クライ・マッチョ2022年02月01日 19:03



『クライ・マッチョ』
原題:Cry Macho
製作:2021年 アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
脚本:N・リチャード・ナッシュ、ニック・シェンク
出演:クリント・イーストウッド、
   エドゥアルド・ミネット、ナタリア・トラヴェン


 90歳を越えたクリント・イーストウッドがメガホンをとり、主演をした最新作。イーストウッドの監督50周年、40作目にあたる記念作品らしい。

 老カウボーイが、恩義ある元の雇い主から、メキシコに住む元妻の手元にいる息子を取り戻してほしいと頼まれる。その老カウボーイが少年とともに国境を目指す。ヤクザな元妻の用心棒たちが二人を追う。

 この映画、一言で評すると、ゆるい。
 原作はN・リチャード・ナッシュが書いた同名の小説で、原作者が脚本にも参加しているが、物語の進行に意外性がなく、これといった起伏もない。
 元妻の周りにいるヤクザがずっこけるほど弱っちい。旅の中途で車を何度も乗り換え、あまりに都合よく手に入れる。最後に乗るベンツには笑えるけど。台詞はありきたりでキレ味が薄い。画像はメキシコの町と田舎が中心で、変化に乏しく魅力あるとはいえない。
 老人と少年との関係を描いた映画であれば『グラン・トリノ』のほうがずっと緊張感があった。ロードムービーなら『運び屋』のほうが数段ハラハラドキドキした。

 でも、老いさらばえたイーストウッドは、拳骨をふるい、馬に乗り、ダンスを踊って、人生をやり直そうとする。そして、「マッチョ」と名づけられた闘鶏や少年、老カウボーイに向き合う女たちには、生がみなぎっている。だから、ゆるくはあっても、その強さと優しさ暖かさに微笑むことはたしか。
 後味は決して悪くない。穏やかな時間のなかで、思い出にふけり過去を懐かしみながら、画面一杯のクリント・イーストウッドの今を観る映画だろう。

世界で一番美しい少年2022年02月03日 16:20



『世界で一番美しい少年』
原題:Varldens vackraste pojke
製作:2021年 スウェーデン
監督:クリスティーナ・リンドストロム
   クリスティアン・ペトリ
出演:ビョルン・アンドレセン


 昔々、ルキノ・ヴィスコンティの映画をすべて観よう、と思い立って、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『夏の嵐』『山猫』『異邦人』『地獄に堕ちた勇者ども』などのビデオを借りまくった。そのきっかけは『ベニスに死す』だった。その後も『ルートヴィヒ』『家族の肖像』『イノセント』を追いかけた。しかし、目標は成就しなかった。初期の作品の2,3本が見つからないまま、しばらくして熱意が失せた。
 今では『夏の嵐』と『愛の嵐』(監督:リリアーナ・カヴァーニ)の題名がごっちゃになり、『地獄に堕ちた勇者ども』と『愛の嵐』の内容が混濁して、わけが分からくなっている。耄碌だけが原因ではない。題名のほうは一字違い、内容のほうは同じナチス時代、ダーク・ボガードとシャーロット・ランプリングが共通、混乱は致し方ないではないか。
 いずれにせよ当時は、ヴィスコンティの貴族的で耽美的で退廃的な作風に夢中になっていた。

 『ベニスに死す』は、トーマス・マンの同名小説(『ヴェニスに死す』岩波文庫)を映画化したもの。原作の主人公アッシェンバッハは作家であるが、映画では作曲家に変えている。モデルはグスタフ・マーラー、「交響曲第5番」のアダージェットがひっきりなしに流れ、「交響曲第3番」のアルト独唱も使われた。
 ヴィスコンティはオペラ演出家でも有名で、音楽の使い方は心憎いほど。『夏の嵐』ではブルックナーの「交響曲第7番」のアダージョが、「第8番」の第1楽章は『地獄に堕ちた勇者ども』だったか。『ルートヴィヒ』はワーグナーのパトロンであった王の話だから、ワーグナーの音楽は言わずもがな。

 ルキノ・ヴィスコンティは『ベニスに死す』の映画化にあたって、主人公の作曲家アッシェンバッハを虜にし破滅させる少年タジオ役を求め、ヨーロッパ中を探しまわっていた。そして、ヴィスコンティが言う「世界で一番美しい少年」を見つける。それがビョルン・アンドレセンであった。
 映画『世界で一番美しい少年』は、そのビョルンのドキュメンタリーである。
 ミニシアターには、ヴィスコンティもビョルン・アンドレセンも知らないような若い観客が何人かいた。「美しさ」は人を引き寄せる。

 少年タジオ役のオーディションの模様が映し出される。ヴィスコンティは絶対者として君臨している。映画の中のタジオは挑発するような目つきで観る者を狼狽えさせるが、オーディションでの、上半身裸でオドオドした、はにかんだ目のビョルンは痛々しい。
 ビョルンは婚外子だった。母親は彼が幼いころ自死した。父親は不明。母親が誰にも頑なに口を割らなかった。祖母に育てられる。個人撮影用の8㎜と思うが、母親や本人の幼児期の動画などが紹介される、半世紀前の電話での会話録音もある。
 15歳になってタジオ役で一躍世に出る。撮影後、ヴィスコンティはパリのゲイ・コミュニティへ彼を連れていく。少年に対する性的虐待である。祖母はさしずめステージママで、孫を搾取し続ける。ビョルンがヴィスコンティから見放されたあとは、彼を遠く日本で稼がせた。これも一種の虐待だろう。
 来日の際の熱狂的な歓迎フィルムが挿入される。TV出演や明治製菓のチョコレート「エクセル」のCM撮影、歌謡ソングのレコーディングなどに翻弄される。歌は日本語で、きれいな発音である。音楽がずっと好きだったという。耳がいいのだろう。
 その後のビョルンは、子供を授かるものの、幼い長男を亡くしてしまう。自堕落な生活が続き、精神を病む。破滅寸前まで行くが、踏みとどまる。2019年には『ミッドサマー』の老人役となって復活する。『ベニスに死す』の撮影現場と対比するように、『ミッドサマー』の撮影風景も記録されている。
 このドキュメンタリーのため、ビョルンはもう一度日本を訪れる。思い出の土地をめぐる。少年のときの来日は、祖母に強いられエージェントに食い物にされた辛い記憶ばかりであろうが、日本そのものを嫌いになってはいなかったようだ。漫画家・池田理代子や音楽プロデューサー・酒井政利などとの会話も挟まれる。

 「世界で一番美しい少年」という重荷を背負ったまま、年齢を重ねていくのは想像を遥かに越えている。ペトリ監督は「美を求める普遍的な気持ちや憧れを持ってはいても、そこには同時に破壊的な側面があることをつねに意識していなければならない」と語るが、その通りだろう。仮に、芸術のためだけであったとしても、彼を弄んだヴィスコンティは許されるのか。美しく生れて来たが故の不幸、と言うには過酷すぎる。
 エンドロールで、再び日本語で歌う歌謡ソングが流れる。衝撃を確かめるように映画は終わる。
 

 今日は節分。立春の前日、すなわち年越しの日、邪気払いの日でもある。恵方巻を食するは関西の風習だろうが、恵方巻を買ってきた。昨夜の豚汁に合わせれば立派な夕食が整う。ご馳走である。

北鎌倉2022年02月04日 19:46



 食事を目的に、北鎌倉を再訪した。先月の昼食が大満足で、同じ食事処へ。
 前回はほぼ満席だったが、今日はわれわれ一組だけ。コロナ対策のせいでキャンセルが相次いでいるとのこと、客が全く取れない日は休みにしているという。ここは電話予約が必要で、予め客の状況が把握できるからだ。そういえば事前に電話をかけたとき、2,3日繋がらなかった。店自体を閉めていたわけだ。
 しかし、「蔓延防止措置」が実施されているからといって、キャンセルをするほどのことだろうか。飲んで騒ぐような場所ではない。家族あるいは友人同士で静かに語らい、食事をするだけだ。もともとはこういった防止措置を講ずる行政の判断に疑問があるが、国民の側もあまりに過剰反応ではないかという気がする。
 数日前にはイギリスに続いてデンマークがコロナ規制を撤廃したという。規制の効果が期待できないからだ。歴史を繙けば感染症のパンデミックは人の手で解決されたことはない。自然終息を待つしかない。今回は過大に人為的な介入をしている。将来へ禍根を残さなければいいと、むしろそちらのほうを心配する。

 昼食はゆっくりと2時間くらいかけて提供してくれた。やはり美味しい。
 食べ終わったあと東慶寺と円覚寺を参拝した。
 今の時期、花の寺である東慶寺の庭は寂しい、水仙の花と梅が数輪咲いている程度で、蝋梅はもう終わっていた。本堂は解放されていてご本尊をお参りすることができた。
 梅の花は、円覚寺のほうが良く咲いていた。円覚寺は、北条時宗が元寇での戦没者追悼のために創建し、自ら招いた無学祖元を開山とした。今日4日はその開基北条時宗の月命日だという。佛日庵の門柱にひっそりと案内がしてあった。
 時宗は10代で執権となり、2度の蒙古襲来を撃退し、30歳そこそこで亡くなる。無学祖元は元寇を予知し、時宗に「莫煩悩」と諭した。円覚寺はその子弟所縁の寺である。

根岸森林公園と根岸競馬記念公苑2022年02月09日 18:06



 横浜にある根岸森林公園へ行くには、JR京浜東北根岸線の根岸駅か山手駅から歩く。地図でみると僅かながら山手駅の方が近そうなので、山手駅を利用することに決めた。

 途中、けっこう道が入り組んでいる。簡単な地図を用意したが迷子になった。所要時間10分のはずが、倍の20分経っても着かない。どんどん道は細くなる。
 地図を見ながら目的地をめざすのは諦め、スマホのgoogleナビに頼ることにした。位置情報をonにしてナビに任せた。狭い階段道や急坂を案内されたが、5,6分で連れて行ってくれた。振り返ると、とても自分の力では見つけられない道、さすがgoogle先生である。

 根岸森林公園は、根岸競馬場の跡地に整備された公園。
 根岸競馬場は幕末に開設された日本初の洋式競馬場で、居留地住民のためのものだった。その後は日本政府の欧化政策の舞台としても利用された。天皇賞や皐月賞など大レース発祥の地でもある。
 大東亜戦争が開戦すると軍港が一望できるということで海軍省が接収、閉場となった。
 敗戦後は競馬場の復活を試みたものの、様々な障害のため再開を断念。結局、横浜市が根岸森林公園として整備し、併せて日本中央競馬会によって根岸競馬記念公苑が設けられた。

 根岸競馬記念公苑のなかには馬の博物館がある。入館料100円なので見学することに。根岸競馬場の歴史を写真と解説文で克明に辿ることができる。テーマ展もあって、今は「武者絵の世界 ――人も馬も大あばれ――」などが開催中である。
 「武者絵の世界」は、源平合戦や戦国時代、遠く中国の『三国志演義』や『水滸伝』から、馬が大活躍する場面を切り取った歌川国芳や国安の浮世絵版画が展示されている。

 隣接する根岸森林公園は広大で芝生が敷き詰められ、散策するには気持ち良さそうだが、十分な時間が必要だ。午後から出かけてきて、馬の博物館で時間を費やしたら余裕がなくなった。桜の季節などに改めて訪れたい。

 帰りは最初からgoogleナビ頼り。来る時とは全く違う道を案内された。やはり裏道で下り坂ではあったが、きっちり10分で山手駅に着いた。さすが先生である。

2022/2/12 金山隆夫×みなとみらい21交響楽団 マーラー交響曲第7番2022年02月12日 20:57



みなとみらい21交響楽団 第22回定期演奏会

日時:2022年2月12日(土) 14:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:金山 隆夫
共演:テナーホルン/外囿 祥一郎
演目:レスピーギ/交響詩「ローマの噴水」
   マーラー/交響曲第7番ホ短調「夜の歌」


 マーラーの交響曲のなかで一番演奏機会が少ないのは「7番」だろう。
 たしか、小澤征爾が村上春樹との対談で、マーラーの「7番」と「3番」はヘンテコな交響曲だと話していて、二人で盛り上がっていたはず(『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮社、2011年)。
 むかしの楽曲解説やレコード評でも「7番」と「3番」は、ほとんど取り上げられることがなかった。だからというわけでもないが、マーラーの音盤を購入した順序も、最初が「1番」と「2番」で両方ともワルター。次いでバースタインの「4番」、クーベリックの「5番」と「8番」。そのあとワルターの「大地の歌」、バルビローリの「9番」、セルの「6番」。最後にホーレンシュタインの「3番」とクレンペラーの「7番」という具合だった。
 このクレンペラーの「7番」が全曲100分を要する極めて変態的な演奏で、度肝を抜かれ、よほど吃驚したのだろう、一度実演を聴きたいと心待ちにしていた。もっとも当時は、地方に居たこともあって、なかなか生演奏に接する機会はなかった。

 それから数十年、変わるわな、時代も。最近はときどきライブで聴くことができる。アマチュア・オーケストラでさえ演奏するようになった。今回はそのアマオケ。ユーフォニアムの名手、外囿祥一郎さんが客演するというので早々とチケットを取っておいた。
 みなとみらい21交響楽団の設立は、HPによれば10年ほど前。歴史は浅いが初回の演奏会からマーラーの「交響曲第9番」という超難曲に挑戦、その後も比較的マーラーの曲を多く取り上げているようだ。
 トラの応援はあるものの、ほぼ16型3管編成。木管も弦も男性が多い、むしろ金管の数人の女性が目立つくらい男性上位。働き盛りの年齢の人たちが主体だから、職をこなしながら精進しているわけだ。感心する。演奏水準も高い。もちろんパートによって優劣はあるが、ひと昔とは言えないまでも、ふた昔前の地方のプロオケくらいの力はある。

 前段にはレスピーギの「ローマの噴水」。
 交響詩「ローマ三部作」の第1作目。15分ほどの演奏時間のなかに、夜明け、朝、真昼、黄昏におけるジュリア谷、トリトン、トレヴィ、メディチ荘の4つの噴水が描かれた音楽。贅沢にもサントリーホールのオルガンも鳴らす。色彩感いっぱい。ほとんどフルメンバーが出場して、オケの暖機運転には丁度よかったかも。

 休憩後、マーラーの「交響曲第7番」。
 「7番」は、3楽章のスケルツォを挟んで前後に夜曲(2楽章と4楽章)をおき、それぞれの夜曲の外側に最初の楽章と最後の楽章を配置するというシンメトリーな構成となっている。
 1楽章はテノールホルンの指定があり、中音域の特色ある音が朗々と会場に響き渡る。外囿さんの見せ場である。もっともテノールホルンの出番は1楽章だけ、2楽章以降はお休みである。1楽章はいつものマーラーの葬送行進曲で、ちょっと暗く重い。様々に展開され、後半、トランペットによる弱音のファンファーレとハープのグリッサンドのあとに広がる世界は、神秘的で感動的だった。
 2楽章は夜曲とはいうものの、ホルンの掛け合いによる序奏からはじまる。ここでのホルンが立派。トップは若手、相手の3番は年配者だけど息は合っている。この先の4楽章もそうだが、ふたつの夜曲ではホルンの難しいソロが頻発する。トップはほんとに上手い。マーラーの音楽が崩れない。遠目から見ると、いや遠目だからか、吹く姿も待機している仕草も読響の日橋さんに似ている。序奏についで行進曲となる。序奏のテーマはこの後何度も現れる。チェロやオーボエの沈み込むような旋律も寂寥感を漂わせていた。
 3楽章は不気味なワルツ。シニカルでグロテスクで奇怪な音楽。各楽器とも特殊奏法が用いられ、打楽器が効果的に打ち込まれる。全曲の中心にあって、演奏時間は最も短い。
 4楽章がふたつめの夜曲、シンフォニーでは珍しいギターとマンドリンが参加する。まさにセレナーデ。ささやくように愛を歌う。この甘美で平和な世界は永遠なのか一時なのか、本物なのか偽物なのか、あまりにも平穏だから、疑いの気持ちが生じるのは当たり前だろう。
 最終の5楽章、ティンパニが主導する。そして問題はこのフィナーレ。突然のドンチャン騒ぎ、喧騒と狂乱。能天気な明るさに満ち、いっそ軽薄と言いたいほど。暗から明、闘争から勝利といった交響曲のドラマを完結させるフィナーレではない。1楽章の主題が回帰してくるけど、起承転結などは無視しても構わない、といった風。コーダなど御丁寧にもカウベル、鐘、銅鑼などの打楽器を総動員し、ハチャメチャのまま終わる。パロディというか、交響曲を書いていながら“交響曲とは何ぞや”と、交響曲そのものに言及しているよう。

 マーラーの「7番」は、ベートーヴェンやブルックナーのように一貫した世界観で捉えるものではないようだ。各楽章それぞれが独立したコラージュ的な作品といったらよいか。それでも全体は先に触れたように対称的な構成で、対位法も駆使してがっちりとつくられ、手が込んでいるけど。
 ショスタコーヴィチはマーラーから大きな影響を受けているが、多分、彼が最も好んだのは「7番」だろうと想像してみる。多義性、皮肉、暗喩、自己韜晦などの入れ物として、「7番」は如何様にも参考にできそうに思える。やはり、マーラーは“新しい交響曲の創始者”であり、“交響曲破壊の先達”であった。