2021/10/23 ラザレフ×日フィル ショスタコーヴィチ交響曲第10番2021年10月23日 22:03



日本フィルハーモニー交響楽団 第734回 東京定期演奏会

日時:2021年10月23日(土) 14:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:アレクサンドル・ラザレフ
共演:ピアノ/福間 洸太朗
演目:リムスキー=コルサコフ/「金鶏」組曲
   リムスキー=コルサコフ/ピアノ協奏曲
                嬰ハ短調 op.30
   ショスタコーヴィチ/交響曲第10番 ホ短調 op.93

 ラザレフ×日フィルは3年ぶり、このコンビでショスタコの「4番」「8番」「9番」「11番」「12番」と聴いた。まだ、かなり歯抜けがある。今回は「10番」。

 ウーハンコロナ対応ということか、演奏者たちの舞台への出入りが変則であった。
 最初に指揮者ラザレフが1人で舞台に登場する。次いで、オケのメンバーが入場し、最後にコンマスが席につく。協奏曲のソリストは、通常のようにオケが揃ったあと出てくる。演奏終了後は、指揮台にラザレフが残り、オケのメンバーが退場してから、指揮者が舞台を降りる。
 指揮者ラザレフとオケのメンバーの距離を開けようと意図したのか。これって有効な方法と言える? あまり意味がないような…よく分からない。

 ショスタコの前にリムスキー=コルサコフの2曲。初めて聴く。
 リムスキー=コルサコフといえば圧倒的に「シェヘラザード」、あとは「スペイン奇想曲」、ほかにはムソルグスキーの「禿山の一夜」の編曲したものくらいしか知らない。
 「金鶏」は、リムスキー=コルサコフが書いた最後のオペラで、これをもとに演奏会用組曲を構想していたらしい。ところが本人が急逝したため、シテインベルクとグラズノフが共同して組曲にまとめたものだという。
 演奏時間15分ほどの「ピアノ協奏曲」も珍しい。

 「金鶏」は、リムスキー=コルサコフらしい華やかな曲。オペラ「金鶏」は、風刺が効いた帝政ロシアに対する体制批判がこめられた作品と言われている。組曲を聴くと、他愛もないおとぎ話の付帯音楽のようで、異国情緒やブンチャカ調が混じっている。先だってのレスピーギの「シバの女王ベルキス」に通じるようなところがある。
 「ピアノ協奏曲」も華々しい。リストを彷彿とさせる。中間部からはラフマニノフが聴こえてくるようだ。福間さんはしっかりとした技巧、粒立ちのはっきりした音、キレのいい演奏で聴きごたえがあった。

 さて、華美で派手な曲のあとのショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。
 これがとんでもない演奏だった。今までに聴いてきた「10番」は一体何だったのか、というほど。もう別世界、水準そのものが違う。過去の「10番」には美しさや軽やかさを感じさせる部分が必ずあったけど、ラザレフにそんな配慮は一切ない。綺麗ごとは失せている。「10番」はそんな生っちょろい音楽ではなかった。
 これがソヴィエト社会主義共和国連邦の、共産主義社会の、現実を表わした音楽なのだろう。全編、不気味な空気が漂い、恐怖が押し寄せてくる。爆裂と実弾が飛び交う、密告と粛清の世界、スターリンが倒れたあとの解放感もない。音の重量と重圧で押しつぶされそうになる。気持ちがふさぎこむ。気分が悪くなり、頭の芯まで疲れ果てた。音楽を聴いて嫌悪する経験などそうそうあるものではない。

 ショスタコーヴィチは、スターリンに生死を握られていた。軽妙で洒脱な「9番」が、大作を期待した当局から批判された後、10年近く交響曲の創作からは遠ざかっていた。スターリンが倒れると、一気にこの「10番」を書き上げたと言われている。
 「10番」は古典的な4楽章を踏襲しながら、各楽章のボリュームはアンバランスで、明らかに歪んだ構成となっている。ショスタコの真骨頂であるタテマエとホンネという二重言語的手法についても徹底している。純粋な絶対音楽に見せかけつつ、あちこちに自分自身や恋人の名前の音型を埋め込む。暗号化したメッセージでもって挑んでくる。
 第1楽章は、演奏時間が全曲の3分の1を占める。もともとショスタコはネクラで陰鬱だが、この楽章は特に暗い。不気味な低弦、クラリネットの独奏、フルートによるワルツに続き、管楽器や打楽器が音量を増し、やがて頂点に達する。その後、音量を徐々に落としながら、静寂の中でクラリネットが鳴き、ピッコロも力尽きて、ひやりとしたコーダが訪れる。
 第2楽章は演奏時間5分程度、あっという間に終わる。木管楽器による急速なパッセージ、コントラバスの高音、狂気ともいえるオーケストレーションが興奮を呼ぶ。この威圧的な楽章は、“音楽によるスターリンの肖像画”だ、とショスタコは述べたとか、なるほど、長く書くことなどできるはずはない。
 第3楽章、レントラー風。作家自身の音型[DSCH](レ・ミ♭・ド・シ)が全容を現す。突如新たなモチーフ[EAEDA](ミ・ラ・ミ・レ・ラ)がホルンで吹かれる。[EAEDA]とは、当時ショスタコが密かに心を寄せていたモスクワ音楽院時代の教え子エリミーラ・ナジーロワのことらしい。この音型は頻繁に現れるが、結局、最後は[DSCH]だけが取り残される。裏読みするといろいろ意味深ではある。
 第4楽章は、低弦楽器により静かに開始される。不気味さと光明、恐怖と安堵が見え隠れするような、ゆっくりした曲想が続く。やがてクラリネットの場面転換のごとき合図でアレグロに突入し、奔放な曲調が展開する。突然、第2楽章のスターリンのテーマが回帰し、せめぎ合いのあと、作家自身の[DSCH]が全てを振り払う。やがてどんちゃん騒ぎが来て、あとは[DSCH]音型の嵐で全曲を締めくくる。なんとも不思議な空騒ぎである。
  
 初演当時も賛否両論と同時に、この曲に込められた作曲者の意図について様々な物議を巻き起こしたらしい。それが現在まで続いている。そのせいもあって、この曲の人気は段々と高まっているように思える。ショスタコーヴィチとしては、「してやったり」といったところだろう。
 しかし、この曲を真に演奏するには、ソ連時代を実際に生きてきた人にして、初めて成しえるものではないか。ラザレフは、にこやかにお客さんに手を振ったり自ら拍手をして、お茶目な素振りで愛嬌を振りまいているが、内には国家との関係において伺い知れない闇を抱えているはずだ。そうでなければ、これほどの表出などできるわけがない。
 今後は、安易にショスタコーヴィチを聴こうと思わないほうがいい。特に、この「10番」は、それなりの覚悟を持って聴くことになりそうだ。