追記:バッハ「マタイ受難曲」 ― 2025年10月02日 15:02
2025年9月28日の東響川崎定期演奏会から数日を経過した。少し落ち着いたのでノット指揮のバッハ「マタイ受難曲」について追記しておきたい。
2群に分けた混声合唱100人ほどが舞台の後方に並んだ。ソプラノ・リピエーノとしての児童合唱は20人ほど、P席上段のパイプオルガンの横に位置した。ソリストたちが舞台最前列に待機する。管弦楽はこれも2群が左右に分かれて座っている。中央には2台のオルガン(大木麻理、栗田麻子)が置かれ、さらにはホールオルガン(安井歩)のリモートコンソールが舞台の下手に用意されていた。指揮台の前はチェロ(伊藤文嗣)、隣は第二部で登場するヴィオラ・ダ・ガンバ(福澤宏)の席となっていた。
明らかにバッハの時代にほど遠い大編成である。当時の演奏の原型を探求し、合唱と独唱の別なく“一つのパートを一人が歌う”スタイルを採用したクイケン&ラ・プティット・バンドは言うまでもなく、聖トーマス教会合唱団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管や鈴木雅明とBCJなどの演奏スタイルとも比べるまでない。同じモダン・オーケストラでもLGOのコンマスだったボッセが振った新日フィルの編成は凝縮され、演奏は禁欲的で端正だった。ノット×東響が目指すところとは異なっている。
ノットは現代の機能的な管弦楽を目一杯使い、優秀な声楽陣を最大限活用し、現時点で考えられるリソースを躊躇なく投入してバロック音楽を奏でた。それもバロック音楽の最高峰であるバッハの「マタイ受難曲」を演奏してみせた。これは虚仮威しやエンターテインメントを狙ったものではさらさらない。懐古するバッハではなく、今の時代の“人と楽器”によってバッハがどう聴こえるのか、「マタイ受難曲」が何を訴えてくるか、それを問うたものだった。
冒頭の「来たれ、娘たちよ」のホールオルガンの重低音に身震いした。ソプラノ・リピエーノの声が天上から降り注いでくるようだった。東響コーラスはいつものように暗譜。ノットは指揮棒を持たずゆったりとした身振りで悠然と歩みだす。弦はノンヴィブラートでありながらまろやか、レガートが多用され休符の前の音は引き伸ばされる。滑らかな音がホールを満たしていく。
レチタティーヴォとコラールが続く。エヴァンゲリストのヴェルナー・ギューラは力みのない歌唱だが、高音域がちょっと苦しい。もう少し力強さがあっても良かった。イエス役のミヒャエル・ナジは英雄的で崇高な歌唱が好ましい。特筆すべきはイエスの光背を表す弦楽合奏の美しさ、東響の弦の響きに何度も震撼した。コラールの迫真力は東響コーラスの力量と三澤洋史の指導があってのことだろう。
最初のアリアは、アンナ・ルチア・リヒターが歌う「悔いの悲しみは」。香油を注いだベタニアの女にまつわる自由詩である。リヒターはソプラノからメゾに転換したという。豊かな情感のある声で心を揺さぶる。伴奏をつけた竹山愛と濱崎麻里子のフルート二重奏がとても美しい。以前、竹山は相方の濱崎麻里子について「特別な存在です。ほぼ同い年で、中学生の頃からコンクールで顔を合わせ、東京藝術大学で共に学び、神戸国際フルートコンクールでも一緒に入賞しました。ここで再び巡り合って音楽を共に創れることを幸せに感じています」とインタビューに応えていた。
ユダの裏切りではカタリナ・コンラディの歌う「血を流せ、わが心よ」。透明感のある清楚な声とともに強靭さを持ち合わせている。この10月にウィーン国立歌劇場の来日公演で「フィガロの結婚」「ばらの騎士」に出演する。続く最後の晩餐における「われは汝に心を捧げん」では、荒絵理子と最上峰行のオーボエがコンラディ寄り添う。最上は公演後X(Twitter)に「新しい世界を見せてもらいました。同期入団の荒さんとはこれまで何度も本番後に握手してきたけど、昨日今日の握手の重みはずっと忘れないと思います。十数年一緒に吹かせてもらった証の重み。ありがとう」と投稿した。ノットはカーテンコールのとき、真っ先にフルートの2人を称え、次いでオーボエの両者を賞賛した。たしかにフルートもオーボエも最強のコンビである。
リヒターとコンラディは「かくてわがイエスはいまや捕らわれたり」の二重唱を歌い、第一部が終わった。
20分間の休憩中、美しく濃密な音楽のなかで展開する人間たちの愚かさに、激しい衝撃を受けていた。
第二部が始まり劇的なアリアが連続する。ペテロが否認したあとの「憐れみください、我が神よ」から、ユダの自死における「我に返せ、わがイエスを」、ピラトの判決に対する「愛によりわが救い主は死に給わんとす」、ピラトがバラバを釈放しイエスを鞭打つ直後の「わが頬の涙」である。
これらの場面でのリヒターとコンラディの歌唱、ノットの設計する歌と伴奏のバランス、さりげない抑揚をつけた管弦楽のコントロール、それに応える東響の演奏は、古典派はおろかロマン派を越えて、まるで後期ロマン派の音楽のようにさえ聴こえた。独墺音楽の源流といっていいバッハの音楽に、遥か後世の独墺音楽の崩壊までの道程が重なって見えるような気がした。
二期会の3人の歌手も安心して聴くことが出来た。櫻田亮はエヴァンゲリストを務めることもしばしばで安定した明晰な声が好ましい。加藤宏隆は深々とした歌唱と多様な表現力で楽しませてくれた。萩原潤は艶のある温かい歌声が心に沁みた。とりわけイエスが息絶え合唱が「げにこの人は,神の子なりき」との詠嘆のあと、降架と埋葬における「わが心よ、おのれを浄めよ」でイエスの死による救済を穏やかに安らかに歌った。この歌唱が終結の合唱「われらは涙流してひざまずき」への残照となり、平安と魂の休息をいやがうえにも高めることとなった。感動的な終幕であった。
管弦楽で特記しておかなければならないのは、チェロの伊藤文嗣とオルガンの大木麻理、2人のコンマスである小林壱成と景山昌太郎である。伊藤と大木は全編にわたって通奏低音を揺るぎなく維持し、歌手陣の歌唱をしっかりと支えた。管弦楽1群の小林壱成は「憐れみください、我が神よ」ですすり泣くような哀願するようなヴァイオリンを響かせ涙を誘った。管弦楽2群の景山昌太郎は「我に返せ、わがイエスを」でヴァイオリンの華麗なる走句を披露した。そして「わが頬の涙」では弦楽合奏を見事にリードした。ノットは終演後この4人に賛辞をおくり、スタンディングオベーションなか2人のコンマスを引き連れての一般参賀となった。
それにしても「マタイ受難曲」の演奏は、今やピリオド・スタイルが多くを占め、モダン・オーケストラでの公演は稀である。ノットはそのことにあえて挑戦した。バッハの音楽は演奏スタイルなどを超越しているのだと。ピリオド、モダン、折衷など様式は関係ない。時空を越えたバッハの音楽は「バッハ」であるということだけが大切なのだと。
人はどの時代どの場所にあっても罪を犯す。裏切りや責任逃れ、事なかれ主義や付和雷同、他者を犠牲にし残酷なことさえ厭わない。イエスの受難の物語は遠い昔の遠い場所での出来事ではない。この時代この場所で日々起こっていることだと「バッハ」は教えてくれる。そうノットは言いたかったのではないか。
ノットのラストシーズンも大詰めである。ノット×東響の稀有のコンビを聴くことができるのは、マーラー「交響曲第9番」とベートーヴェン「交響曲第9番」を残すのみとなった。
2025/9/28 ノット×東響 バッハ「マタイ受難曲」 ― 2025年09月28日 20:32
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第102回
日時:2025年9月28日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:エヴァンゲリスト(テノール)/
ヴェルナー・ギューラ
イエス(バリトン)/ミヒャエル・ナジ
ソプラノ/カタリナ・コンラディ
メゾソプラノ/アンナ・ルチア・リヒター
テノール/櫻田 亮
バリトン/萩原 潤
バス/加藤 宏隆
合唱/東響コーラス
合唱指揮/三澤 洋史
児童合唱/東京少年少女合唱隊
児童合唱指揮/長谷川 久恵
演目:J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV244
R.シュトラウスの「サロメ」「ばらの騎士」、ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」、ブリテンの「戦争レクイエム」などの歌劇や声楽曲を積み重ねてきたノットと東響のコンビが、12年目の旅の最後にあたって「マタイ受難曲」を取りあげた。
ノットは「少年合唱団の一員として『マタイ受難曲』を歌ったことがあるが、指揮をするのは初めて」と言う。そして、東響コーラスについて「素晴らしい合唱団…『マタイ受難曲』や『戦争レクイエム』は、彼らがいるからこそ演奏できる」と語った。
ノットが初めて指揮するという「マタイ受難曲」は、徹頭徹尾美しい。近年主流の古楽器によるこじんまりとした「マタイ受難曲」ではなく、モダンオケと共にしっかりとした歌手や合唱団を揃えて、大曲としての「マタイ受難曲」を披露してくれた。
「マタイ」はレチタティーヴォとアリアとコラールの重層構造だけど、ノットの指揮はそれらの境界線さえ明らかでないほど滑らかに渾然一体となった演奏だった。2群に分けられた弦はほぼノンヴィブラートながら優しく柔らかく、木管はいつものように繊細。
その美しさを背景に人間の弱さ、罪深さがくっきりと浮かび上がる。イエスの受難という別の世界の話ではなく、我々自身の物語として描き出された音楽に打ちのめされた。
今は放心状態で、とてもじゃないが細部を振り返ることなどできない。落ち着いたころを見計らって、機会があればもう一度記憶を手繰ってみようと思う。
2025/9/15 大野和士×都響 モーツァルト「戴冠式ミサ」 ― 2025年09月15日 21:57
東京都交響楽団
サラダ音楽祭メインコンサート
日時:2025年9月15日(月・祝) 14:00開演
会場:東京芸術劇場コンサートホール
指揮:大野 和士
共演:ダンス/Noism Company Niigata
演出振付/金森 穣
ソプラノ/砂田 愛梨
メゾソプラノ/松浦 麗
テノール/寺田 宗永
バス/狩野 賢一
合唱/新国立劇場合唱団
合唱指揮/冨平 恭平
演目:モーツァルト/歌劇「魔笛」序曲 KV620
モーツァルト/ミサ曲ハ長調 「戴冠式ミサ」
ペルト/フラトレス~弦楽と打楽器のための
ファリャ/バレエ音楽「三角帽子」第2組曲
ラヴェル/ボレロ
「サラダ音楽祭」とは身体に良さそうな名称だけど、食べる「サラダ」ではなく、“Sing and Listen and Dance〜歌う!聴く!踊る!”をコンセプトにした音楽祭とのこと。器楽だけでなく声楽、舞踏を統合した祭りで2018年に始まったという。盛沢山なプログラムのなか、モーツァルトの「戴冠式ミサ」K.317が目当て。
モーツァルトの宗教曲といえば「レクイエム」や「ハ短調ミサ」が高名だが、いずれもウィーン時代に書かれた未完の作品。完成された教会音楽としてはザルツブルグ時代の「戴冠式ミサ」が最高傑作だろう。
青年モーツァルトの最も辛い時期である。彼は21歳のとき母とともにマンハイム・パリへ就職活動の旅に出た。世間は冷たく何処も雇ってくれない。異国の地パリでは母を亡くし、マンハイムやミュンヘンでのアロイジアとの恋は実らない。仕方なしに従妹ベーズレに慰めてもらいながら負け犬となって帰郷する。このときモーツァルトは23歳になっていた。
ザルツブルクに逼塞したモーツァルトの心情は、その時書かれた作品が手がかりになるはずだけど、悲壮感や大きな叫びは一つとしてない。ただ、この年「ポストホルン・セレナーデ」「ディヴェルティメント第17番」「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」、そしてこの「戴冠式ミサ」という後のウィーン時代に匹敵する陰影の濃い楽曲が残された。いずれも明るさや希望を失うことなく、深い哀しみと憂いをたたえた、信じられないほど美しい音楽たちである。
「戴冠式ミサ」は通常文のキリエ(憐れみに讃歌)によってスタートする。合唱が「キ」と強く発声し、「リエ」と声を潜めて歌い始める。新国の合唱団はたっぷりとした余裕のある歌声。その極めて印象的な出だしからソリストたちの「キリスト、憐れみたまえ」が続く。ソプラノの砂田愛梨は芯のある伸びやかな声で客席までよく届く。グローリア(栄光の讃歌)はエネルギッシュで華やか。クレド(信仰宣言)は輝かしく限りない高揚感に満ちている。
涙に濡れた音楽じゃない。失意の帰郷から2か月、モーツァルトに何が起こっているのか。1月の末、モーツァルトは嫌々ながら馬車に乗り、従妹ベーズレの膝枕で帰郷した。「戴冠式ミサ」が完成したのは3月下旬である。ベーズレは数カ月の間モーツァルト家に留まった。二人はじゃれ合っていたに違いない。ベーズレは音楽や心根を語る相手ではなかったかも知れないが、モーツァルトが言う“天使”の役割を務めてくれた。モーツァルトの青春時代の最大の危機を救ったのは彼女だった。
サンクトゥス(聖なるかな)は天空から神が舞い降りたかのよう。ここでの合唱団の歌唱も堂々たる音楽というだけでなく親しみやすさを兼ね備えていた。ベネディクトゥス(ほむべきかな)は穏やかな前奏のあとソリストたちが落ち着いた四重唱を聴かせる。アニュス・デイ(神の子羊)はソプラノ・砂田の見事な独唱。この旋律がオペラ「フィガロの結婚」の第3幕、伯爵夫人のアリア「美しい時はどこへ」によく似ている。それゆえ「戴冠式ミサ」は聖俗混同と問題にされ、否定論の根拠とされたこともあった。
でも、これはおかしい。「戴冠式ミサ」が先に書かれ「フィガロ」は後にできた。順序が逆である。伯爵夫人の祈りの気持ちをミサの旋律からから引用したのであれば、論説自体が牽強付会、笑止千万である。
最後にむかってアニュス・デイのテンポは少し速くなり,冒頭の「キリエ」の旋律が再現し、曲は次第に盛り上がり、決然とした合唱で全曲が結ばれた。
大野和士と都響とは親密さを増し、大野は一段と総卒力を高めているようだ。新国立の合唱団も大野のいわば手兵であり、統制のとれた管弦楽と声楽が感動的な「戴冠式ミサ」を披露してくれた。
「戴冠式ミサ」の前には「魔笛」序曲が演奏された。オペラ指揮者でもある大野の手にかかると、舞台への期待感が嵩じてくる。このところ「魔笛」はご無沙汰である。
前半はモーツアルトの2曲を終えて休憩となった。
後半の最初はペルトの「弦楽と打楽器のためのフラトレス」。弦5部と打楽器の演奏にNoism Company Niigataの舞踏を加えて上演された。Noism Company Niigataは、東響の新潟定期演奏会の会場でもある「りゅーとぴあ」(新潟市民芸術会館)専属の舞踊団、新たな舞踏芸術を創造することを目的としているという。
前方の客席を5列ほど潰し舞台を拡張し、そこで舞踏が演じられた。8名の男女が黒っぽい衣装に同色の頭巾を被り、はじめはさり気ない小さな動きからはじまり、音楽に合わせて段々と動きは大きく激しくなっていった。音楽は一種の変奏曲でほの暗く神秘的で静謐な音型が繰り返され、ときどき発せられる打楽器が印象的な作品。ベルトはエストニア生まれ、中世音楽やミニマル・ミュージックにも通じるシンプルな和声やリズムに特徴がある。ヒーリング音楽としても愛聴されている。
続いて、管弦楽だけでファリャの「三角帽子」。ディアギレフが手がけたバレエ作品のための音楽。2つの組曲があり、第2組曲は「隣人たちの踊り」「粉屋の踊り」「終幕の踊り」の3曲からなる。
いずれもホルンが大活躍する。ホルンのトップは客演の大野雄太だった。東響の首席を辞めたあと大学の教師に転職したと思っていたが、いつのまにか新日フィルの首席に復職していた。古巣に戻ったわけだ。久方ぶりに思い切った気持ちのいい吹奏を聴かせてもらった。
最後は再度Noism Company Niigataとの共演で「ボレロ」。昨年大好評だったことから今年もプログラムに入った。
舞台では紅い衣裳の井関佐和子を中心に、黒い衣装の8人が円形に囲んで待機している。スネアドラムが3拍子のリズムを刻み始めフルートが重なり、次々と楽器が加わる。音楽のリズムに紅い衣装が反応し、その動きが周囲に伝播する。やがて大きな輪は3人ずつに分割され、さらに横方向に伸びていく。音楽は最大のクライマックスを迎え、舞踏は圧倒的な熱量をもって解放された。
大野和士は2015年から都響の音楽監督を務め、2026年3月まで任期を延長している。都響は来年以降の指揮者体制についてこの秋頃に発表するとしているが、果たして誰になるのだろう。
大野のさらなる延長は有り得ないことではないが、普通に考えれば首席客演指揮者であるアラン・ギルバートが後任としては順当といえるだろう。ギルバートは現在エルプフィルハーモニーの首席指揮者とデンマーク王立歌劇場の音楽監督を務めている。都響人事に注目である。
2025/9/13 シュルト×神奈川フィル リスト「ファウスト交響曲」 ― 2025年09月13日 20:57
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会 第407回
日時:2025年9月13日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:クレメンス・シュルト
共演:トランペット/エステバン・バタラン
テノール/村上 公太
男声合唱/神奈川ハーモニック・クワイア
演目:アルチュニアン/トランペット協奏曲変イ長調
リスト/ファウスト交響曲 S.108
この夏は毎週のようにアマオケ通いだった。久しぶりに神奈川フィルの定期演奏会を聴く。指揮のクレメンス・シュルトはドイツ生まれの俊英、現在、カナダのケベック交響楽団の音楽監督。日本でもすでに読響、新日フィル、名フィル、京響、広響などを振っている。神奈川フィルへはリストの「ファウスト交響曲」をひっさげての登場となった。
最初はアルチュニアンの「トランペット協奏曲」。ソリストのエステバン・バタランはスペイン出身のシカゴ響の首席、一時フィラデルフィア管の首席も務めた。もともとアメリカのオケは金管が強力、なかでもシカゴ響は最強といわれる。その首席奏者であるからには期待が高まる。
アルチュニアンの協奏曲はハイドンやフンメルと並んで有名だけど、戦後に作曲された比較的新しい楽曲。もっともゲンダイ音楽の語法ではなくて、出身地アルメニアの民謡を取り入れた親しみやすい旋律とリズムにあふれている。
とはいえソロパートは高速タンギングや旋律の大きな跳躍があり、リズムの表現力、緩徐部分の音色、終結部のカデンツァなど難関がいくつもある。バタランは抜群の安定度で、いとも容易く軽々と吹奏する。輝かしくも多彩な音色、滑らかな音量変化、鋭い音から典雅な音まで、びっくりするほどの手練れで、曲が終わると同時に会場は大騒ぎとなった。
リストの「ファウスト交響曲」は演奏するに1時間をゆうに越え、声楽も必要だから実演の機会が少ない。過去に一度だけ生演奏に出会っている。ただこの時、前半のアッカルドが弾いたパガニーニの協奏曲が驚異的な演奏だったので、大曲「ファウスト交響曲」の記憶が霞んでしまっている。指揮は井上道義、オケは名フィル、もう何十年も前の出来事である。
で、ちょっと予習をした。普通は「ファウスト交響曲」と呼ばれるが、正式には「3人の人物描写によるファウスト交響曲」と名づけられている。3人とは戯曲『ファウスト』の主要人物である「ファウスト」と、恋人である「グレートヒェン」、そして悪魔の「メフィストフェレス」である。『ファウスト』の物語を忠実に追うわけではなく、それぞれの人物を音で描写する。
ファウストを描いた第1楽章は真理を探求するファウストの多面的な性格を複数の主題で表現する。第2楽章はかつての恋人だったグレートヒェンの清純な美しさを抒情的に描いている。第3楽章の悪魔メフィストフェレスは、ファウストの主題をパロディ化し、人間性を嘲笑い、卑しめ、破壊するグロテスクな音楽となる。ただし、グレートヒェンの主題だけは変形されず悪魔も手を出せない。このグレートヒェンの主題が終盤の「神秘の合唱」となる。
シュルトは大きな身振りで情熱的な指揮ぶりだが、真面目に拍子をとってわかりやすい。地味な音づくりでスタートしながら徐々に温度を高め、メフィストフェレスでの音楽は燃えさかるよう。そして、「神秘の合唱」ではオルガンが鳴り、テノール独唱と男性合唱が高らかに歌い上げ、グレートヒェンの主題が全てを救済して感動的な幕切れとなった。
「ファウスト交響曲」とは、この最後10分の「神秘の合唱」ために、その前の1時間が必要であったということをシュルトは教えてくれた。シュルトは口髭、顎鬚を蓄え、40歳ではあるけれど身体は引き締まり好青年と呼びたいほど。神奈川フィル(コンマスは読響の戸原直)も柔軟な演奏で応えて初顔合わせとは思えない。このコンビでの再共演を望みたい。
なお『ファウスト』の結尾「神秘の合唱」は森鷗外の翻訳が「青空文庫」にある。
一切の無常なるものは
ただ影像たるに過ぎず。
かつて及ばざりし所のもの、
こゝには既に行はれたり。
名状すべからざる所のもの、
こゝには既に遂げられたり。
永遠に女性なるもの、
我等を引きて往かしむ。
2025/7/19 ノット×東響 ブリテン「戦争レクイエム」 ― 2025年07月19日 22:36
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第101回
日時:2025年7月19日(土) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ソプラノ/ガリーナ・チェプラコワ
テノール/ロバート・ルイス
バリトン/マティアス・ウィンクラー
合唱/東響コーラス(指揮:冨平恭平)
児童合唱/東京少年少女合唱隊
(指揮:長谷川久恵)
演目:ブリテン/戦争レクイエム op.66
ブリテンの「戦争レクイエム」は過去に一度だけ聴いている。プロの公演ではなくアマチュアのオケと合唱団の演奏だった。合唱団に参加している知人からチケットを頂いた。父親が亡くなって間もないころだった。戦中派のど真ん中の世代で戦前は丁稚奉公、楽しいはずの青春時代は支那での戦争、戦後は闇市で商売をしながら苦労し続けた人である。鎮魂そして反戦の曲を聴きながら、音楽はこの世で鳴るだけでなく、別の世界へも響き伝わるものではないか、と強く感じていたことを思い出す。
「戦争レクイエム」は空爆で破壊された英国のコヴェントリー大聖堂(聖マイケル大聖堂)の再建に際して委嘱された作品、第二次大戦後15年ほど経っていた。ヴェルディのレクイエムと同様「レクイエム・エテルナ」「ディエス・イレ」「セクエンツィア」「オッフェルトリウム」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」「リベラ・メ」といった典礼文で構成されているが、あいだにウィルフレッド・オーウェンの詩が挟み込まれ、ラテン語の典礼文と英語の詩がほぼ交互に歌われる。オーウェンは英国の詩人で第一次大戦に従軍し亡くなっている。
演奏するにはソリストが3人、混成合唱と児童合唱、そしてフルオーケストラと小さな室内オケという編成が必要となる。これらを幾つかに分ける。一つはソプラノ、混声合唱とオーケストラで典礼文を担当する。二つめは少し離れた場所に位置する児童合唱、天上の声を担う。三つめはテノール、バリトンと室内オーケストラでオーウェンの詩を歌う。
混声合唱はP席とRA、LB席の一部を使用し、ソプラノはP席最上部の下手に控えた。児童合唱は3階席、まさに天上からの歌声となった。舞台上手には室内オケ。コンマスは小林壱成、フルートの竹山、オーボエの荒木の顔も見える。ハープや打楽器も含めて十数人である。室内オケの前方にはテノールとバリトンが並んだ。フルオーケストラをリードするのはニキティンである。フルオケにおけるフルートは久しぶりに見る相澤さんだった。
「レクイエム・エテルナ」が始まる、低音の不安定な響きと鐘の音の中から合唱が「永遠の安息」を歌う。ほとんど呪文か読経のように聴こえる。東響コーラスの安定度は今日も驚異的。音楽が激しさを増し児童合唱の歌声が天から降ってくる。東京少年少女合唱隊の清楚な歌声に身震いする。次いでテノールが「家畜の如く死にゆく兵士らにどんな弔鐘があるというのか?」で始まるオーウェンの詩を独唱する。ロバート・ルイスは張りのある明晰な声。伴奏の室内オケは雄弁で豊かな響きにびっくりする。最後は合唱が戻ってきて「キリエ」によって曲が閉じられる。
次の「ディエス・イレ」は、長大で30分近くを占める。「怒りの日」「レコルダーレ(思い出したまえ)」「ラクリモーサ(涙の日)」などが歌い継がれる。バリトンとテノールが戦場でのありさまを歌う。マティアス・ウィンクラーは儚く甘い声だからよけい悲しみや苦悩が浮かび上がる。戦いのラッパが鳴り響く。神の怒りというよりは進軍ラッパ。戦場を思わせる金管や打楽器の鋭利な響きと室内オーケストラとの対比も聴きどころ。レクイエム中間部の頂点となる「ラクリモーサ」は、ソプラノが合唱を従えて切々と歌うなか、テノールがオーウェンの詩を切れ切れにして挟み込んでいく。ガリーナ・チェプラコワは美しく強靭な声で、涙の日…よみがえる日…と繰返す。聴き手の目頭が熱くなる。
第3曲の「オッフェルトリウム」は、神秘的なオルガンと児童合唱により主イエスへの祈りではじまる。合唱が復活の約束を叫ぶと、その勢いのままテノールとバリトンによるアブラハムの物語に基づくオーウェンの詩が歌われる。
「サンクトゥス」は、グロッケンシュピール、シンバル、ヴィヴラフォーンの乱打とソプラノが先導する合唱が不気味な雰囲気をかもしだす。金管が輝かしく響き行進曲がはじまる。どの「レクイエム」でも「聖なるかな」は勇壮。バリトンのソロが「神は死と涙をすべて取り消して下さるのだろうか?」と自問自答して、最後は消え入るように終わる。
「アニュス・デイ」では、オーウェンの詩を中心に展開し、その合間に典礼文の歌詞「神の小羊よ、彼らに安息をお与えください」が割って入る。全ての人々に「安息をお与えください」と何度も祈りが捧げられ、永遠の休息を懇願するのだが、休息は来るのだろうか。
最後の「リベラ・メ」は、半音階的なメロディーが打楽器に彩られながら音量を増し、ソプラノが加わると怒りの日のラッパも現れる。不意に静かになると、オーウェンの詩「奇妙な出会い」をテノールとバリトンが対話の形で歌う。死後の世界で兵士が自分が殺した敵方の兵士と遭遇し、二人は和解を果たし眠りにつく、という感動的な内容。そして合唱およびソプラノ独唱が「イン・パラディスム(楽園へ)」で締めくくる。涙なしに聴くことはできない。ここはバッハの「マタイ受難曲」の終曲から真っ直ぐにつながった子守歌ではないか、とふと思った。
ノットは大袈裟にわめきたてるのではなく、抑制しつつ大規模なオーケストラと小さな室内オケを使い分け、ソロ、混声合唱、児童合唱のバランスを計量しながら、一瞬たりとも緊張感を絶やすことがなかった。管弦楽と声楽を知り尽くした統率力には感嘆するほかない。言葉では言い表すことのできないこの作品のメッセージを見事に伝えた。
ブリテンは「戦争レクイエム」の初演でテノールに英国人のピアーズ、バリトンにドイツ人のフィッシャー=ディスカウ、ソプラノにヴィシネフスカヤ(ロストロポーヴィチの夫人)を起用しようとした。大戦で敵対した当事国から歌手を呼ぶことで和解の象徴としたかったのだろう。ところが、ヴィシネフスカヤはソビエト政府の許可が降りず参加することができなかった。この3カ国のソリストが揃うのはその後のカルショーによってなされたレコーディングの時である。カルショーはショルティ指揮の「ニーベルングの指環」全曲録音で有名なデッカの名プロデューサーで、この「戦争レクイエム」も大いに売れた。
ノットはブリテンと同じイギリス出身であり、ブリテンが初演で企画したようにロシア、イギリス、ドイツの3か国からソリストを迎えた。ブリテンは演奏のあり方にもメッセージを込めた。それを再現したノットの意図は明確といえよう。
今年は終戦80周年である。いまだに世界はきな臭い。この「戦争レクイエム」は明後日(21日)サントリーホールで再演される。来月には佐渡裕の指揮で兵庫芸術文化センター管弦楽団の公演がある。9月にはギャビン・カーの指揮で広島交響楽団が「被爆80周年特別公演」として演奏する。平和の難しさを改めて思う時代の「戦争レクイエム」である。