2021/3/13 カーチュン・ウォン×東響+藤田真央2021年03月14日 08:56



東京交響楽団 名曲全集 第165回

日時:2021年03月13日(土) 14:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:カーチュン・ウォン
共演:ピアノ:藤田 真央
演目:ウェーバー:歌劇「オイリアンテ」序曲
   モーツァルト:ピアノ協奏曲 第24番
   シベリウス:交響曲 第2番

 序曲からはじまりモーツァルトの協奏曲にベートーヴェンの交響曲となれば、昔から名曲全集の定番だが、ベートーヴェンでなくともシベリウスの「交響曲2番」なら堂々たる名曲といえるだろう。そのくらい「シベ2」はポピュラーで人気もある。

 シベリウスの実演は、この「2番」と、せいぜい「1番」「5番」くらいしか知らなかったが、ここ数年、「6番」や「7番」など後期の交響曲を聴いて、シベリウスを面白く感じるようになってきている。
 後期ロマン派の交響曲といえばマーラーであり、管弦楽曲ならR・シュトラウスが中心だし、少し前にはブルックナーやワーグナーがいるから、このあたりを聴きだすと、シベリウスはどうしても縁遠くなる。
 ヘルシンキを訪れたマーラーをシベリウスは訪問している。シベリウスは“交響曲においては、全ての動機を内的に関連させるスタイルの厳格さ、深遠な論理が重要である”と語ったそうだが、“交響曲は世界のようでなければならない。それは全てを包含しなければならないのだ”と、マーラーはほとんど正反対の考えを披歴したという。
 シベリウスの交響曲は、後期に至るほど内省的かつ禁欲的で論理そのもののような、それでいて、人の情感に訴える音楽家になったけど、「2番」はそこまで貫徹しているわけではない。ワーグナーやブルックナーの影響もあるのだろう、フィナーレなど壮大で聴きごたえする。シベリウスは、交響曲においては交響詩のように標題的に意味づけられることを嫌ったが、北欧の荒涼たる風景がどうしても目に浮かぶ。政治的な意図はないとも表明するが、ロシア圧政下のフィンランド人の愛国心を感じる人もいる。実はこの曲、イタリアで着手され、イタリアで大部分が構想されている。このエピソードはドヴォルジャークがアメリカで、望郷の音楽「新世界より」を書いたことにちょっと似ている。

 モーツァルトのピアノ協奏曲「24番」は、先週聴いた「23番」と同時期に書かれたハ短調の協奏曲。短調のピアノコンチェルトは、これとニ短調の「20番」のみ。ニ短調にも増して激情に溢れ、社交音楽であるべき予約演奏会用の曲としては相応しいとは思えない。“音楽はどんなに恐るべき箇所でも、耳に心地よいものでなくてはなりません”と語った彼は、聴衆を置き去りにしてどこへ行ってしまったのだろう。「フィガロの結婚」の完成間近にして、深淵の音を聴くことができた30歳は、人間の感情のすべてを音楽によって表し終えて、迂闊にも底知れない響の一端をピアノ協奏曲で披露してしまった、ということだろうか。

 この演奏会、指揮はジョナサン・ブロクスハムの予定が、カーチュン・ウォンに変更。ソリスト藤田 真央はそのまま。
 藤田 真央は一度聴いてみたかったピアニスト。写真をみると少女のようにも見えて、暗いロマンをはらむ「24番」はミスマッチではないか、と思ったが、見かけと造り出す音楽とは別だろう。先入見なしに聴いてみようかと。カーチュン・ウォンは二度目。

 先ずは序曲。
 ウェーバーはオペラや劇付随音楽を20曲ほど書いている。今では「魔弾の射手」以外は全曲演奏されることもないが、序曲だけで音盤が何枚にもなる。「オイリアンテ」は「魔弾の射手」や「オベロン」と並んでよく演奏会でも取り上げられる。吹奏楽用に編曲された演奏もなかなか楽しい。前段の助走、肩慣らしとしてはちょうどいい。

 次いで、ピアノ協奏曲の「24番」。
 藤田 真央は音量はそれほどでもないが、一つひとつの音が清潔で良く通る。軽やかに転がっていく。だから、悲劇的で激情が迸るような「24番」がなぜか儚い。特に二楽章のラルゲットなど淡く儚い。「24番」の別の面を垣間見たような気がして、これはこれで魅力的ではあった。
 アンコールは初心者のためのピアノソナタハ長調一楽章、二楽章が聴きたかったけど、音質的にもこの曲はぴったし。 

 休憩後、後半はシベリウス「2番」。
 指揮者カーチュン・ウォンは以前聴いているが、プログラムが思い出せない。いよいよ呆けたか。もちろん古い話ではない、2、3年前、東響と組んでいる。検索してみると、2018年、共演が郷古廉でブラームスのコンチェルトとショスタコーヴィチの「5番」だった。ヴァイオリン協奏曲の記憶はなんとか蘇ってきたが、交響曲のほうは全く辿ることができない。
 ネットでは先だっての日フィルとの演奏が絶賛されている。今度は注意深く聴いたわけだ。しかし、やはり駄目だ。クライマックスや弱音のところで極端にテンポを落とすが、わざとらしいと此方の気持ちが反応してしまう。休止の前後がうまく繋がって行かない、流れに乗れない。
 ようは、コバケンや上岡敏之やテミルカーノフと同じように相性が合わないということ。終演後、拍手喝采だったから、感銘を受けた人も多かったのだろう、まぁ、人それぞれだ。これから先、カーチュン・ウォンを積極的に聴くことはないと思う。

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