2022/7/16 沼尻竜典×神奈川フィル ショスタコーヴィチ「交響曲第8番」2022年07月16日 20:47



神奈川フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会第379回

日時:2022年7月16日(土) 14:00 開演
会場:神奈川県民ホール
指揮:沼尻 竜典
演目:ショスタコーヴィチ/交響曲第8番ハ短調Op.65


 先月から今月にかけて「5番」「7番」「11番」「8番」と、ショスタコーヴィチの交響曲を聴き続けている。
 ショスタコーヴィチなのだから「5番」「7番」「11番」も一筋縄ではいかない。3曲とも描写的で、幾分かのプロパガンダを含み、大衆あるいは党に聴かせるための演出がある。もちろん、そのことによって曲を貶めることにはならないし、曲の価値は損なわれないけど。
 しかし、この「8番」は、戦争交響曲といわれる「7番」~「9番」のなかで、もっとも内省的で、他者というものを埒外においた曲のように思う。戦争そのものに向かい合った精神の苦悶が記録されていて、戦争の狂気、恐怖、悲惨と真正面に対峙している。描写的でありながら、純粋音楽として結晶化した稀有の音楽といっていい。

 沼尻の音楽監督就任公演は聴けなかった。監督としてのこれが最初である。といっても、沼尻は昔から結構聴いてきた。そのなかでも今日は最高の演奏会、神奈川フィルの仕上がりも完璧だった。
 低弦による序奏が極めてゆっくりと開始される。このままではオケが最後まで持たないのではないか、と思われるほどの速度で始まった。続く弦5部の絡み合いは異常な緊張をはらんでいた。最終楽章でも再現される破壊的なテーマは、まさに恐怖そのもの、身体が凍り付く。県民ホールにおいて今まで経験したことがないほどの音圧で、そのなかから各楽器の音色が明瞭に聴きとれる、沼尻のこれは才能だろう。篠崎史門を中心とした打楽器陣の呼吸は見事というしかない。イングリッシュ・ホルンの長いソロは新人の紺野菜実子、荒涼とした風景が目の前に浮かんだ。コーダ直前の林辰則のトランペットは虚空を突き抜け彼岸に到達するかのよう。
 スケルツォ楽章は、激しく駆け抜ける。おどけている、というよりは狂乱。ベテラン寉岡茂樹のキレのいいピッコロ、ファゴット鈴木一成の酩酊したような響き、クラリネット斎藤雄介、亀居優斗が放つ極限の高周波、いずれも惚れ惚れとする。
 第3楽章から最終の第5楽章までは切れ目なく続く。冒頭、不気味なヴィオラのみのオスティナート、中間部の鮮やかなトランペットのギャロップ。府川雪野を核にしたトロンボーンの咆哮。平尾信幸のスネアドラムに一段と熱がこもる。ラルゴに移り葬送の音楽、パッサカリア。坂東裕香のホルンソロはやはり安定していて美しい。3番には同じ首席の豊田実加が座るという贅沢な布陣。最終楽章はファゴットによる鄙びた舞曲からバスクラリネットのソロ、フガートが展開する。平安は一時のこと、突然、破壊的テーマが回帰し、再び恐怖に慄く。それが収まると、石田コンマスからチェロの門脇大樹へソロが渡り、ハ長調の和音が繰り返され、消えるようにして全曲が閉じた。

 「8番」は「7番」のときとは違い戦局が好転していたにもかかわらず、あまりにも悲劇的で悲観的な曲想のため、案の定、作曲家同盟などから批判される。ショスタコーヴィチは「交響曲の内容を正確に叙述することは難しい。<第8交響曲>の内容の根本にある思想をごく短い言葉で言い表すとすれば、<人生は楽し>である。暗い陰鬱なものはすべて崩れ去り、美しい人生が今や開かれつつある」と、空々しく解説する。
 「戦争三部作」といわれる交響曲の中心に位置する「8番」は、戦争の犠牲者への追悼であり、また、2年半にわたって封鎖され、戦火を浴び、飢饉に苦しみ、廃墟のようになった故郷レニングラードの、100万人を超える人々が亡くなったといわれるその悲惨に、心底向き合った曲だろう。そして、それゆえ、戦争という不変の悲しみを永遠に曲に刻み込むこととなった。
 沼尻×神奈川フィルは、そのショスタコーヴィチ「交響曲第8番」を最良の姿で描き出した。