とともに虹の橋を渡り、神々の城ヴァルハラへ入場する。ラインの水底からは黄金を失った乙女たちの嘆きが響く。ローゲは仲間に加わらず、やがてやってくる神々の没落に思いを馳せる。「ラインの黄金」はこの「神々のヴァルハラ入城」の音楽に収斂し終わりを迎える。ハープ6台を搔き鳴らす。3人の乙女はP席に位置し、オルガン横にはさらにハープが1台置かれる。普通は舞台裏から聴こえる嘆きがまるで天上から降りてくるよう。「剣のモチーフ」が出現し、上行音形と下行音型、ラインの乙女の嘆きが交錯する。猛々しく勇壮であるばかりでなく、この先の悲劇と崩壊、暗澹たる未来を予告する。行く末の物語を知っているからではない。いまここで鳴っている音楽の力に圧倒され続けた。
沼尻竜典×神奈川フィルは総力を結集した。沼尻のワーグナーは毒気は多少薄いかも知れないが、全く弛緩のない音楽を維持した。構築力が優れているせいか2時間半があっという間だった。神奈川フィルは目立った傷もなく大健闘、引き締まったオケの響きは快感で、高水準の歌手たちとの共演は贅沢な時間だった。コンマスは日フィルの扇谷泰朋がゲスト。
沼尻竜典は一昨年までびわ湖ホールの音楽監督を務め、海外でもリューベック歌劇場などとの縁が深い。コンサート指揮者であると同時にオペラ指揮者であり、作曲家としての顔も持つ。いずれ新国立オペラ部門の芸術監督になるのだろう。
びわ湖ホール時代には「ニーベルングの指環」全作を上演した。ようやく神奈川フィルのDramatic Seriesにおいて「ラインの黄金」を取りあげた。この先「リング」全作に発展してくれることを是非とも望みたい。
2025/6/14 マリオッティ×東響 チャイコフスキーとプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」 ― 2025年06月14日 20:50
東京交響楽団 名曲全集 第208回
日時:2025年6月14日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ミケーレ・マリオッティ
共演:ヴァイオリン/ティモシー・チューイ
演目:チャイコフスキー/幻想的序曲
「ロメオとジュリエット」
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
プロコフィエフ/バレエ組曲
「ロメオとジュリエット」
モンターギュ家とキャピュレット家
少女ジュリエット
マドリガル
メヌエット
仮面
ロメオとジュリエット
タイボルトの死
マリオッティの名曲全集はロシアもの3曲。チャイコフスキーとプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の間に、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」を挟んだ。
チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」からスタート。幻想的序曲となっているが、演奏会用のオーケストラ・ピースである。2、3年前にもライスキン×神奈川フィルで聴いた。
冒頭はクラリネットとファゴットによるコラール風の荘重な音楽、ロメオとジュリエットの理解者であるロレンス修道僧をあらわしているという。続く主題は弦楽器と管楽器の激しい掛け合い、剣戟をイメージさせる両家の諍い。戦いが落ち着いてきたところでイングリッシュホルンとヴィオラによる甘美な主題が出現する。恋するロメオとジュリエットであろう。その後、悲劇的なトランペットによって2人の死が暗示される。そして、各主題が交錯しながら激しく盛り上がり、終結部は葬送行進曲から木管楽器による天上の音楽となって曲が閉じられる。
マリオッティ×東響の演奏は何幕かの舞台を駆け抜けたように熱くドラマチック。マリオッティは加速や減速、クレッシェンドやディミヌエンドに独特の工夫があって意表をつかれることしばしばだが、そこがまた隠し味として効いている。
ミューザはよく埋まっていた。当日券が販売され完売公演ではなかったはずなのに、先日のマリオッティの評判もあって急遽駆け付けた人もいたのではないか。最初の曲から客席は大いに盛り上がっていた。
舞台をセット仕直し数名の奏者が出入りして、そのまま同じチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」。ソリストのティモシー・チューイは、インドネシア系のカナダ人、ヴァイオリンはアメリカで学んだようだ。
チューイのチャイコフスキーはポルタメント、ルバートを交えて情緒纏綿たる節回し。時代がかっているとは言い過ぎながら、昔のメン・チャイで表と裏にカップリングされたレコードの演奏を思い出していた。チューイはボウイングが巧みでとても綺麗な音だけど、弾くときの姿形は情熱的。背を屈め反らし身体を大きく動かす。場合によっては足を踏み鳴らしそうな勢いだった。
伴奏のマリオッティはかなりテンポを揺らしていたものの呼吸の乱れは全くない。ふだん我儘な歌手たちと合わせているから当然か。東響はやはり木管たちの個人技が冴えわたっていた。フルートはゲストだったが、オーボエ荒木、クラリネット吉野、ファゴット福井という面々。
チューイのアンコールはコリリアーノの「レッド・ヴァイオリン・カプリース」だという。まったくもって目の覚めるような演奏。会場はやんやの歓声に溢れていた。
休憩後、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」。もともとのバレエ音楽は50数曲で構成されており、そこから3つの組曲が編まれている。各組曲がそのまま演奏されることはほとんどない。だいたいが指揮者の好みで再編成される。数年前に聴いたウルバンスキの場合は3つの組曲から満遍なくセレクトしていた。今日のマリオッティは第2組曲の2曲で開始し、その後第1組曲の5曲を順に並べた。
マリオッティ×東響の演奏はバレエ音楽としてどうなのか、ちょっと首を傾げた。ドラマチックに描いて切れ味鋭く濃厚ながら、踊りの音楽としては流れが悪い。誤解を招きやすい言い方ではあるけど、プロコフィエフの音楽はストラヴィンスキーがそうであるように、音楽で語る中身より単純にリズムと響きの面白さがある。マリオッティが物語に捉われ過ぎたのではないかと、その分、バレエの躍動感とリズムや響きの楽しさが損なわれたように思う。
どちらにせよこの「ロメオとジュリエット」は目の詰まった演奏で、前半のチャイコフスキーの2曲を含めて音楽でお腹一杯になった気分だ。今日もマリオッティはオーケストラが捌けた後カーテンコールで呼び出されていた。
マリオッティはこれからも継続的に東響を振ってほしい。ノットのように演奏会形式でいいからロッシーニやプッチーニなどのオペラ上演を企画してくれたら最高である。
ノットのあとの音楽監督はイタリア系のロレンツォ・ヴィオッティだから、同じイタリア系で年齢も上、オケのポストにも興味がなさそうなマリオッティに首席客演指揮者というのは難しいかも知れない。
まて、ヴィオッティはスイス出身、たしか父方の祖父母がイタリア人だ。いや、出自や肩書諸々の話ではない、贅沢を言わないまでもマリオッティにはせめて毎年1回くらい来日してほしい。東響事務局の奮闘を陰ながら応援したい。