2022年の演奏会のまとめ2022年12月27日 12:04



 今年通った演奏会は63回、目標として月2程度、年間20~30公演を目処にしていたのに、昨年より20回も増えてしまった。身体への負担が大きい夜公演は減らしたものの、今まであまり聴いて来なかった室内楽が増加したことや、歌劇に復帰、音大オケやアマオケへの興味などがその原因だろう。
 室内楽や音大オケ・アマオケはそれぞれ10公演以上、歌劇も演奏会形式や抜粋版を含めると5公演を数える。これで30公演弱であるからプロオケの定期演奏会等は、30公演強ということになる。首都圏のプロオケはほぼ満遍なく聴いたけど、嗜好がはっきりしている。東響が2桁、神奈川フィルとシティフィルが5,6回、新日フィル、日フィル、読響がそれぞれ3回程度、都響、東フィル、N響は1,2回といった具合である。

 さて、今年のベストコンサートは、やはり、東響の特別公演である歌劇「サロメ」(演奏会形式)をまず第一にあげたい。
 ジョナサン・ノットのダイナミックな指揮に反応した東響の見事な演奏と、題名役のアスミク・グリゴリアンの桁外れの歌唱に魅了された。
 グリゴリアンは無邪気さと妖艶さを併せ持つ難しい役柄を、これ以上ない存在感で演じ、歌い切った。声が強靭かつしなやかで鞭のよう。容姿も美しい。当代一のサロメという看板に偽りはなかった。とくに第3場の終盤ヨカナーンとの息を飲むようなやりとり、第4場のヘロデにヨカナーンの首を所望する歌とも台詞ともいえない迫真の歌唱、劇の大詰めヨカナーンの首を持ち歌うクライマックスなど、グリゴリアンの独壇場。背筋が凍るほどだった。
 それと、ノットの要求にしたがった東響が、音色、緩急、ダイナミックスを駆使し、R.シュトラウスの音楽を色彩豊かに余すことなく描いた。第4場の「七つのヴェールの踊り」は、すべての歌手を舞台から下げ、管弦楽のみにスポットを当てた。そのスピード、飛び跳ねるような音、キレのいいリズムなど、爆発力は驚異的で、過去聴いた「七つのヴェールの踊り」をはるかに凌ぐ出来栄えだった。
 来年5月、R.シュトラウスのコンサートオペラ第2弾「エレクトラ」の成功は、約束されたようなものだろう。

 思うに、歌劇は演奏会形式で十分ではないか。ここのところ演出家主導の訳のわからない読み替え上演によって音楽は棄損されるばかり。独りよがりの演出家の解釈を押し付けられるくらいなら、むしろ演奏会形式のほうがずっと好ましい。今回はトーマス・アレンの演出監修で、わずかな小道具を用い、ほとんど舞台前面の狭い場所を使って歌手をコントロールした。全く音楽の邪魔にならなかった。
 もっとも、今年、藤原歌劇団の「コジ・ファン・トゥッテ」と、二期会の「蝶々夫人」を日生と新国立で観たが、「コジ・ファン・トゥッテ」の岩田達宗、「蝶々夫人」の栗山昌良の演出は、共に至極まともで十分楽しめたことを急いで付け加えておく。もちろん、川瀬賢太郎×新日フィルとバッティストーニ×東フィルがつくりだした、モーツァルトとプッチーニの活きのいい音楽があったればこそだけど。
 新たなオペラハウスの建設や、東京文化会館やオーチャードホール等での無理なピットの設営など必要ない。普通のコンサートホールにおいて、座席の前3列くらいを畳んで舞台を広げられる設計にさえすれば、演奏会形式の歌劇をもっと伸びやかな発想のもとで、気持ちよく開催できるのではないかと思う。

 ジョナサン・ノット×東響は、ほかにベートーヴェン、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ウォルトンなどを聴いた。ノットの指揮する演奏は、聴き手に訴えかけてくる力が作曲家によってかなり違う。演奏の記憶が残る作曲家と、あとあと演奏の輪郭さえ覚束ない作曲家に分かれてしまう。このあたりは、たんなる老化に伴う記憶力低下の所為かも知れないし、全くの個人的な受け止め方だから与太話に近い。でも、ベートーヴェンやマーラー、ショスタコーヴィチなどの演奏は、ほとんど思い出すことができない一方で、モーツァルトやブルックナー、R.シュトラウスなどは、すべての曲ではないにせよ、細部まで鮮明に蘇らせることが出来る場合がある。どうしてだろう。
 ここから先は、さらにとりとめのない馬鹿話である。ベートーヴェンなどは音楽によって自分自身を主張する。思想を音楽に託し自らの世界を創りだそうとしたのだろう。モーツァルトなどは研ぎ澄ました感覚でもって音楽を表出する。感受性のおもむくまま音楽はおのずから世界をみせてくれるだろうと。いってみれば悩める思索者たちと無垢な観察者たちとの違い。作品が指向する構築性と即興性の違い。具体的なことは何ひとつ言及できないけど、ベートーヴェン以下の音楽には、時間の経過とともに音の重さが堆積していく必要があり、モーツァルト以下の音楽には、時間に束縛されないある種の軽さが必然となるのではないか。そんなふうに思う。
 ノットは頭脳明晰で理論家でもあるらしいが、畢竟、感性の人だろう。

 「サロメ」に続くベストコンサートは、クラウス・マケラ×都響の「レニングラード」。
 戦争の悲惨と恐怖、鎮魂と祈りを描き、荒々しさと静謐さとが同居する曲の真の姿をみせてくれた。それ以上に、若きマケラの抜群の統率力と、献身的な都響の演奏に身震いするほど感動した。
 ショスタコーヴィチといえば沼尻竜典×神奈川フィルの「交響曲第8番」も、冷静沈着でありながら凄まじい演奏だった。邦人指揮者が振った「8番」は高関健、井上道義と聴いてきた。いずれも緊迫感を内に包んだ好演であったが、演奏の凝縮度からいえば沼尻が一頭地抜けていた。沼尻は以前東響との「11番」で張り詰めた極めて描写的な演奏を披露して唸らせた。神奈川フィルとはショスタコーヴィチのチクルスを計画しているようで、来年は「レニングラード」を振る。大いに期待したい。
 ラザレフの代役を務めた広上淳一×日フィルの「交響曲第5番」にも感心した。人々を熱狂させることが目的とみられがちな手垢のついたこの曲を、もの静かに怒りを抑圧したような演奏で応え、ショスタコーヴィチの冷笑をみる思いがした。公演前半のベルキン独奏のプロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第2番」は、一陣の風に弄られたような気持ちよい名演、中身の濃い演奏会だった。

 藤岡幸夫×東響のフォーレ「レクイエム」もベストコンサートの一翼を担う。
 ジョン・ラターが校訂した小編成版は初めての体験だった。東響が奏でる低音楽器のアンサンブルとオルガンをバックに、ソプラノの砂川涼子、バリトンの与那城敬、合唱の東響コーラスといった声楽陣の大健闘もあって、フォーレ「レクイエム」の真価を知った。教会の中ではないかと錯覚し、思わずホールを見渡した。はるか遠くの世界へ連れて行かれたといっていい。
 藤岡については、シティフィルの定期公演におけるR.V.ウィリアムズの「田園交響曲」や、サマーミューザへ持ってきた「ローマの松」などの収穫もあった。そうそう、これは際物に近いのかも知れないが、田部京子をソリストにしたシューベルト=吉松隆(編曲)の「ピアノ協奏曲」も興味深く聴いた。藤岡は注目すべき指揮者の一人である。
 声楽を含む曲では、幸運にも復活祭の「マタイ受難曲」を聴くことができた。鈴木雅明×BCJの演奏は、さすが静と動を鮮やかに使い分け、イエスの最期を劇的に描いた。エヴァンゲリストのトマス・ホッブスやイエスの加耒徹は、ともに記憶に留めるべき歌手であり、戦争の時代における「マタイ」の痛切な歌唱が、特別な感慨を伴って聴こえて来たのは当然のことだろう。

 以下は、そのほか印象に残った演奏会を、思いつくまま幾つか。
 東響の前監督ユベール・スダーンは、今年のはじめ、来日不能となった指揮者に代わり、急遽サン=サーンスの「オルガン付き」と「チェロ協奏曲」を振った。歳を重ねても熱量は豊富で、推進力が際立つ。それなのに、音楽の緻密さといったら他に比べようがない。自ら10年と決めた音楽監督を降りたいまも、東響との信頼関係は続いているようで胸が熱くなる。協奏曲のチェリストは、BCJのメンバーでもある上村文乃がユリア・ハーゲンの代役を務めた。力強い音で情感たっぷりに良く歌った。上村は4月の「マタイ受難曲」ではバロック・チェロを弾いていた。その後、7月には4年に1度開催されるインディアナポリス国際バロック・コンクールで優勝した。
 川瀬賢太郎の演奏会も粒ぞろいだった。神奈川フィルの常任指揮者退任公演の「巨人」、藤原歌劇団・新日フィルとの「コジ」、東響を指揮した「幻想交響曲」、OEKを率いた「スコットランド」など、相変わらず切れ味鋭く熱のこもった演奏だ。絶好調である。OEKの公演では、先月、ロン=ティボー国際音楽コンクールで優勝した亀井聖矢が同行して、ショパンの「ピアノ協奏曲」を弾いた。彼の繊細で輝かしい音が耳に残っている。今振り返るとちょっと得をした気分である。
 小泉和裕×神奈川フィルとマルクス・シュテンツ×新日フィルの「エロイカ」にも満足した。小泉の音楽は毅然として歩み、少しずつ骨格があらわれ、そのうち堅牢な建造物が立ち上がってくる。あらためて感嘆した。シュテンツの音楽はうねり躍動する、その運転ぶりがエキセントリックで驚かされることがあるけど、構造計算に抜かりはない。解釈に違いがあっても、いずれもベートーヴェンらしいずっしりとした重量の感じられる演奏だった。

 音大オケでは、広上淳一×東京音大の公演が圧倒的。「第九」「火の鳥」「死と変容」と、どれをとっても納得させられる。大げさな指揮ぶりに惑わされなければ、上手な語り口で物語を聴かされたように得心がいく。秋山和慶×洗足学園の安定度にも感心する。若い音楽家を相手に思いもかけず激しさが噴出することがあって微笑ましい。梅田俊明×昭和音大は魅力的なブラームスを聴かせてくれた。
 アマチュアオーケストのなかでは、みなとみらい21交響楽団が、浅い歴史にかかわらず、無謀な企画先行型で突っ走っており、難曲に挑戦している。今年は2月にマーラーの「交響曲第7番」、8月に「オルガン付き」と「家庭交響曲」を組み合わせた。ミューザのパイプオルガンもプロに頼らず団員が演奏するという徹底ぶり、それがまたビックリするほど上手。各楽器の演奏水準も総じて高い。来年以降も引き続き聴いて行きたい。

 月に1度くらいの頻度で聴いた室内楽は、「横浜18区コンサート」や「音楽史の旅」「神奈川フィルブランチハーモニー」といったシリーズものの中から選ぶことが多かった。
 「横浜18区コンサート」は、普段は管弦楽を伴奏とする協奏曲を、ソリストとオケメンバーの弦楽五重奏団が共演するという趣向。曲目はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲4番」、モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」、シューマンの「ピアノ協奏曲」など。独奏者である広瀬悦子、毛利文香&田原綾子、河村尚子の3公演とも、ことごとく新鮮で喜びに満ちたものだった。
 「音楽史の旅」は、4月から3月までの年度企画。バッハとシューベルトの特集。1時間の限られた枠ながら「ゴルドベルク変奏曲」や「ピアノソナタ第21番」という大曲を取り上げるという意欲的な演奏会。これがまた大きな感動を呼ぶものだった。このあと、年度末には室内オケの「グレイト」が予定されている。
 「神奈川フィルブランチハーモニー」は、オーケストラの各楽器に焦点をあて、小品を集めた理屈抜きに楽しい催し。なかでも石田泰尚が登場したヴァイオリン・リサイタルは、ベートーヴェン、クライスラー、ピアソラを並べた熱狂の時間だった。
 シリーズ物以外では、葵トリオのコンサートに興奮した。モーツァルトとシューベルトの三重奏が美しいのは当然だが、リームの曲(見知らぬ土地の情景Ⅲ)が完璧のアンサンブルによって、こんなにも音楽らしく聴こえてきたことに驚愕した。
 これら室内楽の演奏会は、ひとまとめにして年間ベストコンサートの中へ入れておきたい。昼の小ホールで聴く音楽会は、親密で心地よく快適で幸せな時間を提供してくれる。来年も楽しみにしたい。

 ともかく、演奏会通いを減らそうと思っている。しかし、東響、神奈川フィルの会員を継続し、新日フィルの定期に復帰、フェスタミューザ、音大フェスティバルといったところは欠かせない。そのうえ、ミューザの「モーツァルトマチネ」が、来年度から本来のプログラムに戻り、指揮者も梅田俊明、ユベール・スダーン、ポール・メイエ、鈴木秀美と魅力的で、連続券を求めようかと思案中。大きく減少させるのは難しい。
 せめて、今年を上回らないように注意したい。でも、演奏会に足を運ぶことが出来るのは、身体と心の調子がマトモであればこそ。減らすことを目標にするにせよ、演奏会通いが可能な心身に、先ずもって感謝しておこう。