2026/3/22 バッティストーニ×東フィル マーラー「復活」 ― 2026年03月22日 21:34
新宿文化センター合唱団演奏会
マーラー交響曲第2番「復活」
(東京フィルハーモニー交響楽団)
日時:2026年3月22日(日) 15:00開演
会場:新宿文化センター 大ホール
指揮:アンドレア・バッティストーニ
共演:ソプラノ/佐藤 康子
メゾソプラノ/脇園 彩
オルガン/高橋 博子
合唱/新宿文化センター合唱団
合唱指導/山神 健志
演目:マーラー/交響曲第2番「復活」
いまバッティストーニはマーラーをときどき振るけど、10年ほど前には全くレパートリーにしていなかった。代役として急遽「交響曲第1番」を東フィル定期で指揮したのが最初のはずである。それが素晴らしい演奏となり、東フィルの首席指揮者就任へのきっかけの一つとなった。
ところが、それから10余年、今度は2026年シーズン開幕の東フィル1月定期演奏会――皮肉にも演目は同じ「交響曲第1番」をバッティストーニがキャンセルするという事態を引き起こした。バッティストーニ側のエージェントの不手際によるダブルブッキングのせいと言われ批判を浴びた。東フィル事務局に落ち度がなかったのかどうかは分からない。
まったくもって下衆の勘繰りだが、バッティストーニはここ何年か首席指揮者としては定期演奏会への登壇回数が少ないし、名誉音楽監督であるチョン・ミョンフンのほうがオケの顔のようになっている。前任のダン・エッティンガーも似たようなものだったから、これが東フィルにおける首席の位置づけかも知れないけど、バッティストーニと東フィルとの関係がギクシャクしているように見えなくもない。
そんな騒動のあとバッティストーニと東フィルがマーラーの「復活」を取り上げる。東フィル主催ではなくて新宿文化センター再開を記念しての新宿文化センター合唱団の演奏会ではあるが、先行き波乱含みと勝手に思い込んでいるバッティストーニと東フィルによるマーラー「復活」は、この機会を逃したらなかなか聴くことは難しいだろう。ということでチケットを確保した。やはり完売公演となった。
あのときの「巨人」を思い出すと、バッティストーニは初めてのマーラーで急ぎ代役を務めたのだから、マーラーの交響曲全体を俯瞰したうえで革新的な交響曲である「巨人」を振ったわけではなかった。作曲家の成熟の成果など目もくれず若さにまかせて真正面からぶつかって行ったに違いない。情熱に満ちた驚くほど鮮烈な演奏だった。
それに比べるとこの「復活」はふくよかなたっぷりとした音楽で、各楽章を思う存分描き分け、歌唱が入ってからはオケとのバランスやテンポ設定などに細心の注意を払い、まるっと歌劇を聴いたような腹持ちのよい満腹感のある演奏となっていた。合唱は200人ほど、2人のソリストは貫禄の歌唱で、東フィルとの間にもぎこちない雰囲気は感じなかった。バッティストーニは各楽器のそれぞれに自己主張を求めながらオケをひとつの楽器としてまとめ、熱量の高い演奏を最後まで繰り広げた。
最近はあまり話題にならないが、かってはアンドレア・バッティストーニ、ミケーレ・マリオッティ、ダニエーレ・ルスティオーニの3人を「イタリア若手指揮者の三羽烏」と呼ぶこともあった。日本ではバッティストーニが東フィルの首席ということもあって圧倒的な露出度だが、マリオッティはここ数年、東響に客演して評判を高め、ルスティオーニは4月から都響の首席客演指揮者に就任する。世界における活躍をみるとバッティストーニはトリノ・レージョ劇場の音楽監督に加え、1月からはダブルブッキングの原因となったオペラ・オーストラリアの音楽監督を務めている。マリオッティはローマ歌劇場の音楽監督であり、この秋からはRAI国立交響楽団の首席指揮者を兼務する。ルスティオーニはフランス国立リヨン歌劇場の名誉音楽監督とともにメトロポリタン歌劇場の首席客演指揮者となった。いずれも順調にポストを固めつつある。3人ともこの先ますます多忙を極めると思うが日本の楽団との関係を維持してほしいものである。
2026/3/17 松井慶太×OEK+野村萬斎 「恋は魔術師」 ― 2026年03月18日 13:23
オーケストラ・アンサンブル金沢 第42回東京定期公演
野村萬斎with OEK「恋は魔術師」ファリャ生誕150年記念
日時:2026年3月17日(火) 18:30開演
会場:サントリーホール
指揮:松井 慶太
共演:演出・出演/野村 萬斎
振付・舞踊/中村 壱太郎
振付/花柳 源九郎
舞踊/花柳 ツル ほか
フラメンコ/工藤 朋子
メゾソプラノ/秋本 悠希
演目:徳山美奈子/交響的素描「石川」
加賀と能登の歌による「海の男」
シューマン/蝶々
ファリャ/バレエ音楽「恋は魔術師」
メインプログラムは野村萬斎とオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)とのコラボによるファリャの「恋は魔術師」。2024年に初演された「萬斎のおもちゃ箱Vol.2」の再演で、東京公演のみならず全国各地を巡業している。
「恋は魔術師」は能・狂言、日本舞踊、フラメンコ、クラシック音楽など様々なジャンルを混淆した舞台で、これはこれで興味あるが、松井慶太が指揮をするというのでチケットを取った。松井はOEKのパーマネント・コンダクター。昨年、アマオケと音大オケ相手の演奏を聴いてとても感心した。
サントリーホールの舞台は大きく設え直してあり、前方には方形の本舞台がつくられ、橋がかりのような路ができていて上手、下手から舞台に出入りできる。また、本舞台前方の左右には階があって客席に降りられるようになっていた。オーケストラは舞台後方に位置し、オペラと同様譜面灯が用意されている。舞台がはじまると照明が落とされるのだろう。
最初はオーケストラの演奏のみで交響的素描「石川」から。プログラムノートによると「石川」はOEKの創設者岩城宏之の委嘱によって作曲された。「加賀と能登の歌による」という副題がつけられており、そのフィナーレ「第3楽章 海の男(七尾まだら)」という部分らしい。10分足らずの曲で最初から最後まで太鼓をはじめとする打楽器の音が途切れることがない。どこかの民謡をオーケストレーションしたような勇ましくも親しみのある楽曲だった。会場には作者である徳山美奈子の姿もあった。
交響的素描「石川」が終わると舞台には野村萬斎が登場し、「萬斎のおもちゃ箱」を企画した経緯や出演者などの紹介があり、途中からは松井慶太と一緒に「蝶々」と「恋は魔術師」の簡単な解説をしてくれた。大方、20分くらい喋っていただろうか。さすが能・狂言で鍛えた声は魅力的で良く通る。
シューマンの「蝶々」はもともとはピアノ曲。1分前後の小品12曲から構成されている。これもプログラムノートによるとジャン・パウルの小説『生意気ざかり』に描かれる仮面舞踏会の情景を音楽化しており、蝶々とはその仮面の形を示しているという。物語は夢想家のヴァルトと、情熱家のヴルトという双子の兄弟が、同じ女性に恋をする。そして仮面舞踏会の一夜、彼女がどちらを選ぶのかを見極めようと…
管弦楽への編曲は青島広志が担当し、花柳ツルなど6、7人が舞踊で表現した。もともと小説からインスピレーションをうけた音楽ゆえか、イメージを膨らませた華やかな舞となり、黒子が扱う小道具の蝶々は舞台から客席へとゆらゆらと飛翔して行った。青島広志の編曲はウェーバーとベルリオーズに倣ったということだが、さまざまな楽器が活躍してなかなか手際よい。青島広志も客席で賞賛を浴びていた。
休憩後にファリャの「恋は魔術師」。スペインのアンダルシア地方が舞台で、浮気者の夫を亡くしたカンデーラは新たな恋人カルメーロと結ばれたいと望み、嫉妬で邪魔する夫の亡霊を女友だちのルシーアに誘惑してもらう、という筋書きのバレエ音楽。亡霊役が萬斎、カンデーラは花柳ツル、カルメーロは藤間礼多、ルシーアはフラメンコの工藤朋子という布陣。
楽しい舞台だった。萬斎の動きや台詞は笑わせるし、花柳ツルや工藤朋子らの舞踊はジャンルが異なるのに違和感はなく見応えがあった。音楽は激しい舞踏の場面と静寂な情景描写とが繰り返し、不気味な調べと爽やかな響きとが対比されるなど変化に富み、松井慶太は変拍子を振り分けながら明暗の交錯する音楽を色彩感豊かに表現した。残念だったのはカンデーラの想いを歌うメゾの秋本悠希の声量がちょっと不足気味、それと毎度のことだけどOEK(コンマス=アビゲイル・ヤング)の各奏者が大人しい。もっと一人一人が目立ったほうがいいと思う。アンサンブルは大事だけど全体のなかに各奏者が埋没しまいがちなのは良くない。アンコールは予想通り「火祭りの踊り」だった。舞台では手拍子、足拍子も高らかに振付を変えて再度踊ってくれた。
2026/2/16 インバル×都響 マーラー「千人の交響曲」 ― 2026年02月17日 14:36
東京都交響楽団 都響スペシャル
インバル90歳記念
日時:2026年2月16日(月) 19:00開演
会場:サントリーホール
指揮:エリアフ・インバル
共演:ソプラノⅠ/ファン・スミ
ソプラノⅡ/エレノア・ライオンズ
ソプラノⅢ/隠岐 彩夏
メゾソプラノⅠ/藤村 実穂子
メゾソプラノⅡ/山下 裕賀
テノール/マグヌス・ヴィギリウス
バリトン/ビルガー・ラッデ
バス/妻屋 秀和
合唱/新国立劇場合唱団
児童合唱/東京少年少女合唱隊
演目:マーラー/交響曲第8番 変ホ長調「千人の交響曲」
インバルが90歳にして都響とは三度目となるマーラー・ツィクルスに挑戦している。10年ほど前の二度目のツィクルスのときは番号順に3年くらいかけて完成した。あのときは東京と横浜で公演し、「第1番」と「第2番」は聴き逃したものの「第3番」以降「第9番」までをみなとみらいホールで聴いた。クック版の「第10番」や「嘆きの歌」も演奏されたがこれらはパス、「大地の歌」はツィクルスに含まれていなかったと思う。
今回は一昨年の「第10番」からスタート、昨年は中断し今年のこの「第8番」で再開となった。芸術主幹の国塩哲紀さんは2024年2月の都響HPで【インバル/都響 第3次マーラー・シリーズ】のプランについて、
「第10番から開始し、原則として番号を遡り、マエストロの選択により第2番《復活》か第9番のいずれかを最後にする計画です。
2024年度は、かねて計画していたブルックナー第9番フィナーレ付きと、コロナ禍でキャンセルとなったショスタコーヴィチ第13番《バービイ・ヤール》のリスケジュールのため、インバル氏のマーラー・シリーズはスキップし、2025年度から再開します。
インバル氏は基本的に年1回来日予定ですので、今回のマーラー・シリーズは数シーズンかけてのゆるやかな歩みとなります。いったいどのような旅となるか…。どうぞ気長におつきあいくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。」と記していた。
どうやら降順で演奏するようで来期は「第7番」が予定されている。けれど、年1回の来日では毎年1、2曲しか取り上げることができない。下手すれば完遂するに10年近くかかる。インバルはたしかにマーラーの権威であるにしても終わるころは100歳、こうなると化け物か妖怪である。もっとも同世代のメータやデュトワ、100歳近いブロムシュテットなどもまだ現役なのだから、インバルならきっと三度目のツィクルスを実現してしまうのだろう。
児童合唱はオケの後方、舞台奥に2列となって弧を描くように並ぶ。ソリストはスミ、ライオンズ、藤村、山下、ヴィギリウス、ラッデ、妻屋の順にP席最前列の中央に位置し、新国立劇場合唱団はソリストたちを取り囲むようにP席の前4列ほどを埋めつくす。オケは舞台からあふれるばかり、壮観である。「栄光の聖母」の隠岐彩夏は第2部の後半にLBの最上部で歌った。バンダはLCとLD、RCとRDの間の通路に、それぞれ金管奏者6、7人が出入りして吹奏した。
インバルはあいかわらずエネルギッシュで緩いところが全くない。強烈な推進力である。といって空回りしたり力余る様子はない。千人とはいかないが数百人の音楽家たちを完全にコントロールする。無理強いでも強制でもなく音楽そのものに語らせることによって人々を結集させる。音楽は自然に伸縮し息づき広々としている。インバルが振ると都響の音は見違えるほど精彩を放つ。歌手の一人一人が表現力豊かに変貌する。これはもうマジックである。1時間半にわたって祝典かつ神秘的な世界が繰り広げられた。
「千人の交響曲」というと、「宇宙が震え鳴り響くさまを想像してほしい。我々が耳にするのは、もはや人間の声ではなく、惑星や太陽の運行なのです。」とマーラーがメンゲルベルクへ送った書簡が有名である。前代未聞の大編成による音響と視覚的な仰々しさ(初演時の演奏者は1030人)、上演するに難易度が高いこともあって催事の音楽として扱われやすい。実際、オケの創立記念公演とか定期演奏会の節目とかに演奏されることが多く、今回も“創立60周年記念”とか“インバル90歳記念”とか銘打たれてある。
しかし、この曲の第1部は交響曲様式である厳格なソナタ形式で書かれ様々な主題が提示される。第2部ではその主題たちが発展しながら再登場する。プログラムノートで岡田暁生が「第1部は一種の序曲として機能している」と書いているが、第1部の讃歌「来たれ、創造主」によるラテン語も第2部の『ファウスト』からのドイツ語も詳しくは知り得ないものの、対訳を見ながら音楽を聴くと1部と2部とのテキストの間には意味内容の対応関係があるように思う。当然、音楽の主題と言葉には関連性があり、そのことによって聴き手のエモーションが高められて行く。けっして虚仮威しだけの催事用音楽ではない。
なかでも「神秘の合唱」で大団円を迎えるコーダの部分は、第1部の冒頭主題が回帰し、永遠の女性的なるものが「われらを高みへと引き上げる」と何度も上行音形として繰り返され、「永遠に!永遠に!」と歌われる。このまま音楽によって天上に魂が引き上げられるのではないかと身震いするほど。今までのインバルであればクライマックスだからといってことさら力を込めたり見得を切ったりはしないのだけど、今回はかなりテンポを落とし楽譜の隅々にまで光をあてるような演奏だった。やはり90歳の誕生日におけるマーラー「交響曲第8番」は特別な感慨を齎すものだったのだろう。
終演後、インバルが何回か舞台へ呼び戻されたあと、コンマス・矢部達哉のリードによるオケと歌手全員から「Happy Birthday to You」をインバルにプレゼント。そして、幾つもの花束贈呈があり、あろうことかバースデーケーキまでが登場し、観客も加わり大騒ぎのなか「インバル90歳記念」公演が終了した。
2026/2/8 ジョルダン×N響 ワーグナー「神々のたそがれ」抜粋 ― 2026年02月08日 22:12
NHK交響楽団 第2057回 定期公演 Aプログラム
日時:2026年2月8日(日) 14:00 開演
会場:NHKホール
指揮:フィリップ・ジョルダン
共演:ソプラノ/タマラ・ウィルソン
演目:シューマン/交響曲第3番 変ホ長調「ライン」
ワーグナー/楽劇「神々のたそがれ」
ジークフリートのラインの旅
ジークフリートの葬送行進曲
ブリュンヒルデの自己犠牲
土日は雪との予報があったため、期日前投票をしようと区役所へ出向いたところ、週半ばの平日昼だというに長蛇の列、どう見ても小一時間は並ばなければならない。次の予定もあり期日前投票を断念した。
だから、投票日の今日、雪のちらつくなか午前中に一票を投じ、そのままNHKホールに向かった。プログラムはライン川つながりでシューマンの「交響曲第3番」とワーグナーの「神々のたそがれ」抜粋という魅力的なプログラム。
指揮のフィリップ・ジョルダンはスイス出身。スイスというと古くはアンセルメやコルボ、現役ではデュトワやバーメルト、若手ではヴィオッティなど優れた指揮者を輩出している。ジョルダンはどちらかというと歌劇場畑でウィーン国立歌劇場の音楽監督を務め、昨年のウィーン国立の来日公演でも指揮している。しかし、ウィーンは伏魔殿だからお決まりの意見対立で退任し、来年からはフランス国立管弦楽団の音楽監督に就任する。これからはコンサート指揮者へと軸足を移すのかも知れない。N響とは初共演である。
「ライン」は「第3番」となっているが、シューマンの4曲の交響曲のうち最後に書かれた作品。変ホ長調はベートーヴェン「エロイカ」の調性、開始楽章の雄大な冒頭部やホルンの活躍も「エロイカ」を彷彿とさせる。全体の5楽章構成は「田園」と同じ。ベートーヴェンの正当な後継者はブラームスで、シューマンはベートーヴェンが確立した交響曲の約束事を逸脱しているといわれるけど、いやいやベートーヴェンの影響は大きい。第2楽章は田舎風の素朴な舞曲、同一メロディの繰り返しが船で揺られているように、あるいは川のうねりのように聴こえないこともない。第3楽章は牧歌的な旋律をクラリネットがリードする。第4楽章は短いが宗教的な雰囲気の厳かな音楽、最終楽章は晴れやかな気分のなか喜びに満ち最後には堂々たるフーガも登場する。
ジョルダンは悠然とした歩みで各楽章とも同じようなテンポ感。楽章内も速度をあまり動かさない。一貫した空気感を生み出し単一楽章の交響曲のように描いた。シューマンの管弦楽法は複数の楽器が同じフレーズを重複するから、ちょうど絵具を塗り重ねるように濁りが増し重く分厚い響きとなりやすいが、ジョルダンの音楽はまろやかで滑らか。バランス感覚が鋭くオケの鳴らし方をよく知っているのだろう。
後半は「神々のたそがれ」から3曲、4時間有余のドラマを40分に凝縮してつないだ。そして「リング」15時間・4部作の終曲はブリュンヒルデの声楽付きである。
「ジークフリートのラインの旅」は、ブリュンヒルデとの愛に目覚めたジークフリートが、ブリュンヒルデの愛馬グラーネにまたがってライン川へと旅立つ勇壮な曲。N響の弦や管は逞しく強靭。コンマスは長原幸太、今井仁志のホルンや長谷川智之のトランペットが壮麗に鳴る。ジョルダンの丁寧で急がない悠々たる音楽はワーグナーでますます生きて來る。
「ジークフリートの葬送行進曲」は、ハーゲンによってジークフリートが殺害された直後の音楽、「剣の動機」「ジークフリートの動機」「英雄の動機」などジークフリートに関わるライトモチーフが連続し、悲壮で壮大に盛り上がりクライマックスを築く。ジョルダンはワーグナーの毒素をあからさまにぶちまけるより、抑制を保ちつつドラマの悲劇性を追及するようで思わず涙する。
終曲の「ブリュンヒルデの自己犠牲」は、ハーゲンを殺害し指輪を奪い返したブリュンヒルデが指輪をラインの乙女たちに返し、ジークフリートの亡骸が横たわる薪に火をかけ炎の中へ身を投げる。その炎は神々の城ヴァルハラまで燃え上がり神々の世界は滅び去る。指輪は浄化され欲にまみれた神々の支配は終焉し、愛と自己犠牲による世界の救済というワーグナーの思想が巨大な管弦楽の圧倒的な迫力でもって描写される。ブリュンヒルデを歌ったタマラ・ウィルソンは米国出身でトゥーランドットやイゾルデなどもレパートリーとし、メトロポリタンだけでなく欧州でも活躍している。ウィルソンの声はしなやかで力強いが可憐な表情もあって好感度大。ジョルダンは歌劇場指揮者らしくオケの音量調節が完璧で、歌手の声を際立たせ品格の高いワーグナーを聴かせてくれた。
追記:バッハ「マタイ受難曲」 ― 2025年10月02日 15:02
2025年9月28日の東響川崎定期演奏会から数日を経過した。少し落ち着いたのでノット指揮のバッハ「マタイ受難曲」について追記しておきたい。
2群に分けた混声合唱100人ほどが舞台の後方に並んだ。ソプラノ・リピエーノとしての児童合唱は20人ほど、P席上段のパイプオルガンの横に位置した。ソリストたちが舞台最前列に待機する。管弦楽はこれも2群が左右に分かれて座っている。中央には2台のオルガン(大木麻理、栗田麻子)が置かれ、さらにはホールオルガン(安井歩)のリモートコンソールが舞台の下手に用意されていた。指揮台の前はチェロ(伊藤文嗣)、隣は第二部で登場するヴィオラ・ダ・ガンバ(福澤宏)の席となっていた。
明らかにバッハの時代にほど遠い大編成である。当時の演奏の原型を探求し、合唱と独唱の別なく“一つのパートを一人が歌う”スタイルを採用したクイケン&ラ・プティット・バンドは言うまでもなく、聖トーマス教会合唱団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管や鈴木雅明とBCJなどの演奏スタイルとも比べるまでない。同じモダン・オーケストラでもLGOのコンマスだったボッセが振った新日フィルの編成は凝縮され、演奏は禁欲的で端正だった。ノット×東響が目指すところとは異なっている。
ノットは現代の機能的な管弦楽を目一杯使い、優秀な声楽陣を最大限活用し、現時点で考えられるリソースを躊躇なく投入してバロック音楽を奏でた。それもバロック音楽の最高峰であるバッハの「マタイ受難曲」を演奏してみせた。これは虚仮威しやエンターテインメントを狙ったものではさらさらない。懐古するバッハではなく、今の時代の“人と楽器”によってバッハがどう聴こえるのか、「マタイ受難曲」が何を訴えてくるか、それを問うたものだった。
冒頭の「来たれ、娘たちよ」のホールオルガンの重低音に身震いした。ソプラノ・リピエーノの声が天上から降り注いでくるようだった。東響コーラスはいつものように暗譜。ノットは指揮棒を持たずゆったりとした身振りで悠然と歩みだす。弦はノンヴィブラートでありながらまろやか、レガートが多用され休符の前の音は引き伸ばされる。滑らかな音がホールを満たしていく。
レチタティーヴォとコラールが続く。エヴァンゲリストのヴェルナー・ギューラは力みのない歌唱だが、高音域がちょっと苦しい。もう少し力強さがあっても良かった。イエス役のミヒャエル・ナジは英雄的で崇高な歌唱が好ましい。特筆すべきはイエスの光背を表す弦楽合奏の美しさ、東響の弦の響きに何度も震撼した。コラールの迫真力は東響コーラスの力量と三澤洋史の指導があってのことだろう。
最初のアリアは、アンナ・ルチア・リヒターが歌う「悔いの悲しみは」。香油を注いだベタニアの女にまつわる自由詩である。リヒターはソプラノからメゾに転換したという。豊かな情感のある声で心を揺さぶる。伴奏をつけた竹山愛と濱崎麻里子のフルート二重奏がとても美しい。以前、竹山は相方の濱崎麻里子について「特別な存在です。ほぼ同い年で、中学生の頃からコンクールで顔を合わせ、東京藝術大学で共に学び、神戸国際フルートコンクールでも一緒に入賞しました。ここで再び巡り合って音楽を共に創れることを幸せに感じています」とインタビューに応えていた。
ユダの裏切りではカタリナ・コンラディの歌う「血を流せ、わが心よ」。透明感のある清楚な声とともに強靭さを持ち合わせている。この10月にウィーン国立歌劇場の来日公演で「フィガロの結婚」「ばらの騎士」に出演する。続く最後の晩餐における「われは汝に心を捧げん」では、荒絵理子と最上峰行のオーボエがコンラディ寄り添う。最上は公演後X(Twitter)に「新しい世界を見せてもらいました。同期入団の荒さんとはこれまで何度も本番後に握手してきたけど、昨日今日の握手の重みはずっと忘れないと思います。十数年一緒に吹かせてもらった証の重み。ありがとう」と投稿した。ノットはカーテンコールのとき、真っ先にフルートの2人を称え、次いでオーボエの両者を賞賛した。たしかにフルートもオーボエも最強のコンビである。
リヒターとコンラディは「かくてわがイエスはいまや捕らわれたり」の二重唱を歌い、第一部が終わった。
20分間の休憩中、美しく濃密な音楽のなかで展開する人間たちの愚かさに、激しい衝撃を受けていた。
第二部が始まり劇的なアリアが連続する。ペテロが否認したあとの「憐れみください、我が神よ」から、ユダの自死における「我に返せ、わがイエスを」、ピラトの判決に対する「愛によりわが救い主は死に給わんとす」、ピラトがバラバを釈放しイエスを鞭打つ直後の「わが頬の涙」である。
これらの場面でのリヒターとコンラディの歌唱、ノットの設計する歌と伴奏のバランス、さりげない抑揚をつけた管弦楽のコントロール、それに応える東響の演奏は、古典派はおろかロマン派を越えて、まるで後期ロマン派の音楽のようにさえ聴こえた。独墺音楽の源流といっていいバッハの音楽に、遥か後世の独墺音楽の崩壊までの道程が重なって見えるような気がした。
二期会の3人の歌手も安心して聴くことが出来た。櫻田亮はエヴァンゲリストを務めることもしばしばで安定した明晰な声が好ましい。加藤宏隆は深々とした歌唱と多様な表現力で楽しませてくれた。萩原潤は艶のある温かい歌声が心に沁みた。とりわけイエスが息絶え合唱が「げにこの人は,神の子なりき」との詠嘆のあと、降架と埋葬における「わが心よ、おのれを浄めよ」でイエスの死による救済を穏やかに安らかに歌った。この歌唱が終結の合唱「われらは涙流してひざまずき」への残照となり、平安と魂の休息をいやがうえにも高めることとなった。感動的な終幕であった。
管弦楽で特記しておかなければならないのは、チェロの伊藤文嗣とオルガンの大木麻理、2人のコンマスである小林壱成と景山昌太郎である。伊藤と大木は全編にわたって通奏低音を揺るぎなく維持し、歌手陣の歌唱をしっかりと支えた。管弦楽1群の小林壱成は「憐れみください、我が神よ」ですすり泣くような哀願するようなヴァイオリンを響かせ涙を誘った。管弦楽2群の景山昌太郎は「我に返せ、わがイエスを」でヴァイオリンの華麗なる走句を披露した。そして「わが頬の涙」では弦楽合奏を見事にリードした。ノットは終演後この4人に賛辞をおくり、スタンディングオベーションなか2人のコンマスを引き連れての一般参賀となった。
それにしても「マタイ受難曲」の演奏は、今やピリオド・スタイルが多くを占め、モダン・オーケストラでの公演は稀である。ノットはそのことにあえて挑戦した。バッハの音楽は演奏スタイルなどを超越しているのだと。ピリオド、モダン、折衷など様式は関係ない。時空を越えたバッハの音楽は「バッハ」であるということだけが大切なのだと。
人はどの時代どの場所にあっても罪を犯す。裏切りや責任逃れ、事なかれ主義や付和雷同、他者を犠牲にし残酷なことさえ厭わない。イエスの受難の物語は遠い昔の遠い場所での出来事ではない。この時代この場所で日々起こっていることだと「バッハ」は教えてくれる。そうノットは言いたかったのではないか。
ノットのラストシーズンも大詰めである。ノット×東響の稀有のコンビを聴くことができるのは、マーラー「交響曲第9番」とベートーヴェン「交響曲第9番」を残すのみとなった。