2021/10/16 ノット×東響 ベルクとブルックナー ― 2021年10月17日 11:09
東京交響楽団 第694回 定期演奏会
日時:2021年10月16日(土) 18:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ヴァイオリン/神尾 真由子
演目:ベルク/ヴァイオリン協奏曲
「ある天使の思い出に」
ブルックナー/交響曲第4番 変ホ長調
「ロマンティック」
ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」とブルックナーの交響曲を組み合わせたプログラムといえば、2年前の大野×都響を思い出す。ちょうどこの季節、秋のこと。
ベルクの独奏者はヴェロニカ・エーベルレ。繊細で優美な音が印象的だった。これは余計なことだが、彼女は出産を控えていてお腹が目立っていた。エーベルレはその前、同じ年の春にもウルバンスキ×東響とモーツァルトを弾いて…おっとっと、話が横道に逸れそうになっている。
大野×都響は、ブルックナーの「9番」をベルクに合わせてきた。この「9番」はかなり特異な演奏で、枯れた恬淡とした音楽ではなかった。諦念もカタルシスもなく、人生の最期において苦悩し燃え尽きるようなブルックナーだった、といえばいいか。
大野自らがYouTubeで曲目解説をしていた。演奏会が終わってから観たのだけど、これがとてつもなく面白かった。ブルックナーの不協和音の扱いが話の中心で、まさにそのときの演奏は、文字通り焦燥感を隠すことなくそのまま投げ出し、ドイツ・オーストリア音楽の終焉に向かって踏み出した曲として表現したのだ、と思った。整理されたヴァント×NDR、ブロムシュテット×N響などとは対極にある方法で押し切って、不思議にもその激しさに感動した。
そういえば、5・6年前、ノットはブルックナーの「7番」を演奏する直前に、過去のドイツ・オーストリア音楽を懐古したようなR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」―――ドイツの敗戦を目前にして作曲され、コーダでエロイカの葬送行進曲が追想される―――を置き、「メタモルフォーゼン」の側から見た素晴らしいブルックナーを構築したことがあった。このときも確かにブルックナーの交響曲によって、ドイツ・オーストリア音楽は頂点を極め、その後のドイツ・オーストリア音楽は、紆余曲折を経ながらも崩壊への道筋を辿って行ったのだ、との妄想にふけったものだ。
前半はベルクの「ヴァイオリン協奏曲」。
献辞の「天使」とは、マーラーの未亡人アルマが再婚した建築家グロピウスの間に生まれた娘マノンのこと。19歳で逝ってしまう。ベルクは、可愛がっていたマノンへのレクイエムとしてヴァイオリン協奏曲を書く。そして、曲が完成したあと、ほどなくベルク自身も亡くなってしまうから、彼自身のレクイエムにもなってしまった。
秘めやかにスタートする。12音技法の音列のなかに調性的なニュアンスも感じられる。神尾さんの音も優しく穏やかに始まる。第1楽章が終わるころ、トランペットで奏でられるオーストリア・ケルンテン地方の民謡が印象的。第2楽章は神尾さんらしく激しい情熱をぶつける。超絶的な技巧が繰り返される。コーダ近くバッハのカンタータの一節が引用され、ケルンテン地方の民謡も再現される。ちょうどバラバラになったジグソーパズルの中から、“抒情”というピースを見つけ出してくるような音楽となっている。もちろん、ノット×東響のサポートは申し分ない。
後半はブルックナーの「4番」。
ノットのブルックナーは瑞々しい。うねり躍動するブルックナー。ノットが繰り出す音量の増減・緩急・強弱に、こちらの身体が素直に反応して心地よい。各楽器のバランス配分に考え抜かれたところがあるのだろう、新鮮な音響に吃驚する。だからといって、ブルックナーらしさを失ってはいない。大自然が目に浮かぶ、儚さが漂う、法悦、宇宙が拡がる、彼岸を垣間見る、ブルックナーを聴く愉悦が一杯つまっている。
全曲が終わってのホールの静寂も異常なくらいだったが、各楽章間のざわめきも遠慮がちで、会場の全員が息を呑んでいるようだった。隣席の緊張と弛緩が椅子を通して感じられるほどでもあった。
「4番」は、ブルックナーの交響曲のなかでは最もポピュラーで演奏頻度も高い。今年もすでに川瀬×神奈川フィル、飯守×読響で聴いている。馴染み深い曲であるぶん、なかなか納得できる演奏に出会えないし、退屈する場合もままあるが、今回は雑念が浮かぶ余地もなく引き込まれた。これは稀有の名演だった。
朝比奈やヴァント、飯守などは、ブルックナーをベートヴェンやシューベルト、ワーグナーの継承者として、歴史を忠実になぞりながら演奏するのに対し、スクロヴァチェフスキや大野、ノットなどは、ブルックナー以降の楽譜を読み解くなかから、歴史を遡るようにブルックナーの音楽を見つけ出そうとしているのではないか、と想像してみる。
ノットは、マーラーとブルックナーをともに得意とするが、マーラーは演奏様式の自由度が高く、何でもありで様々な音創りを許容できる。ブルックナーは下手な作為をすれば音楽が壊れてしまう。ノットは、計算されたエキセントリックだとしても、過激に走りやすい。ということは、すべてが許されているマーラーよりは、演奏における制約の強いブルックナーほうが、不自由のなかでマグマが沸騰しているみたいで断然面白い。感銘度が深い。なんとも面妖なことだ。
余談だが、今回のブルックナー「4番」、当初「1888年稿コーストヴェット版」での演奏が予定されていた。ところが、何らかの都合で通常の「1878/80年稿ノーヴァク版」に変更になった。版の問題は素人ではよく分からない。音盤でもクナッパーツブッシュなどは悪名高き大幅なカットが施された改訂版でしか録音していないが、紛れもなく最高のブルックナーなのだから、版に拘る必要はない。どの版であろうともブルックナーの音楽を聴かせてくれればそれでいいわけだ。
ただ、「1888年稿コーストヴェット版」は、たしかクナが用いていた「レーヴェ改訂版」を、21世紀に入ってからコーストヴェットが新たに校訂したものではなかったか。ならば、是非この版でノットを聴いてみたい。今後のプログラムに載ることを期待しよう。
東フィルの来期プログラム ― 2021年10月22日 11:49
東京フィルハーモニー交響楽団の来期プログラムが発表された。東フィルは、4月~3月の年度ではなく、1月~12月の年プログラム。
https://www.tpo.or.jp/concert/2022season01.php
オーチャードホール、オペラシティコンサートホール、サントリーホールの3会場で同一プログラムを公演する。8プログラムを3会場で開催するから年24公演となる。
1月、名誉音楽監督チョン・ミョンフンのマーラー「交響曲3番」から始まり、5月にはフランス曲集をはさみ、10月、ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」で終える。
特別客演指揮者プレトニョフは、3月にスメタナ「我が祖国」、6月にロシア物を、首席指揮者のバッティストーニは9月にマーラー「交響曲5番」を振る。バッティストーニは9月のみ。
あと、井上道義がショスタコーヴィチ「交響曲1番」を演奏し、出口太一が「交響曲2番<鐘>」などハチャトゥリアンの曲を集める。出口はハチャトゥリアン国際コンクールの覇者らしい。
2021/10/23 ラザレフ×日フィル ショスタコーヴィチ交響曲第10番 ― 2021年10月23日 22:03
日本フィルハーモニー交響楽団 第734回 東京定期演奏会
日時:2021年10月23日(土) 14:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:アレクサンドル・ラザレフ
共演:ピアノ/福間 洸太朗
演目:リムスキー=コルサコフ/「金鶏」組曲
リムスキー=コルサコフ/ピアノ協奏曲
嬰ハ短調 op.30
ショスタコーヴィチ/交響曲第10番 ホ短調 op.93
ラザレフ×日フィルは3年ぶり、このコンビでショスタコの「4番」「8番」「9番」「11番」「12番」と聴いた。まだ、かなり歯抜けがある。今回は「10番」。
ウーハンコロナ対応ということか、演奏者たちの舞台への出入りが変則であった。
最初に指揮者ラザレフが1人で舞台に登場する。次いで、オケのメンバーが入場し、最後にコンマスが席につく。協奏曲のソリストは、通常のようにオケが揃ったあと出てくる。演奏終了後は、指揮台にラザレフが残り、オケのメンバーが退場してから、指揮者が舞台を降りる。
指揮者ラザレフとオケのメンバーの距離を開けようと意図したのか。これって有効な方法と言える? あまり意味がないような…よく分からない。
ショスタコの前にリムスキー=コルサコフの2曲。初めて聴く。
リムスキー=コルサコフといえば圧倒的に「シェヘラザード」、あとは「スペイン奇想曲」、ほかにはムソルグスキーの「禿山の一夜」の編曲したものくらいしか知らない。
「金鶏」は、リムスキー=コルサコフが書いた最後のオペラで、これをもとに演奏会用組曲を構想していたらしい。ところが本人が急逝したため、シテインベルクとグラズノフが共同して組曲にまとめたものだという。
演奏時間15分ほどの「ピアノ協奏曲」も珍しい。
「金鶏」は、リムスキー=コルサコフらしい華やかな曲。オペラ「金鶏」は、風刺が効いた帝政ロシアに対する体制批判がこめられた作品と言われている。組曲を聴くと、他愛もないおとぎ話の付帯音楽のようで、異国情緒やブンチャカ調が混じっている。先だってのレスピーギの「シバの女王ベルキス」に通じるようなところがある。
「ピアノ協奏曲」も華々しい。リストを彷彿とさせる。中間部からはラフマニノフが聴こえてくるようだ。福間さんはしっかりとした技巧、粒立ちのはっきりした音、キレのいい演奏で聴きごたえがあった。
さて、華美で派手な曲のあとのショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。
これがとんでもない演奏だった。今までに聴いてきた「10番」は一体何だったのか、というほど。もう別世界、水準そのものが違う。過去の「10番」には美しさや軽やかさを感じさせる部分が必ずあったけど、ラザレフにそんな配慮は一切ない。綺麗ごとは失せている。「10番」はそんな生っちょろい音楽ではなかった。
これがソヴィエト社会主義共和国連邦の、共産主義社会の、現実を表わした音楽なのだろう。全編、不気味な空気が漂い、恐怖が押し寄せてくる。爆裂と実弾が飛び交う、密告と粛清の世界、スターリンが倒れたあとの解放感もない。音の重量と重圧で押しつぶされそうになる。気持ちがふさぎこむ。気分が悪くなり、頭の芯まで疲れ果てた。音楽を聴いて嫌悪する経験などそうそうあるものではない。
ショスタコーヴィチは、スターリンに生死を握られていた。軽妙で洒脱な「9番」が、大作を期待した当局から批判された後、10年近く交響曲の創作からは遠ざかっていた。スターリンが倒れると、一気にこの「10番」を書き上げたと言われている。
「10番」は古典的な4楽章を踏襲しながら、各楽章のボリュームはアンバランスで、明らかに歪んだ構成となっている。ショスタコの真骨頂であるタテマエとホンネという二重言語的手法についても徹底している。純粋な絶対音楽に見せかけつつ、あちこちに自分自身や恋人の名前の音型を埋め込む。暗号化したメッセージでもって挑んでくる。
第1楽章は、演奏時間が全曲の3分の1を占める。もともとショスタコはネクラで陰鬱だが、この楽章は特に暗い。不気味な低弦、クラリネットの独奏、フルートによるワルツに続き、管楽器や打楽器が音量を増し、やがて頂点に達する。その後、音量を徐々に落としながら、静寂の中でクラリネットが鳴き、ピッコロも力尽きて、ひやりとしたコーダが訪れる。
第2楽章は演奏時間5分程度、あっという間に終わる。木管楽器による急速なパッセージ、コントラバスの高音、狂気ともいえるオーケストレーションが興奮を呼ぶ。この威圧的な楽章は、“音楽によるスターリンの肖像画”だ、とショスタコは述べたとか、なるほど、長く書くことなどできるはずはない。
第3楽章、レントラー風。作家自身の音型[DSCH](レ・ミ♭・ド・シ)が全容を現す。突如新たなモチーフ[EAEDA](ミ・ラ・ミ・レ・ラ)がホルンで吹かれる。[EAEDA]とは、当時ショスタコが密かに心を寄せていたモスクワ音楽院時代の教え子エリミーラ・ナジーロワのことらしい。この音型は頻繁に現れるが、結局、最後は[DSCH]だけが取り残される。裏読みするといろいろ意味深ではある。
第4楽章は、低弦楽器により静かに開始される。不気味さと光明、恐怖と安堵が見え隠れするような、ゆっくりした曲想が続く。やがてクラリネットの場面転換のごとき合図でアレグロに突入し、奔放な曲調が展開する。突然、第2楽章のスターリンのテーマが回帰し、せめぎ合いのあと、作家自身の[DSCH]が全てを振り払う。やがてどんちゃん騒ぎが来て、あとは[DSCH]音型の嵐で全曲を締めくくる。なんとも不思議な空騒ぎである。
初演当時も賛否両論と同時に、この曲に込められた作曲者の意図について様々な物議を巻き起こしたらしい。それが現在まで続いている。そのせいもあって、この曲の人気は段々と高まっているように思える。ショスタコーヴィチとしては、「してやったり」といったところだろう。
しかし、この曲を真に演奏するには、ソ連時代を実際に生きてきた人にして、初めて成しえるものではないか。ラザレフは、にこやかにお客さんに手を振ったり自ら拍手をして、お茶目な素振りで愛嬌を振りまいているが、内には国家との関係において伺い知れない闇を抱えているはずだ。そうでなければ、これほどの表出などできるわけがない。
今後は、安易にショスタコーヴィチを聴こうと思わないほうがいい。特に、この「10番」は、それなりの覚悟を持って聴くことになりそうだ。
2021/10/24 ノット×東響 モーツァルト「レクイエム」 ― 2021年10月24日 20:52
東京交響楽団 名曲全集 第170回
日時:2021年10月24日(日)14:00
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ソプラノ/三宅 理恵
メゾソプラノ/小泉 詠子
テノール/櫻田 亮
バスバリトン/ニール・デイヴィス
合唱/新国立劇場合唱団
演目:デュティユー/交響曲 第1番
モーツァルト/レクイエム K. 626
「コンムニオ」の前に、リゲティ作曲
「ルクス・エテルナ」を演奏。
前日のショスタコーヴィチの毒が滓のように残ったまま川崎に向う。
ラザレフの容赦のない音楽に打ちのめされ、気持ちが奮い立たない。こういうときは2、3日ぼんやりとしていたいのだが、致し方ない。
ご丁寧にも、次の日がモーツァルトの「レクイエム」というのも、相当なものだ。二重苦になりそうな予感がした。
「レクイエム」の前にデュティユーの交響曲。
デュティユーの「交響曲第1番」は戦後間もなく創られた。4楽章形式、30分ほどの古典的な外観。中身はかなり自由な音楽になっている。
1楽章はパッサカリア。厳密な感じは受けない、むしろ、形式のないまま書かれたように聴こえる。茫漠とした低絃のピチカートが響き、各種の楽器がそれを繰り返して行く。
2楽章はスケルツォ。ドビュッシー風の響きも聴こえる。木管と金管がからみあって面白い。
3楽章は緩徐楽章の間奏曲。無調ならではのけだるさ。雨の街を彷徨い歩くとき、後ろで鳴っていてもよさそうな雰囲気がある。
4楽章は変奏曲。冒頭のファンファーレの後、主題が提示され変奏して行く。緩急が頻繁に交代し、打楽器も効果的。最後は速度を落とし、消えるように閉じる。
デュティユーは、ブーレーズ、メシアンと並ぶフランス現代音楽の大家らしい。メシアンは派手、ブーレーズは素っ気ないが、デュティユーは適度に色彩感があり優しい音楽で聴きやすい。けれど、また聴きたいか、と問われれば首肯できない。やはりゲンダイ音楽、とくに無調は苦手。
モーツァルトの「レクイエム」は、よく知られているように遺作にして未完。ラクリモサの8小節目で筆が止まっているのは有名な話。
今回のラクリモサの補筆はジュスマイヤー版ではなく、英国の作曲家マイケル・フィニッシー版(2011年)に依っているとのこと。合唱にソリストが加わり、とりわけソプラノが強く声をだす。意表を突かれるが、どの版であろうともラクリモサは涙なしに聴けない。ソリストたちは、バス・バリトンのニール・デイヴィスのみ来日できたが、あとの3人は代役となった。ソプラノの三宅理恵は、透明感のある清潔な声で、このラクリモサでも素晴らしい歌を聴かせてくれた。
ラクリモサ以降は通常のジュスマイヤー版で、補筆だから作品後半は音楽的に弱いというのがもっぱらの定説となっている。しかし、サンクトゥスやベネディクトゥスなど心を動かされる部分もある。ここはモーツァルトの指示が、口頭であれジュスマイヤーになされていた、と考えたほうが納得できる。終曲コムニオも苦し紛れのように冒頭のイントロイトゥス、キリエを転用しているものの、もともとの楽想が強靭で、十分に全曲を受け止める音楽になっている。
今回ノットは、リゲティの「ルクス・エテルナ」を「レクイエム」のアニュス・デイ(神の小羊)とコムニオ(聖体拝領唱)の間に置いた。「ルクス・エテルナ」は、無伴奏16部混声合唱曲でテキストは聖体拝領唱。したがって、リゲティとモーツァルトの聖体拝領唱を続けて聴いて「レクイエム」が終わる、という仕掛けである。モーツァルトの「レクイエム」のなかに『2001年宇宙の旅』が挟みこまれた。
「ルクス・エテルナ」における新国立劇場合唱団には舌を巻いた。どうやって音程を保っているのか不思議で、唖然とするほど、驚異的な歌唱力である。虚空に吸い込まれるような感覚がよぎって不覚にも落涙した。
このあと、モーツァルトのコムニオが演奏されたわけだが、ここは「レクイエム」の冒頭を回帰させているから、ちょうど輪廻が続いていくような感じを強く受ける。永遠に終わることがない、と言っているように。
未完ということは、閉じられた音楽ではなく、未来へ開かれた音楽ということだ。これ以上の贅沢を言うのはよそう。モーツァルトの「レクイエム」は、未完でありながら、過去の200年、そしてこの先も、様々な諸相を見せながら、受容されて行くことになるのだから。
二重苦は杞憂に終わった。ノット×東響+新国立劇場合唱団のモーツァルトによって、ショスタコーヴィチの毒素に侵された脳髄が、少し癒されたような気がした。
モーツァルト「レクイエム」のネット配信 ― 2021年10月25日 07:15
昨日の東京交響楽団「名曲全集 第170回」の演奏会が、ニコニコ動画でライブ中継されていた。
いつまでかは不明だが、タイムシフト(見逃し配信)も可能なようだ。
https://live.nicovideo.jp/watch/lv333995921
東響は、たびたび無料で動画配信をしてくれる。後ほどゆっくり視聴してみようと思う。ありがたいことだ。