2025/10/12 マルッキ×東響 「田園」と「春の祭典」 ― 2025年10月12日 19:11
東京交響楽団 名曲全集 第211回
日時:2025年10月12日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:スザンナ・マルッキ
演目:ベートーヴェン/交響曲第6番 へ長調op.68
「田園」
ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」
スザンナ・マルッキはフィンランド出身。著名な指揮者を輩出しているシベリウス音楽院でパヌラやセーゲルスタムに学んだ。サカリ・オラモとほぼ同世代でもう50代半ば。
もとはチェリストで30歳を過ぎてから指揮活動を本格化し、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を10年近く務めた。現代音楽の演奏集団であるアンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)の音楽監督も経験している。
今日のプログラムはEICの元監督であるから「春の祭典」は大注目だけど、その前段に20世紀音楽が並ばなくてよかった。「田園」+「ハルサイ」の名曲プログラムとなって一安心である。東響はよくEICの監督たちを招聘する。
マルッキは金髪をひっつめ、黒のパンツに動きやすそうな上着でもって登場した。身体は引き締まっていて、50代とは思えないほど若々しく見える。
「田園」は楽章ごと、あるいは楽章内も緩急、強弱を積極的に対比させる。楽章でいえば第2、5楽章を遅くゆったりと歌わせ、第3、4楽章を急速に強く激しく動かす。同じ楽章の中においてもテンポや音量にはっきりした変化をつけ、ひとつひとつの音を蔑ろにしない。だから音型や響きに新しい発見があって面白いが、いささか全体の音楽の流れが阻害されたように思えた。スダーンや沼尻のように物語がスムーズに見えてこない。音の中身は詰まっているのだけれど、進行が多少ギクシャクして演奏時間が長く感じた。
「春の祭典」も音づくりとしては「田園」とほとんど同じ。ただ「春の祭典」は「田園」のような標題性や物語性はなく、それぞれの部分の音響やリズムで勝負できる曲だから、結構楽しませてもらった。各パートのバランスは計算されつつ野性味もあった。野太くたっぷりとした音で迫力も十分。特に第二部の終盤「生贄の踊り」は狂気といえる変拍子のオンパレードで混沌の極みだが、マルッキの指揮に曖昧なところは全くない。非常に明快で分かりやすく混乱の欠片もない。終わってみると一種の爽快感さえ残した。この指揮姿には惚れる人がいるかも知れない。
コンマスは9月に第一コンサートマスターとして入団した景山昌太郎、隣に新人コンマスで現在は研究員の吉江美桜が座った。オケの弦楽器はしなやか、低音が豊かに膨らみ、管楽器の音色は素晴らしく、打楽器の切れ味は鋭い。今日も美しい東響の音だった。
2025/10/5 ストルゴーズ×都響 シベリウス「交響曲第3番」 ― 2025年10月05日 19:21
東京都交響楽団 第1028回定期演奏会Cシリーズ
日時:2025年10月5日(日) 14:00開演
会場:東京芸術劇場コンサートホール
指揮:ヨーン・ストルゴーズ
共演:ヴェロニカ・エーベルレ
演目:ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調op.61
シベリウス/交響曲第3番 ハ長調op.52
ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」から。
ソリストのヴェロニカ・エーベルレは5,6年前にモーツァルトとベルクを続けて聴いたことがあり良く覚えている。彼女のヴァイオリンは美音だけどちょっと線が細くて大いに感心したというわけではない。ただ、両方の演奏会のメイン楽曲がともに印象的で、そのせいで記憶に残っている。
ひとつはウルバンスキ×東響のショスタコーヴィチ「交響曲第4番」、もうひとつは大野和士×都響のブルックナー「交響曲第9番」であった。ウルバンスキには期待外れのショスタコーヴィチにがっかりし、大野和士には思いがけないブルックナーの名演にとても興奮した、という違いがあったけど。
で、それら大曲の前段で、エーベルレは東響と「トルコ風」を、都響と「ある天使の思い出に」を弾いたのだった。そういえば都響のときエーベルレは出産間近で、“贅沢な胎教だな”などと馬鹿なことを考えていたのを思い出す。
今日のコンサートのお目当ては、もちろんシベリウスの「交響曲第3番」だが、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」についても、カデンツァに関して“作曲家ヴィトマンが、エーベルレとラトル×ロンドン響による録音のために書き下ろしたもので、ソロヴァイオリンにコントラバスソロとティンパニソロが加わり、さらにコンサートマスターのソロも絡むというスペクタクル”を期待してほしい、と都響からアナウンスされていたので、その興味もある。
ヴィトマンのカデンツァは、各楽章の終盤にそれぞれ置かれていて、第1楽章では安藤芳広のティンパニと池松宏のコントラバスが加わり、第2楽章ではコンマスの水谷晃とエーベルレとの掛け合いとなった。第3楽章では再びティンパニとコントラバスが参加してエーベルレとの三重奏となった。
ヴィトマンのカデンツァは、素材は確かにベートーヴェンから採られているもののコテコテの現代音楽で、ベートーヴェンのなかに異質なものが侵入したように音楽が分断され流れが滞って、いささか居心地の悪いものだった。演奏時間も各楽章に結構長いカデンツァが挿入されたことから1時間近くにもなってしまった。珍しいものを聴いたわけだがひどく疲れた。
エーベルレのヴァイオリンは高音域の弱音は繊細で美しいけど、やはり音量が不足気味。ストルゴーズはソロと協奏するとき相当オケの音量を絞っていたが、オケだけのときは豪快に鳴らして、そのギクシャクした音楽の運びかたも違和感として残った。
休憩後、シベリウスの「交響曲第3番」。
「第3番」は、先月も阿部未来×都民響で聴いたが、演奏会で取りあげられるのは稀だから、アマオケでもプロオケでも聴けるときに聴いておきたい。
第1楽章はチェロとコントラバスの印象的な出だしから弦楽器が細かく動き回り、金管が朗々と歌い、木管楽器が飛び跳ねる。鳥たちの鳴き声や川のせせらぎなど森の中のざわめきが聴こえてくるよう。管弦楽は絶え間なく声を交わして前進を続け、最後は祈りを捧げるような響で閉じられる。第2楽章は弦のピチカートのうえをフルートが歌う。中間部の木管楽器の不規則な音型は妖精のいたずらのようにも思えるが、すぐに冒頭の旋律が戻ってきて、懐かしさと哀愁が高まり夢から醒めたようにして終わる。第3楽章の前半はスケルツォ的な性格で、テンポはめまぐるしく変わり、拍子もずれたように不安定で猛々しい。やがて、コラールが聴こえてくる。ここからが通常の交響曲のフィナーレ。コラールの主題は徐々に力強さを増しながら高揚し、弦楽器群の三連音符が鳴り響くなか、荘厳なクライマックスが築かれる。
ヨーン・ストルゴーズはフィンランド出身、ヘルシンキ・フィルで首席指揮者を務めていた。もとはヴァイオリン奏者で、のちに、やはりヨルマ・パヌラに指揮を学んだ。シベリウスは“お国もの”である。聴き手としてはひんやりとした北国の空気感を味わいたかったわけだけど、ストルゴーズは激しく熱い音楽をつくった。事前の思い込みと落差が生じ、ちょっと期待外れに終わった演奏会だった。
2025/8/23 山上紘生×SAVEUR ブルックナー「交響曲第7番」 ― 2025年08月23日 19:49
Orchestre de SAVEUR 第4回演奏会
日時:2025年8月23日(土) 13:30開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:山上 紘生
演目:ベートーヴェン/交響曲第2番
ブルックナー/交響曲第7番
山上紘生は20代の若手指揮者。最近までシティフィルの指揮者研究員を務め、今はアマオケでの活動が中心のようだ。シティフィルの研究員のとき、急病の藤岡幸夫の代役を務め評判になったことがあり、一度聴いてみたいと思っていた。今回、プログラムと会場の利便性に魅かれチケットをとった。
Orchestre de SAVEURは、木管アンサンブル団体を母体に結成された比較的新しい管弦楽団。コンサートマスターの柴田恵奈は桐朋出身のヴァイオリニスト。2022年の旗揚げ公演以降、すべて山上が指揮をしている。設立して4回目の演奏会で大胆にもブルックナーに挑戦する。
アマオケでありながらそれを忘れさせるようなブルックナーを、連続して聴かせてもらった。古希の征矢は豪放な、若き山上は緻密な、という違いはあっても、どちらも記憶に刻まれるであろう演奏だった。
山上は師匠の高関や藝大先輩の太田に似て、堅実できっちりとした音楽をつくる。堂々たる歩みでテンポを大きく揺らさない。第1楽章の低弦のうねりと抑揚、3楽章スケルツォのゆったりとして揺るぎのない進行は、過去に例がないほど独特だったけど、これみよがしなところはない。音はふっくらとしているものの重くなりすぎることがない。全体の感触は冷たさにはほど遠く温かいくらいだが、ときどきひんやりとした風景もみせてくれる。なるほど、この温度感が「7番」には相応しい。
オケの弦楽器はほぼ12型と小ぶり。ただし低弦のチェロとコントラバスを増強していた。柴田恵奈がコンマスを務めた弦5部のアンサンブルは美しく、ホルン、ワグナーチューバ、トランペット、トロンボーンなどの金管かみな達者。特にホルンとトランペットのトップは技術、音色とも一級だった。
団員はざっと見渡すと20代、30代の若い人が中心のようで、男女比は4対6といったところか。結成4年目とは思えないほどの優秀なオケである。
前半はベートーヴェンの「第2番」。新しい発見とか気付きとかはあまりなく、がっしりと構築されたオーソドックスな演奏だった。音楽以外のことが頭に去来して往生したが、それだけ安心して聴くことができる音楽だったのだろう。
とまれ、山上紘生は若手指揮者の有望株であることは間違いない。これからも注目していきたい。
2025/8/3 松井慶太×東京カンマーフィル シベリウスとベートーヴェンの「交響曲第7番」 ― 2025年08月03日 21:56
東京カンマーフィルハーモニー
第30回 定期演奏会
日時:2025年8月3日(日) 14:00開演
会場:神奈川県立音楽堂
指揮:松井 慶太
演目:ウォルトン/スピットファイア 前奏曲とフーガ
シベリウス/交響曲第7番
ベートーヴェン/交響曲第7番
8月はアマオケの定期公演が集中する。指揮者と演目を眺めながら幾つかを聴こうと思う。先ずは松井慶太のシベリウスから。
松井は11月末の音大フェスティバルにも出演するが、一足先に東京カンマーフィルとシベリウス「交響曲第7番」を演奏するという。これはどうしても聴きたい。松井は汐澤と広上の弟子で、合唱指揮者を長く務めたあと、今年からOEKのパーマネント・コンダクターに就任している。母校の特任教授にもなった。
東京カンマーフィルはHPによると2006年に設立した室内管弦楽団で、古典派からロマン派の音楽をプログラムの中心にすえ、合唱団との共演によるコンサートにも積極的に取り組んでいるという。定期演奏会の記録をみると15年にわたって松井慶太が全てを指揮しており、あらたまって謳ってはいないものの松井がこのオケの常任指揮者ということであろう。メンバー表によると所属は50数人、見た目は老若男女幅広いが、どちらかというと落ち着いた年代の団員が多いようだ。
最初はウォルトン。ウォルトンといえば「ベルシャザールの饗宴」が飛びぬけて有名だけど、映画音楽も幾つか書いている。映画『スピットファイア』(1942年公開)の音楽より抜粋して演奏会用に編曲したのが「前奏曲とフーガ」。金管楽器のファンファーレから始まる。金管の音程がちょっと不安定、開始早々だから無理もない。スケールの大きな曲想で行進曲となる、続くフーガは小さなモティーフがリズミカルに編み上げられ緊張感が高まる。途中、哀愁を帯びたヴァイオリンの歌が聴こえてくる。弦楽器は8-8-6-5-3の編成、第1ヴァイオリンだけが8人で以下は10型に近い。音楽堂の音響効果もあってか小編成とは思えないほど音は厚く潤いがある。最後は前奏曲のテーマが重なり輝かしく幕を閉じた。
シベリウスの「交響曲第7番」は、20数分に凝縮された単一楽章の交響曲。魅力は何といってもトロンボーンによる主題。低弦の上昇音型で開始されるアダージョではホルンに先導されながら控え目に鳴り、次いでスケルツォにおいて風が吹き荒ぶような弦楽器の響きの中からはっきりと奏でられる。そして、最後は牧歌的な第3部を経たフィナーレで燦然と吹奏される。フィナーレではすべての管弦楽が時間をかけ、総力をあげて高みへ向かうさなかトロンボーンがテンパニを引き連れ崇高に鳴り響く。ウォルトンのときの金管には不安があったが、シベリウスではホルン、トランペット、そして主役のトロンボーンが俄然踏ん張った。弦も分奏があって難度が高いが表情豊かに奏でた。松井慶太は強引なところを見せず泰然と流していく。シベリウスの美点が自ずと浮かび上がり、何度となく大自然を仰ぎ見るような心地がした。
同じように息が長く金管が重要な役割を担う音楽であっても、ブルックナーのそれは動機を彫琢しつつ反復を重ね転調に転調を繰返しながらクライマックスを築き、ときに彼岸を垣間見るかのような法悦を感じることがあるのに対し、シベリウスのそれは唐突な場面転換を経ながら主題の再現によって頂点をつくりあげる。このとき広大無辺な自然を目の前にしたような感覚を覚える。音楽は山川草木を具体的に描写するわけではないけど、松井と東京カンマーフィルのシベリウスに落涙しそうになった。
休憩後はベートーヴェンの「交響曲第7番」。出だしの一撃からして只事ではない。テンポは急ぐことなく各楽器が過不足なく鳴って堂々と進んでいく。松井のリズム感の素晴らしさは汐澤の弟子だから当然だろう。2楽章では弦5部のそれぞれの色合いが鮮明で、その弦のパートがさまざまに絡み合う様に舌を巻いた。スケルツォのリズムの切れ味には文句のつけようがなく、トリオのホルンと木管の掛け合いも惚れ惚れする。終楽章へはアタッカで一気呵成に突入せず十分間合いをとった。流れが途切れるかと懸念したのも束の間、熱狂的なフィナーレが待っていた。アウフタクトの勢いも楽器の叫びも壮絶といえるほど。コーダ直前のフーガはなかなか満足できない演奏が多いが、2楽章と同様、弦楽器の音色の活かし方が巧妙であり、高揚感を保ったままコーダに雪崩れ込んだ。もともと手に汗握る曲だけど、馴染み過ぎているせいで失望することもある。今日は久しぶりに大興奮した。
松井慶太40歳。今後、プロオケを振る機会が増えていくのかも知れないが、いまもアマオケの指揮を引き受けている。同じ汐澤の弟子といっても先輩であり師匠でもある広上や、ほぼ同世代の川瀬は後進の育成とともにプロオケでの活動が中心となっている。松井が今後も教育者を兼ねながらアマオケの指導を続けていくのであれば、これは汐澤の立派な跡継ぎと言えるだろう。汐澤は、音楽には奏者の技量だけではかれない領域があることを教えてくれた。この先、松井慶太を聴くという楽しみが増えた。次は音大フェスティバルにおける東京音大とのマーラー「巨人」である。期待して待ちたい。
2025/7/26 FSM:ノット×東響 言葉のない「指環」 ― 2025年07月26日 22:12
フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2025
東京交響楽団 オープニングコンサート
日時:2025年7月26日(土) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
演目:ワーグナー/歌劇「ローエングリン」から
第1幕への前奏曲
ベートーヴェン/交響曲第8番 ヘ長調
ワーグナー/言葉のない「指環」
マゼール編「ニーベルングの指環」
同じサマーミューザにおいて似たようなプログラムがあった。一昨年のヴァイグレ×読響による「リング」抜粋とベートーヴェンの「交響曲第8番」である。ただし、ヴァイグレの「リング」はデ・フリーヘルの編曲、今回のノットはマゼール編曲を選択した。マゼール版は尺が長い。加えて「ローエングリン」の前奏曲をサービスしてくれた。チケットは早々に完売となった。
ホール前の“歓喜の広場”でノット指揮によるオープニング・ファンファーレが終わり2時ちょうどに開場した。ファンファーレは三澤慶作曲の5分ほどの華やかな曲、ファンファーレ兼行進曲といった趣。舞台上ではノットのプレトークがあり、予定通り演奏会は3時にスタートした。
最初の「ローエングリン」はノットらしからぬ穏やかで静謐な演奏、繊細で美しく神秘的な音楽だった。
一転してベートーヴェンの「交響曲第8番」はエッジのきいたトリッキーな演奏。強弱、緩急、テンポともども変幻自在、即興的で生々しく、何が起こるか予想がつかない面白さがあった。
「第8番」は「第4番」と並んで実演に恵まれない。両方とも軽やかで小粋な曲だけど面白く聴かせるのは至難の業である。音盤のせいもあるのかも知れない。「第8番」はイッセルシュテット×ウィーンフィルの、「第4番」はクリュイタンス×ベルリンフィルの完璧なレコードがあった。両曲だけは実演が音盤を越えることが出来ず、音盤のみで満足していた不思議な曲であった。もっとも、レコードを処分したあと、「第4番」はまれにライブで楽しむことができるようになった。残っていたはこの「第8番」だが、今日のノット×東響によって呪縛はとけたようだ。
後半、マゼール版の「リング」ハイライト。ノット×東響の演奏は細部まで明晰、楽器の一つ一つが全て聴こえるよう。動機が鮮明に浮かび上がる。重量感を保ちながら隅々まで光をあてたような演奏。「ラインの黄金」の序奏から演奏の安定度は抜群で、最後まで音楽に没入し興奮した。東響の弦、木管、金管、打楽器のバランスは驚異的な水準、それぞれの音も緻密で極めて美しい。
マゼール版は物語順にエピソードを切れ目なく繋ぎ、音で絵を描くような優れた編曲だと思うけど、ひとつ残念なのは「ラインの黄金」の終曲「神々のヴァルハラ入城」がすっぽり抜け落ちていること。「雷神ドナーの槌」で終えてそのまま「ワルキューレ」へと続く。もっとも「神々のヴァルハラ入城」のあとはいささか休息がほしくなるから、これでいいのかも。最も感動したのは「神々の黄昏」、夜明け―ラインへの旅立ち―ハーゲンの招集―ジークフリートとラインの乙女―葬送行進曲―ブリュンヒルデの自己犠牲、と音楽が起伏し、まるで舞台が目に浮かぶようだった。終演後、満員の会場は大歓声、当然のごとくノットの一般参賀となった。
ノットはワーグナー指揮者としても頭抜けている。今となってみるとウーハン・コロナのせいで「トリスタンとイゾルデ」の全曲演奏が中止となってしまったのは痛恨の極みだ。ノットは今期で東響とスイスロマンド管の監督をともに退任し、2026/27シーズンからはスペイン・バルセロナのリセウ大劇場の音楽監督・首席指揮者に就任する。多分、「リング」全曲も取りあげるだろう。うらやましいかぎりである。一旦、東響との縁は切れるのだが、次のシーズン以降も継続的に来日し、また何らかの形でこういったワーグナーを披露してほしい。
今日がサマーミューザの初日、これから2週間にわたって夏祭りが開催される。今年の参加はこのオープニング公演のみ。他に2、3迷ったが開演時間の関係でパスすることにした。検討した幾つかはすべて夜公演、やはり、夜公演は辛いので出来る限り避けることに。指揮者、ソリスト、プログラムの魅力と公演時間による消耗度合を天秤にかけての結果である。歳をとるといろいろ制約されることが多くなっていく。致し方ない。
今日の公演は夏祭りというにはもったいないくらい。定期演奏会にも匹敵するほどで大いに充足した。今年の祭りはこれで終えて悔いない。