2022/2/19 藤岡幸夫×シティフィル ヴォーン・ウィリアムズ「田園交響曲」2022年02月19日 21:39



東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第349回定期演奏会

日時:2022年2月19日(土) 14:00 開演
会場:東京オペラシティ コンサートホール
指揮:藤岡 幸夫
共演:チェロ/宮田 大
   ソプラノ/小林 沙羅
演目:ディーリアス(フェンビー編)/2つの水彩画
   吉松隆/チェロ協奏曲 作品91
       「ケンタウルス・ユニット」
   R.V.ウィリアムズ/交響曲第3番「田園交響曲」


 先月に引き続いて、今月も藤岡幸夫×シティフィルを聴く。会場は変わって初台。
 藤岡さんは、渡邉暁雄の最後の弟子だから、シベリウスに愛着があるのは当然だが、英国でキャリアを積んだ人だから、イギリス音楽の紹介をライフワークとしている。併せて邦人作品の普及にも力を注いでいる。とりわけ吉松隆の管弦楽作品は、BBCフィルを相手に何枚もCD化しており、吉松作品の伝道師として自任する。今日のプログラムは、その英国音楽と吉松作品。

 最初はディーリアスの「2つの水彩画」、弟子のフェンビーがディーリアスの初期の二つの無伴奏合唱曲(夏の夜、水の上にて歌える)を弦楽合奏用に編曲したもの。ディーリアスの歿後この編曲譜が刊行される際に題名がつけられたという。演奏時間5分ほどの小品。
 レコードの時代、バルビローリ×ハレの管弦楽曲集を持っていて、心が疲れた時によく聴いていた。「春を告げるカッコウ」とか「去り行くつばめ」とか。いずれも静謐で郷愁を感じさせる数分の音楽が折れそうな心を修復してくれた。そのレコードに「2つの水彩画」は収録されていなかったと思う。
 シティフィルの暖かくゆったりした弦の音が会場に広がる。「夏の夜」は揺蕩うような、「水の上にて歌える」は弾むような、などと言葉が浮かんで沈むうちに曲は終わる。たしかに、これは油絵ではない、水彩画だ、それも一筆書きの。

 次が吉松隆の「チェロ協奏曲」。BBCフィルのチェロ首席奏者ピーター・ディクソンの独奏を想定して書かれた作品。作曲者自身の作品解説によれば、<「ケンタウルス・ユニット」というタイトルは、チェリストを半人半馬のケンタウルスに見立てた命名。なにしろチェロ奏者は、上半身が人間(演奏家)で、下半身は褐色の胴体(楽器)。しかも弓矢(弓とエンド・ピン)まで持っている。そこで、ケンタウルス(人馬神)のユニット(単位)。ギター協奏曲「ペガサス・エフェクト(天馬効果)」とファゴット協奏曲「ユニコーン・サーキット(一角獣回路)」と並ぶ神話の動物シリーズ三部作の一曲であり、東洋と西洋の臨界を越えて天空を駆ける新しい世紀の夢の形でもある。>とある。
 本日のチェロ独奏は宮田大。もう10年ほど前になるが、ここ初台で弾いたエルガーの「チェロ協奏曲」が忘れられない。地を這うような野太いチェロの音と、身体中から迸る気迫がいまもって記憶に残っている。指揮は尾高忠明、オケは同じシティフィルだった。 
 尾高さんもBBCウエールズ交響楽団の首席指揮者を務めていたことがある。英国音楽にも造詣が深い。藤岡さんにとっては師匠に近い存在だろう。
 そういえば、1年ほど前『音楽の友』の企画で、尾高さん、藤岡さん、広上さんの3人の座談会があった。誌面に掲載されたが、Webでも動画が公開されている。コロナ禍におけるオーケストラ現場の困難さと、3人ともイギリスでの活動が共通しているので、英国時代のこぼれ話を聞くことができる。

 https://ontomo-mag.com/article/column/3conductors-meeting2020/?s=03

 それはさておき、「ケンタウルス・ユニット」。
 第1楽章アレグロは、1度聴いたら忘れられないような特徴ある荒々しいテーマがチェロで提示され、途中オケのトーン・クラスター風の響きのなかからチェロの音が立ち上がって来る。第2楽章のアダージョは、琵琶を模した出だしのピッチカートが終わると、第1楽章のテーマの変形と、極めて息の長い抒情的な節回しに移って行く。指揮の藤岡さんが言っていたが、録音のとき吉松さんはディクソンに向かって「like BIWA!(琵琶みたいに弾いてくれ!)」って要求していたらしい。ディクソンは琵琶なる楽器を知らないから、半分ノイローゼになっていたとか。第3楽章アレグロ・モルト、冒頭は第1楽章の主題が回帰して、そのあとは鳥の声が囀るなか、推進力ある音楽が駆け抜ける。和声や主題の扱い方など音楽語法は西洋のものかもしれないが、全体の雰囲気は和の情緒を纏う。作者が言う東西を超越したような作品。
 宮田さんは譜面を置いていたものの、音楽を完全に自分のものにして、多様な表現力を披瀝してくれた。今回は地を這うような低音の魅力以上に高音のキレ味に圧倒された。宮田さんの「ケンタウルス・ユニット」は、このあと9月にも原田慶太楼×東響との共演が予定されている。楽しみにしたい。会場には作者の吉松隆さんが、1階の中程の席で聴いていた。終演後、その場で盛大な拍手を浴びていた。

 メインプログラムは、今年生誕150年にあたるヴォーン・ウィリアムズの「田園交響曲」。
 彼が3番目に書いた交響曲で、ベートーヴェンの向こうを張ったように「田園交響曲」と名づけられている。自己顕示なのだろうか。いや、ヴォーン・ウィリアムズの名はそれなりに浸透しているものの、世界中で作品が愛好されているとは言えないし、作品はどう聴いても地味で押しつけがましさがない。自己を顕示するには最も遠くにいる人だ。9曲の交響曲は幾つかに標題が付いている。「海の交響曲(1番)」、「ロンドン交響曲(2番)」、「田園交響曲(3番)」、「南極交響曲(7番)」といった調子。理由はよくわからないけど交響曲に番号を付けるのを避けていたようにも思える。
 「田園交響曲」のもともとの着想は、第1次世界大戦の戦場で耳にした調子外れの軍隊ラッパの記憶によるという。その音を外したラッパは第2楽章のトランペットのソロに現れる。第3楽章の舞曲風のスケルツォの一部では、テンポが早くなるが、他はほぼすべての楽章が中庸かつ穏やかだ。第1楽章はまるでフランス印象派の音楽、ラヴェルに師事していたとなると成程と納得。第4楽章の最初と最後は、ソプラノのヴォカリーズを伴い、ちょっと感情的な振幅が大きくなる。
 今回の演奏は、藤岡さんのこの曲に対する思い入れの深さが、シティフィルの楽員に伝播したといえるほど見事なものだった。弦の音を背景にして管がアクセントを付けて行くのが通常のオケ作品のあり方だけど、ヴォーン・ウィリアムズのこの曲は、背後で管が絶えず鳴っており、その管のキャンバスのうえを弦が絵を描いていくような作りとなっている。金管ではトランペットの松木さん、ホルンの谷さんの負担がかなり大きかったと思う。木管ではフルートの竹山さん。これらの女性陣の奮闘は特筆大書すべきだろう。
 4楽章のソプラノは、半田美和子さんの予定であったが、昨日のリハーサル後、急な体調不良で降板、小林沙羅さんに交代した。昨日の今日である。合わせたのはゲネプロ1回だけだろうか、さすがである。プロとはいえ代役を完璧にこなした。
 「田園交響曲」は、タイトルから想像されるような、のどかな自然の風景を描写したものでも、晴れやかな田舎の気分を現したものでもない。淡々とした運びでありながら、彼岸とも此岸とも区別のつかないほどの音楽になって行く。第2楽章のラッパは戦場の悲惨さや残酷さを感じさせるものではなく、どこか懐かしい響きを伴う。第3楽章の舞曲は打楽器が多用されるわりに賑やかしいというより葬送の音楽に似つかわしい。じわりじわりと感動が押し寄せ、最後は宗教音楽を聴き終えたときのように敬虔な気持ちに包まれた。
 ヴォーン・ウィリアムズは従軍した第1次世界大戦で多くの友人を亡くしている。この曲は大戦の犠牲者への鎮魂歌だといわれている。