2022/1/20 下野竜也×読響 ブルックナー交響曲第5番2022年01月21日 10:24



読売日本交響楽団 第614回 定期演奏会

日時:2022年1月20日(木) 19:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:下野 竜也
演目:メシアン/われら死者の復活を待ち望む
   ブルックナー/交響曲第5番 変ロ長調 WAB 105


 1年以上も前、2021年度の定期演奏会の演目が発表されたときから、ツァグロゼクのプログラムを楽しみにしていた。
 ツァグロゼクは、昔から現代音楽への取り組みでいろいろと話題になっていて、名前だけは馴染みがあったが、はて、その演奏となると放送でも音盤でも真正面から聴いたことはなかった。2019年2月の読響とのリーム&ブルックナーの実演が初めての出会いとなった。
 そのブルックナー「交響曲第7番」が素晴らしかった。ブルックナーの「7番」は、「5番」「8番」などに比べ、前半の二つの楽章に対し後半が弱い。アダージョまでが勝負で、あとは印象薄く流れてしまうことが多い。1,2楽章の名演はあっても、全体を通して満足することがなかなかできない。そのせいもあって後々まで演奏の余韻が残ってくれない。
 ところがツァグロゼクは明らかに4楽章にクライマックスを設計し、楽章を追うごとに熱量を増していった。いつもなら全曲のコーダは、途中で断ち切られたような中途半端さがつきまとうのだが、このときは違った。じわりじわりと盛り上げ完全に燃焼した。全編にわたって稠密で細密画のようでありながら巨大さを失わず、「7番」における過去最高の演奏となった。
 3年ぶりの来日で今度は「5番」を振るという。期待の大きさが分かろうというもの。しかし、変異株による入国制限のため来日不能。正直、かなりガッカリした。
 このツァグロゼクの代役が下野竜也だという。下野は9年前の読響正指揮者の退任公演で「5番」を取り上げた。絶賛されたその演奏を聴き逃している。で、気を取り直して、チケットを手配したという顛末。

 プログラムは、メシアンの「われら死者の復活を待ち望む」から始まった。
 管楽器と打楽器のための合奏作品。管楽器は木管・金管を問わないが、打楽器は金属製打楽器のみ、鍵盤や木製は使わない。5曲からなり、それぞれに聖書から引用されたテクストがそえられている。20世紀の半ばフランス文化相のマルローから二つの大戦の犠牲者を追悼するための曲として委嘱を受けたという。タイトルの通り死者の復活と救済を祈る鎮魂歌。
 下野は休止を慎重にはさみ残響を意識した音づくり、不協和音が一杯ながら苦痛ではない。メシアンらしくガムラン風の響を背景に鳥の声や人の声などが聴こえる。不思議な音響に包まれる。読響の管・打はなかなかの好演、荘厳で豊かな響きのなかで30分ほどの時間が短く感じた。

 次いで、ブルックナーの「5番」(ハース版)。
 構築物の巨大さからいえば「8番」に並ぶ。終楽章で各楽章の主題を次々と出してくるところなどは、明らかにベートーヴェンの影響。これが畢竟「8番」終結の各楽章の主題を同時に鳴り響かすというとんでもないコーダに結実する。コラールだとかフーガだとかの結構も大きい。でも、全体の印象は茫洋として、いたって地味。だから、多分、ブルックナーのシンフォニーのなかでは、聴かせるがための演奏がもっとも難しい厄介な曲。しかし、嵌まると「8番」と同じように、とてつもないことになる。
 「5番」には鮮烈な思い出が二つある。
 そのひとつは、20年ほど前、朝比奈の代演でハウシルトが新日フィルを振った。この演奏がまことに見事で聴衆を興奮させた。そのせいもあってかハウシルトはその後も何度も来日したと思う。あのときは最終楽章のコーダのみ金管を増量させた。ラッパ吹きの何人かが3楽章が終わると舞台に入ってきて、ずーっと沈黙していたあと、結末だけを壮大に吹奏した。その後も「5番」は何度も聴いたけど、こういった手管はこの時だけ。楽譜に指定があるわけではなかろう。外連味たっぷりで禁じ手のような気もしたが、その効果は絶大だった。
 もうひとつは、10年ほど前、飯守×シテイフィル。ブルックナーチクルスの一環で、指揮者もオケも最初から気合が入っていた。曲の進行につれ音楽は魁偉を極め、終楽章に到達。その半ばあたり、ここぞというコラール主題の登場で金管が飛び出した、大事故である。音楽は一瞬ばらけたが、泰然として音楽は進み無事結末を迎えた。シティフィルといえば飯守の信頼する手兵である。そうであっても事故が起きる。飯守の棒は分かりにくい。だからこそ逆にオケの緊張が持続するのだろう。そもそも飯守は洗練された音楽を目指しているわけではなく、素朴であっても心の底から迸る情趣を現前させようとする。それは確かに陰影深く実現された。生じた事故の大きさとともに記念碑的演奏となった。
 ブルックナー演奏は、朝比奈やマタチッチのように細部には拘らず大掴みで、ひたすら悠然と、あるいは豪快に歩みを進めるものから、ヴァントやスクロヴァチェフスキのごとく細部を彫琢し尽くし、ヴァントは重厚に、スクロヴァチェフスキは鋭利に、それぞれの感性で徹底的に透明に仕上げるもの、スダーン、飯守のように全体を見通し、各声部をバランスさせ、洗練と無骨という違いがあるにせよ、真面目に音を積み上げていくやり方、ツァグロゼクやノットのように現代音楽の側からブルックナーに光を当て、室内楽のように緻密にかつ大きさを失わず、あるいは当意即妙でありつつダイナミックに再構築する方法、そして、これは音盤だけの感想だけど、冷たく繊細で、それでいて強靭なチェリビダッケや、剛毅でありながら端正なカイルベルトまで様々だけど、では、下野竜也は如何に。
 下野のコントロールに隙はない。楽章ごとのテンポ設定、楽章のなかでの緩急、音量調整、強弱のタイミング、いずれもきっちり整理されている。オケもほとんどミスはなく、弦は重厚、管もよく鳴って、読響がブックナーを得意とするオケであることがよく分かる。全体に引き締まっていながら滑らかな、いい演奏だったと思う。
 しかし、それが心に訴えてこない。ブルックナーの音楽は、主題が出てくるごとに、転調するごとに、次々と新しい風景をみせてくれる。その風景から立ち上がる音を聴いていると、いつのまにか高みに引き上げられる、あるいは、跪きたくなることがある。ところが、下野の音楽は、なんの問題もなく前進し、内声部もよく聴こえるのに景色が変わって行かない。色彩も単調で物語が展開しない。どうして?
 これは突拍子もないことだし、話したことも人柄も知らないので放言の類だが、下野が善人すぎるのではないか。あまりに音楽が真っ直ぐで雑味がないことが、面白味を欠くのかも知れんと邪推する。もっとも、発信する側に問題がないのに、素直に受け止められないのは、たんに受信するこちら側の心象に欠陥があるのかも知れないが。
 結局、一言、今回は嵌まらなかったわけだ。

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