ドリーム・ホース ― 2023年02月01日 14:23
『ドリーム・ホース』
原題:Dream Horse
製作:2020年 イギリス
監督:ユーロス・リン
脚本:ニール・マッケイ
音楽:ベンジャミン・ウッドゲーツ
出演:トニ・コレット、オーウェン・ティール、
ダミアン・ルイス
動物映画にハズレがないとは良く言ったもので、この作品も心地よい感動を呼ぶ。
グレートブリテン島南西部、ウェールズの小さな町に住む主婦ジャン(トニ・コレット)は、無気力な夫ブライアン(オーウェン・ティール)との二人暮らし。バーとスーパーマーケットのパートを掛け持ちしながら、両親の介護に追われている。
ある日、勤めているバーで会計士のハワード(ダミアン・ルイス)から馬主をしていたという体験談を聞く。ジャンは味気ない日常からの脱出をめざして一念発起、競走馬について独学で勉強し、貯金をはたいて牝馬を購入、有望な血統の種馬を見つけ交配させる。
しかし、自分の収入だけで競走馬を育てることは難しい。町の人達に向け出資を募る。ジャンの熱意に感化された人々は、週に10ポンドずつ出しあって組合馬主になる。組合設立の会合で「儲けではなく欲しいのは胸の高鳴りだ」、と皆は言う。ジャンは仔馬をレースに出場させるという夢があって毎日が輝いてくる。20人の共同馬主たちも胸のときめきを隠せず、平凡な日々の生活が徐々に変わっていく。
トニ・コレットは、ありきたりの中年主婦が目標に向かって邁進していく姿を好演。オーウェン・ティールも駄目亭主ながら包容力を秘め、いつも女房の味方となって憎めない。ダミアン・ルイスは馬好きの正義感あふれる人物を鮮やかに演じる。組合馬主たちも一人ひとりが個性的で、彼等の喜怒哀楽が画面いっぱいに広がる。
ドリーム・アライアンス(夢の同盟)と名付けられた仔馬は、ジャンたちの愛情を受けて成長する。仔馬の大きな優しい瞳と甘える仕草が途轍もなく可愛い。そして、ジャンの行動力によって、一級の調教師にも面倒をみてもらえることになった。
逞しく育った仔馬は、障害レースで着実に成績を残していく。カメラは躍動感たっぷりの走りと、迫力あふれるレースの光景を様々な角度から臨場感豊かに捉え、観る者を興奮させる。
映画の終盤ともなると、ドリーム・アライアンスは、もはや映画の中にとどまらず、映画の観客すべての競走馬となる。レースで足の腱を故障するというアクシデントを乗り越え、1年半ぶりに再びレースへ復帰する。それはウェールズにおける最高峰の障害レース「ウェルシュナショナル」の舞台である。映画の観客たちは手に汗握り、息をのみ、懸命に応援することになる。
絵に描いたようなサクセス・ストーリーだが、実話に基づいているという。馬主なんぞ富裕な人々の楽しみのはずで、その世界に平民階級の人馬が勝負をいどみ奇跡を起こす。うらぶれたウェールズの片田舎の町にも活気が満ち溢れてくる。爽快な大団円である。
音楽はベンジャミン・ウッドゲーツ。素朴な音楽と荘厳な音楽とを対比させ、レース場では馬たちの疾走感をいやがうえにも盛り上げる手腕が素晴らしい。加えて「ウェルシュナショナル」の開会式で、南ウェールズ出身のメゾソプラノ、キャサリン・ジェンキンスが歌うウェールズ国歌が胸熱だ。
エンドロールでは、映画のモデルとなった本人たちも登場し、出演者と肩を並べ、キャストを含め、やはり南ウェールズ出身のトム・ジョーンズの「デライラ」を合唱するというキュートな映像が流れる。誰しもが幸せな気分になれる一作である。
モリコーネ 映画が恋した音楽家 ― 2023年02月02日 16:51
『モリコーネ 映画が恋した音楽家』
原題:Ennio
製作:2021年 イタリア
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
出演:エンニオ・モリコーネ、
クリント・イーストウッド、
クエンティン・タランティーノ
エンニオ・モリコーネといえば、何といったってマカロニ・ウエスタンだ。その音楽なら今だって口笛で吹ける。『荒野の用心棒』か『夕陽のガンマン』か『続・――』か、どれであったか区別はつかないが、幾つかのメロディを思い起こすことができる。そして、その旋律と一緒にクリント・イーストウッドやリー・ヴァン・クリーフ、フランコ・ネロやジュリアーノ・ジェンマの雄姿が目に浮かぶ。そのくらい音楽と映画とが切り離せなくなっている。
少し若い年代となれば『ニュー・シネマ・パラダイス』や『海の上のピアニスト』の音楽かも知れない。もちろん、後年これらを鑑賞してはいるけど、われわれ世代にとってエンニオ・モリコーネとは、頑としてマカロニ・ウエスタンの作曲家として在る。
サンタ・チェチーリア音楽院で作曲技法を学んだモリコーネは、「映画音楽を作ることを、当初は屈辱だと感じていた」と語る。当時は「偉大なのはクラシックであり、映画音楽など邪道」という考え方が支配的だったのだろう。
しかし、これはおかしくないか?
今われわれが聴いているクラシック、とりわけ管弦楽や声楽曲のほとんどは、18世紀から19世紀の音楽であり、作曲家でいえばバッハからR.シュトラウス、プッチーニまでの作品だ。クラシックとは20世紀に入ってすぐの第一次大戦を境にして終わってしまった音楽だといってよい。R.シュトラウスやプッチーニは、20世紀になってからも多くの曲を書いたが、その技法の基本は19世紀のものだ。
西洋音楽の三要素を失った20世紀音楽は、100年の寿命さえ保てなかった。両大戦の間は過渡期としても、第二次大戦後の音楽で後世まで残るのは、せいぜいショスタコーヴィチ、ブリテン、メシアンくらいだろう。
では、R.シュトラウスやプッチーニの旋律、和声、管弦楽法はどうなったのか?
映画音楽とポピュラー音楽とに引き継がれたと思う。これらの作品は音楽メディアの発展とともに大衆化を伴いながら大きく広がっていった。とくに大規模な管弦楽曲は、映画音楽が担うようになった。同じイタリアにニーノ・ロータがいる。フランスではモーリス・ジャールやフランシス・レイ、アメリカにはコルンゴルト、バーンスタイン、ヘンリー・マンシーニ、ジョン・ウイリアムズなど数えきれない。わが国では伊福部昭や早坂文雄などに代表される。
プロオケの演奏会においても、ここのところ久石譲、すぎやまこういち、菅野祐悟など劇伴音楽を書く作家が登場する。映画、演劇、TVドラマ、ゲームなどの音楽は、感情の重層性、構造の複雑性、意味の多義性といったものを多少犠牲にしているかもしれないが、確実に劇世界を表現するための重要な要素となっている。こういった音楽のなかの最良のものが、これから先、生き残って行くのではないかと。
エンニオ・モリコーネは、生涯で500作以上の映画音楽を作曲したというのに、たえず映画音楽から離れたいと発言していたらしい。しかし、晩年には「映画音楽も本格的な音楽だと考え直すようになった」「絶対音楽と映画音楽が共生していく感覚がある」と考えるようになったという。まさしくその通りだろう。
『モリコーネ 映画が恋した音楽家』は、エンニオ・モリコーネの幼少から晩年までを、モリコーネ本人へのインタビューと、映画監督や俳優、作曲家や歌手など、多くの人々の証言で描きながら、モリコーネが映画音楽にもたらした革新や画期的な手法、斬新なアイデアなどをあますことなく紹介してくれる。
長期にわたる取材を敢行したのは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督、2時間半に及ぶ労作である。
2023/2/4 カシオペイアSQ 「死と乙女」「ハイドンセット第2番」 ― 2023年02月04日 19:28
かなっくクラシック音楽部 フロイデコンサート
日時:2023年2月4日(土) 14:00開演
会場:かなっくホール
出演:カシオペイア・クァルテット
ヴァイオリン/渡辺 美穂
ヴァイオリン/ビルマン 聡平
ヴィオラ/村松 龍
チェロ/弘田 徹
演目:シューベルト/弦楽四重奏曲 第14番ニ短調
「死と乙女」D.810
モーツァルト/弦楽四重奏曲のためのアダージョと
フーガ ハ短調 K.546
モーツァルト/弦楽四重奏曲 第15番ニ短調 K.421
先月に続いて東神奈川駅へ。プログラムの3曲はいずれも短調で書かれた弦楽四重奏曲、真冬に似つかわしい作品ということか。
演奏するカシオペイアSQは、かなっくホール専属の弦楽四重奏団。Vn1の渡辺さんは元大阪フィルのコンマス、Vn2の聡平さんとVcの弘田さんは新日フィルのメンバー、Vaの村松さんはN響団員である。
1曲目は、シューベルトの「弦楽四重奏曲 第14番」ニ短調、「死と乙女」の標題で有名。シューベルト27歳、不治の病を発病した頃、困窮した生活のなかで作曲されたという。
第1楽章、冒頭の主題は運命動機のよう。主題が徹底的に彫琢される様子もベートーヴェンに学んだ構築性を感じる。そのなかにシューベルトの歌が顔を出し、シューベルトらしい目まぐるしい転調を繰り返す。第2楽章は変奏曲、主題は歌曲「死と乙女」のピアノ前奏からの引用、5つの変奏とコーダで構成される。悲しみをたたえた主題が静かに始まる、弘田さんのチェロのピチカートのうえを渡辺さんのヴァイオリンが繊細に歌う。聡平さんと村松さんの内声部が3連符で応える。主役がチェロに移って豊かな調べを奏で、全員で悲しみに抗うような力強いリズムを刻む。変奏を重ねるごとに痛切の度合が増して行く。もうこれはシューベルトしか書けない音楽。3楽章はスケルツオ、過激な舞曲、トリオではカシオペイアSQが柔らかく美しく歌う。しかし、優しさは一瞬、ふたたび激しい舞曲が戻ってくる。4楽章はプレスト、オクターブのユニゾンで始まる。執拗なリズムが疾走する。後半、コラールのように光が差し込み、高揚したあとテンポを速め力強く終わった。
休憩後、モーツァルトの「アダージョとフーガ」。
ゆったりとした速度で、悲劇性と静けさとが交叉するアダージョが不安な音色をおびる。続く規則的なフーガの動きは、救い主が現れたように感じる。無駄な音がひとつもない。楽器間の音の受け渡し、楽器の重ね合わせに無理がない。不思議な曲である。
3曲目は、モーツァルトの「弦楽四重奏曲 第15番」、「ハイドンセット」と呼ばれる6曲のうちの2番目。「死と乙女」との組み合わせは意図をもっての選曲だろう、同じニ短調、そして、同じ27歳、シューベルトは2楽章に、モーツァルトは最終楽章に変奏曲をおいた。
この曲の演奏前に、カシオペイアSQを牽引する弘田さんから話があった。彼によれば、「短調ばかりの曲を企画したが、最後は長調で終えたかったからK.421を選んだ」と、あっけない一言。
第1楽章、ひっそりとした第1主題が歌われ、長調の第2主題が出てくるが不安気なまま、メランコリックでほの暗い諦念を感じる。第2楽章、長調が支配するものの中間部は短調となり、慟哭するような激しい表情をみせる。第3楽章、メヌエットでありながら沈み込むよう。トリオはピチカートの伴奏にのってヴァイオリンが飛翔する。重い雰囲気のこの曲に一瞬の安らぎが訪れる。第4楽章、シチリアーナ風に始まる4つの変奏曲。次々と装飾が施され盛り上がって行く。後半,ちょっと気分が変わって飛び跳ねるような曲想となり、最後は、ほんの少しだけ明るさを見せるように、弘田さんが言う長調の主和音に転調して全曲が閉じられた。
カシオペイアSQのアンコール曲は、念押しのように、短調に対する長調。16歳のモーツァルト「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」の第1楽章を選んでくれた。
東響のコンマス水谷晃が退団 ― 2023年02月08日 19:06
東京交響楽団コンサートマスターの水谷晃さんが、この3月末で退団する。契約期間満了のためだという。残念だが致し方ない。
https://tokyosymphony.jp/pc/news/news_5181.html
水谷さんは、2013年4月に東響のコンサートマスターに就任し、スダーンからノットの時代を10年にわたり率い、数々の名演に貢献すること大であった。
最近では「サロメ」における獅子奮迅ぶりが目に浮かぶ。それと忘れられないのは、一昨年の水谷さんがリードした指揮者なしの演奏会、演目はロッシーニとメンデルスゾーン。指揮者ジェルメッティが来日不能となり、結局、指揮者なしで開催。東響の驚異的な合奏能力とスリリングな演奏が強く印象に残っている。
水谷さんは、退任にあたってのコメントで「今後は…長年あたためていたことを実行に移していくことで、音楽を更に探究してまいります」と。彼のますますの活躍に期待したい。
2023/2/11 下野竜也×神奈川フィル ブルックナー「交響曲第6番」 ― 2023年02月11日 22:09
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会第383回
日時:2023年2月11日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:下野 竜也
共演:ピアノ/野田 清隆
演目:尾高惇忠/ピアノ協奏曲
ブルックナー/交響曲第6番イ長調WAB.106
下野と神奈川フィルの組み合わせを聴くのは初めて。下野のブルックナーは、昨年読響を振った「第5番」以来2度目。このときのブルックナーは、誠実ではあってもちょっと真面目すぎたかな、との印象だったが…
ブルックナーの前に尾高惇忠の「ピアノ協奏曲」。
尾高惇忠は指揮者忠明のお兄さん。一昨年、惜しくも逝去された。「ピアノ協奏曲」は日本フィルハーモニー交響楽団の委嘱作品で、2016年5月に今回と同じ野田清隆のソロ、広上淳一の指揮で初演されている。
この初演をサントリーホールで聴いている。「未完成」と「運命」との間に挟まれて演奏された。面妖なことに有名な2曲は何から何まで忘れてしまったけど、ゲンダイ音楽であるこの「ピアノ協奏曲」はぼんやりと覚えている。
演奏前に尾高惇忠と広上淳一とのプレトークがあって、これがなかなか面白かったということもある。広上は高校時代に尾高惇忠に弟子入りしており、二人してその思い出話などを話してくれた。ピアノの野田清隆を含めて3人は湘南学園高校の先輩、後輩の関係だという。
尾高惇忠のほかの作品を知っているわけではないが、「ピアノ協奏曲」はゲンダイ音楽という能書きは横におき、シンプルで活気あふれる曲として記憶にある。
野田さんの水滴の落ちるような3つの音が、だんだんと展開され発展していく。オケの炸裂とピアノの軽やかな身のこなし。緩徐楽章はピアノとクラリネットとの対話から始まり、静かにオケが歌う。カンデンツアも印象的。最終楽章は、強烈なリズム、同型反復のオケのうえをピアノが駆け抜ける。オスティナートによる逞しい推進力。
野田さんは生命力に満ちた音楽を聴かせてくれた。下野×神奈川フィルも好サポート。2度目とあって、おぼろげな記憶を上書きすることができた。
ソリストアンコールは、尾高惇忠のピアノ曲「音の海から」の第9曲「春の足音」。
ブルックナーの「交響曲第6番」は、以前はなかなか生演奏に出会えなかった。曲自体の評価も思わしくなく、たとえば、宇野功芳は「規模といい、内容といい、初期の交響曲の延長線上にあり…」なんて書いていた(『モーツァルトとブルックナー』249頁、帰徳書房)。
ところが、近年はプロばかりでなくアマオケでも取り上げるようになってきている。大昔から「6番」を、「9番」とともにカイルベルトの2枚の音盤で愛聴していた人間からすると、演奏機会が増えるのは喜ばしいかぎりだ。
下野のブルックナーは、やはり丁寧なつくりで各声部をきっちり歌わせ細部までないがしろにしない。とくに弦が大音量の中でもマスクされることなく明晰に聴こえてくるのは最大の美点だ。ホールが味方しているとはいえ、今日の神奈川フィルは12型で決して大編成とはいえない。立派なものである。もっとも、丁寧である分、音楽の足取りは少々重い。演奏時間は、楽章間の休みを考慮しても全体でほぼ1時間かかった。
ブルックナーは曲の長大さ、重厚な響き、全休止の多用、そして彼自身の体型や偏執狂的なふるまいのせいもあってか、ゴツゴツとした重々しい演奏がブルックナーらしいと思われている。たしかに曲によってはそうかも知れない。
しかし、実際のブルックナーは即興が達者なオルガニストである。そのことが作品に反映しないわけがない。とりわけ全休止がスケルツォの章でしかみられない「第6番」は、流れるような楽想と即興性に満ち溢れている。もっと軽快で弾むような演奏を望んでいた聴衆からすると少々期待外れ。
神奈川フィルのコンマスは石田さん、Vn2には直江、小宮のツートップ、弦は低弦を含め大健闘。第1楽章の第2主題、抒情的で音が跳躍するあたり「第9番」を予感させた。緩徐楽章の柔和な哀感、ヴァイオリンとチェロによる対位法的な旋律も聴かせ処だった。
フルートには契約団員の瀧本さん、オーボエ古山、クラリネット斎藤は不動、ファゴットは鈴木、石井の両首席。これも第1楽章、第3主題の金管のあと移行句の木管群は、寂寥感もあり、いかにもブルックナーらしい音楽を堪能させてもらった。
ホルンはトップが坂東、アシストが豊田という盤石な体制。第1楽章冒頭から好調で、第3楽章のトリオの重奏も見事決まった。トランペットは林、三澤の両人が座った、トロンボーンはいつものように府川首席。第4楽章、序奏のあと快活で情熱的なファンファーレ風な音楽に耳を奪われる、コーダの金管群の高揚感も全曲の締めに貢献した。
いままで「交響曲第6番」は、人気の「第4番」に続く重量級の「第5番」と、後期の3つの大作に挟まれて、なかなか人気がなく評価もされなかった曲だが、ブルックナー中期の傑作であることは間違いない、と今日の演奏でも改めて思った。