2025/2/25 川瀬賢太郎×名フィル マーラー「交響曲第6番」2025年02月26日 11:33



名古屋フィルハーモニー交響楽団
           東京特別公演

日時:2025年2月25日(火) 19:00開演
会場:東京オペラシティ コンサートホール
指揮:川瀬 賢太郎
演目:マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」


 名フィルは森正あたりから聴き始め、外山雄三やモーシェ・アツモンを経て、飯守泰次郎、沼尻竜典の時代に数多く通った。前任の小泉和裕が率いた東京公演にも2、3度足を運んでいる。川瀬賢太郎が監督になってからは初めて。加えて、葵トリオの小川響子が昨年の4月からコンマスに就任している。
 名フィルのコンマスは、長く務めた日比浩一が退任し小川響子が入り、森岡聡、後藤龍伸に加え、客演に荒井英治と山本友重を擁している。コンマス5人体制は豪華である。まぁ、名古屋を中核とした東海地方は大手メーカーが集中しており、とうぜん寄付もあって楽団の財政は裕福なのだろう。

 今回の東京特別公演は、その小川響子がコンマスを担い、チェロのトップには同じ葵トリオの一員であり都響首席の伊東裕がゲストで座っていた。演目は川瀬賢太郎の得意なマーラー、潔く「交響曲第6番」の1曲のみ。完売公演となった。
 弦は16型、管楽器は4ないし5管編成、ありとあらゆる打楽器が並び、大きくないオペラシティコンサートホールの舞台からはみ出しそうだった。ホールは容量も小ぶりだから飽和する音を懸念したが心配は無用だった。音圧は在京のオケでもあまり経験したことがないほどの強度にもかかわらず、騒々しさも音が不鮮明になることもなかった。川瀬のバランス感覚によるものだろう。川瀬は少し恰幅がよくなって指揮ぶりも温厚になってきた。
 しかし、この「第6番」の音楽は悲劇に焦点をあてるよりは闘争に重きを置いたように荒らぶっていた。もっとも音の解像度は高く、今まで気が付かなかった音が聴こえてきて面白くはあった。ただ、聴き終わって心底感動したかといえば、素直には頷くことができない。途中、夢見るような瞬間はあったとしても、全体を通して壮絶な闘いを見聞しているようで、交響曲としての悲劇への物語性が希薄に感じられたせいかも知れない。
 名フィルの演奏水準は随分向上している。東京公演ということで力が入ったせいか、二度の地元公演の疲れが出たせいか、強奏時の木管の濁りや、金管合奏の乱れが多少あったものの、管楽器の鳴りは見事で、弦楽器の進境は著しい。首都圏のオケと比べても全く遜色ない。川瀬とのコンビも順調のようである。

 マーラーの「交響曲第6番」は、世俗的にはマーラーの絶頂期。ウィーン宮廷歌劇場芸術監督にしてアルマ・シントラーと結婚し、長女、次女も授かり、まさに幸福の真っ最中に作曲され初演もした。
 ところが、どういうわけか産み出された曲は悲劇の塊のようであり、今までの交響曲を破壊せんがごとき願望に満ちている。そして、実生活では、やがてウィーンを追われ、長女を亡くし、妻は浮気、自らは心臓病に苦しめられる、といった未来が待っていた。まるで自らの行く末を予見したような作品となってしまった。
 もちろん、これは偶然であって先行した作品と実生活を結びつけるのは間違っている。「第6番」は絶対的な悲劇を描いた、今までにない“新しい交響曲”との出会い、として聴けばいいのだろう。

 形は古典的な4楽章。短調交響曲として開始楽章と終楽章に短調を据えたのは、これも定型である。しかし、中間楽章は今もって演奏順の議論が続いている。アンダンテ→スケルツォとするか、スケルツォ→アンダンテとするか、である。
 交響曲の構造からいえば、先にアンダンテを置けばより古典派的に、スケルツォが先となるとロマン派的な雰囲気を帯びることになるだろう。聴き手の心理からすると、アンダンテは前の楽章を受け沈静した感情に満たされたところで一旦小休止の気分になる。対してスケルツォはその過激な挙動が次の楽章にエネルギーを補給し、推進力を強めて行く役目を負う。
 だから、アンダンテからスケルツォの順で演奏すると、アンダンテが1楽章の闘争や愛を、牧歌的な癒しや安息でもって受け止め一旦落ち着くものの、次のスケルツォの不安定さや異様さが、悲劇の終楽章と連続することによって楽曲全体に強い悲劇性を刻み込む。
 一方、スケルツォからアンダンテの順では、第1・2楽章の激情や諧謔をアンダンテが中和し、再生あるいは救いの可能性を示唆して終わる。もっとも、終楽章の悲劇性は変わらないから緊張感は高まるのだけど、アンダンテによる救済がより強く感じられるように思う。
 今回の演奏は、最新のラインホルト・クービク校訂によるマーラーが生前に指揮した演奏順序を根拠とするアンダンテ→スケルツォを採用していた。

 交響曲は暗から明へ、闘争から勝利へ、というのが従来の定型で、終楽章が悲劇のまま終わる交響曲は、モーツァルトの「第40番」以外にあっただろうか。マーラーだって「第5番」までの交響曲においては、多楽章を試みたり、声楽を導入したりして“新しい交響曲”を目指してはいるけど、終楽章を悲劇として書くことはなかった。
 マーラーの終楽章は「第6番」のあと「第7番」で乱痴気騒ぎの破天荒なものとなり、その流れはショスタコーヴィチへそのまま受け継がれ、音楽が音楽から最も遠い政治とさえ拮抗することになる。

 「第6番」の異形は楽器編成にもある。4管編成が基本ながら終楽章は5管編成に拡大し、トランペットが6本に増える。そして、なにより打楽器が前代未聞の破壊力を示す。「第4番」で鈴は使ったけど、ここでは、カウベル、ムチ、鐘、木のおもちゃなど一般生活のなかで音が出るものを総動員したという感じで、究極は木製のハンマーまで登場させる。ハンマーは楽曲にドラマ性を付与するための象徴だろうが、当初は5回叩いたという。現在では2回か3回打ち下ろされる。
 今回の打撃は2回。舞台後方の中央、ティンパニの横に台座が置かれていて、大柄で丸坊主の首席のジョエル・ビードリッツキーがハンマーを打ち下ろした。視覚的にも迫力満点だった。
 配られた名フィルのメンバー表によるとカタカナ書きの団員が4、5人いる。国際色豊かである。首都圏のオケにおいても神奈川フィルや新日フィルなどは演目別に出演者一覧を配布してくれる。こういったサービスはオーケストラを身近に感じることができるのではないか。他のオケにも広がっていくと良い。

 マーラーはロットと誓い合ったように、二人して“新しい交響曲”の創始者たらんとした。
 この「第6番」では形式は厳密に古典を踏襲しながら――という意味では2、3楽章はアンダンテ→スケルツォ(メヌエット)の順が相応しいと個人的には考えるが――その中身はオケとしての限界を極めた楽器編成や、大胆な鳴り物の採用、発想を転換した楽章の性格付けなど、斬新なアイデアが詰まっている。
 “新しい交響曲”という問いに対するマーラーとしての一応の最終回答がこの「第6番」だと思う。

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