追記:バッハ「マタイ受難曲」 ― 2025年10月02日 15:02
2025年9月28日の東響川崎定期演奏会から数日を経過した。少し落ち着いたのでノット指揮のバッハ「マタイ受難曲」について追記しておきたい。
2群に分けた混声合唱100人ほどが舞台の後方に並んだ。ソプラノ・リピエーノとしての児童合唱は20人ほど、P席上段のパイプオルガンの横に位置した。ソリストたちが舞台最前列に待機する。管弦楽はこれも2群が左右に分かれて座っている。中央には2台のオルガン(大木麻理、栗田麻子)が置かれ、さらにはホールオルガン(安井歩)のリモートコンソールが舞台の下手に用意されていた。指揮台の前はチェロ(伊藤文嗣)、隣は第二部で登場するヴィオラ・ダ・ガンバ(福澤宏)の席となっていた。
明らかにバッハの時代にほど遠い大編成である。当時の演奏の原型を探求し、合唱と独唱の別なく“一つのパートを一人が歌う”スタイルを採用したクイケン&ラ・プティット・バンドは言うまでもなく、聖トーマス教会合唱団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管や鈴木雅明とBCJなどの演奏スタイルとも比べるまでない。同じモダン・オーケストラでもLGOのコンマスだったボッセが振った新日フィルの編成は凝縮され、演奏は禁欲的で端正だった。ノット×東響が目指すところとは異なっている。
ノットは現代の機能的な管弦楽を目一杯使い、優秀な声楽陣を最大限活用し、現時点で考えられるリソースを躊躇なく投入してバロック音楽を奏でた。それもバロック音楽の最高峰であるバッハの「マタイ受難曲」を演奏してみせた。これは虚仮威しやエンターテインメントを狙ったものではさらさらない。懐古するバッハではなく、今の時代の“人と楽器”によってバッハがどう聴こえるのか、「マタイ受難曲」が何を訴えてくるか、それを問うたものだった。
冒頭の「来たれ、娘たちよ」のホールオルガンの重低音に身震いした。ソプラノ・リピエーノの声が天上から降り注いでくるようだった。東響コーラスはいつものように暗譜。ノットは指揮棒を持たずゆったりとした身振りで悠然と歩みだす。弦はノンヴィブラートでありながらまろやか、レガートが多用され休符の前の音は引き伸ばされる。滑らかな音がホールを満たしていく。
レチタティーヴォとコラールが続く。エヴァンゲリストのヴェルナー・ギューラは力みのない歌唱だが、高音域がちょっと苦しい。もう少し力強さがあっても良かった。イエス役のミヒャエル・ナジは英雄的で崇高な歌唱が好ましい。特筆すべきはイエスの光背を表す弦楽合奏の美しさ、東響の弦の響きに何度も震撼した。コラールの迫真力は東響コーラスの力量と三澤洋史の指導があってのことだろう。
最初のアリアは、アンナ・ルチア・リヒターが歌う「悔いの悲しみは」。香油を注いだベタニアの女にまつわる自由詩である。リヒターはソプラノからメゾに転換したという。豊かな情感のある声で心を揺さぶる。伴奏をつけた竹山愛と濱崎麻里子のフルート二重奏がとても美しい。以前、竹山は相方の濱崎麻里子について「特別な存在です。ほぼ同い年で、中学生の頃からコンクールで顔を合わせ、東京藝術大学で共に学び、神戸国際フルートコンクールでも一緒に入賞しました。ここで再び巡り合って音楽を共に創れることを幸せに感じています」とインタビューに応えていた。
ユダの裏切りではカタリナ・コンラディの歌う「血を流せ、わが心よ」。透明感のある清楚な声とともに強靭さを持ち合わせている。この10月にウィーン国立歌劇場の来日公演で「フィガロの結婚」「ばらの騎士」に出演する。続く最後の晩餐における「われは汝に心を捧げん」では、荒絵理子と最上峰行のオーボエがコンラディ寄り添う。最上は公演後X(Twitter)に「新しい世界を見せてもらいました。同期入団の荒さんとはこれまで何度も本番後に握手してきたけど、昨日今日の握手の重みはずっと忘れないと思います。十数年一緒に吹かせてもらった証の重み。ありがとう」と投稿した。ノットはカーテンコールのとき、真っ先にフルートの2人を称え、次いでオーボエの両者を賞賛した。たしかにフルートもオーボエも最強のコンビである。
リヒターとコンラディは「かくてわがイエスはいまや捕らわれたり」の二重唱を歌い、第一部が終わった。
20分間の休憩中、美しく濃密な音楽のなかで展開する人間たちの愚かさに、激しい衝撃を受けていた。
第二部が始まり劇的なアリアが連続する。ペテロが否認したあとの「憐れみください、我が神よ」から、ユダの自死における「我に返せ、わがイエスを」、ピラトの判決に対する「愛によりわが救い主は死に給わんとす」、ピラトがバラバを釈放しイエスを鞭打つ直後の「わが頬の涙」である。
これらの場面でのリヒターとコンラディの歌唱、ノットの設計する歌と伴奏のバランス、さりげない抑揚をつけた管弦楽のコントロール、それに応える東響の演奏は、古典派はおろかロマン派を越えて、まるで後期ロマン派の音楽のようにさえ聴こえた。独墺音楽の源流といっていいバッハの音楽に、遥か後世の独墺音楽の崩壊までの道程が重なって見えるような気がした。
二期会の3人の歌手も安心して聴くことが出来た。櫻田亮はエヴァンゲリストを務めることもしばしばで安定した明晰な声が好ましい。加藤宏隆は深々とした歌唱と多様な表現力で楽しませてくれた。萩原潤は艶のある温かい歌声が心に沁みた。とりわけイエスが息絶え合唱が「げにこの人は,神の子なりき」との詠嘆のあと、降架と埋葬における「わが心よ、おのれを浄めよ」でイエスの死による救済を穏やかに安らかに歌った。この歌唱が終結の合唱「われらは涙流してひざまずき」への残照となり、平安と魂の休息をいやがうえにも高めることとなった。感動的な終幕であった。
管弦楽で特記しておかなければならないのは、チェロの伊藤文嗣とオルガンの大木麻理、2人のコンマスである小林壱成と景山昌太郎である。伊藤と大木は全編にわたって通奏低音を揺るぎなく維持し、歌手陣の歌唱をしっかりと支えた。管弦楽1群の小林壱成は「憐れみください、我が神よ」ですすり泣くような哀願するようなヴァイオリンを響かせ涙を誘った。管弦楽2群の景山昌太郎は「我に返せ、わがイエスを」でヴァイオリンの華麗なる走句を披露した。そして「わが頬の涙」では弦楽合奏を見事にリードした。ノットは終演後この4人に賛辞をおくり、スタンディングオベーションなか2人のコンマスを引き連れての一般参賀となった。
それにしても「マタイ受難曲」の演奏は、今やピリオド・スタイルが多くを占め、モダン・オーケストラでの公演は稀である。ノットはそのことにあえて挑戦した。バッハの音楽は演奏スタイルなどを超越しているのだと。ピリオド、モダン、折衷など様式は関係ない。時空を越えたバッハの音楽は「バッハ」であるということだけが大切なのだと。
人はどの時代どの場所にあっても罪を犯す。裏切りや責任逃れ、事なかれ主義や付和雷同、他者を犠牲にし残酷なことさえ厭わない。イエスの受難の物語は遠い昔の遠い場所での出来事ではない。この時代この場所で日々起こっていることだと「バッハ」は教えてくれる。そうノットは言いたかったのではないか。
ノットのラストシーズンも大詰めである。ノット×東響の稀有のコンビを聴くことができるのは、マーラー「交響曲第9番」とベートーヴェン「交響曲第9番」を残すのみとなった。