2025/3/29 沼尻竜典×音大FO 武満「系図」とショスタコーヴィチ「交響曲第4番」2025年03月29日 22:20



第14回 音楽大学フェスティバル・オーケストラ

日時:2025年3月29日(土) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:沼尻 竜典
共演:語り/井上 悠里
   アコーディオン/大田 智美
演目:武満徹/系図―若い人たちのための音楽詩―
   ショスタコーヴィチ/交響曲第4番ハ短調


 年度末のこの時期は音大フェスティバル・オーケストラの演奏会、首都圏の8つの音大の選抜メンバーで構成されるオケである。各音大が競演する年末の「音楽大学オーケストラ・フェスティバル」の特別編で、今年度は沼尻竜典が振る。

 武満徹の「系図」は昨年、佐渡裕×新日フィルで聴いた。谷川俊太郎の詩集に基づく「むかしむかし」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おとうさん」「おかあさん」「とおく」の6曲。
 思春期を迎えた子供の視点による谷川の言葉は、時としてどきっとするほど冷徹なところがあるが、沼尻と学生たちがつくった武満はあたたかい。
 武満にしては分かりやすい旋律があって調性的な響きが好ましい。日本的な情緒を感じさせる。この作品はこの先も演奏を重ねていくような気がする。
 「とおく」におけるアコーディオンの響はいつ聴いても効果的で印象深い。語りはオーディションで選ばれた東京音楽大学付属高等学校の井上悠里。透明感のある最適の語り部だった。

 ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」は戦前に作曲されていながら、25年もの間封印され、初演は1961年まで待たねばならなかった。日本初演はさらに25年を経た1986年の芥川也寸志×新響だという。
 この「第4番」、たとえ音楽とはいえ、やりたい放題、これだけ好き勝手に作曲されては、当局としては決して許すことはできない。音楽の自由は音楽の中だけに留まらないから。
 「音楽でなく荒唐無稽」との批判のさなか、これこそ荒唐無稽な作品、虚仮にされたと思うであろう。相手はスターリンである。封印しなければ命さえ奪われていたかも知れない。剣呑な曲である。名誉回復となった「第5番」と比べてみればその異形は言うまでもない。
 音大FOは凄まじい集中力で全員が全力疾走。しかも沼尻の明晰な指揮のもと、なかには笑みを浮かべていた奏者もいたから、手ごたえも十分だったのだろう。
 沼尻は第1楽章の展開部のフガートを駆け抜け、「第5番」の主題が登場するスケルツォをシニカルに決め、終楽章のワルツやギャロップなど真面目と皮肉を織り交ぜ、ショスタコーヴィチの最もモダンで先鋭的で破天荒な交響曲を熱量高く聴かせてくれた。
 
 「第4番」を初めて実演で聴いたのはバルシャイ×名フィルだった。このライブは精緻にして壮絶を極め、終演後、座席から立ち上がれないほどの衝撃を受けていた。バルシャイ×ケルン放送響によるブリリアントのBOXを買ったのは実演の前だったか後だったか。
 名フィルのアーカイブをみると公演日は2004年12月15日だから、もう20年以上も前になる。ちなみにこのとき戸田弥生のベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」が一緒にプログラムされていたとのこと、こちらは全く記憶にない。
 その後「第4番」は、ラザレフ、リットン、ゲルギエフ、ウルバンスキ、ノットと聴いて来たが、どういうわけか井上道義を聴き逃している。「第4番」をレパートリーとしている邦人指揮者は数えるほどだろう。沼尻竜典のショスタコーヴィチは神奈川フィルとの「第12番」が来月控えている。

2024/11/23 音大オケ・フェス 昭和音大・藝大・桐朋学園2024年11月23日 21:27



第15回音楽大学オーケストラ・フェスティバル2024
    昭和音大・藝大・桐朋学園

日時:2024年11月23日(土) 15:00 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
出演:昭和音楽大学(指揮/時任康文)
   東京藝術大学(指揮/下野竜也)
   桐朋学園大学(指揮/沼尻竜典)
         (チェロ/上野 通明)
         (ヴィオラ/田原 綾子)
演目:バルトーク/管弦楽のための協奏曲(昭和)
   三善晃/焉歌・波摘み(藝大)
   ベートーヴェン/「レオノーレ 第2番」(藝大)
   R.シュトラウス/「ドン・キホーテ」(桐朋)


 首都圏の音楽大学によるオーケスト・フェスティバルの季節がやってきた。今年で第15回となる。昨年、上野学園が新規の学生募集を停止したことから1校減った。今年も昨年同様8大学の参加である。
 また、従来はミューザ川崎と東京芸術劇場で各2公演、4日間の開催であったが、今年は芸術劇場が改修工事で休館のため、ミューザ川崎で2公演、すみだトリフォニーホールで1公演の計3日間に変更となった。ミューザ川崎では2公演とも3大学が競演する。

 最初は昭和音大のバルトークの「オケコン」、指揮は時任康文。
 難しい曲で実演ではほとんど満足したことがない。「序奏」「対による提示」「哀歌」と聴きながら、やはり演奏するに難物だな、と声に出さないまま呟いていたが、「間奏曲」の例のショスタコーヴィッチのパロディあたりから、俄然、精彩を帯びてきた。「フィナーレ」は生命力に溢れ、なかなかの盛り上がりで感心した。

 藝大は序曲「レオノーレ 第2番」と三善晃の「焉歌・波摘み」の2曲。
 下野竜也のベートーヴェンは力強い。「焉歌・波摘み」はチェロの高音域のすすり泣きから始まり、慟哭、怒りを経て、ヴィオラに先導された弦の子守歌で終る。この間、管楽器と打楽器は狂奔するばかりでなく、静謐な祈りの調べを奏でる。鎮魂歌である。
 そういえば「美しき水車小屋の娘」の終曲は小川の子守歌だった。「マタイ受難曲」の終曲も子守歌のように聴こえないこともない。子守歌は古今東西、究極の魂振なのだろう。
 音大フェスティバルで何度か藝大を聴いてきた。下野は間違いなく藝大から最高のパフォーマンスを引き出した。

 最後は桐朋学園。チェロの上野通明とヴィオラの田原綾子が加わり、沼尻竜典が指揮するR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」。
 沼尻はいつも手堅い。あまり驚きがない演奏もママあるが、時としてとてつもない音楽をつくることがあって目を離せない。まさしく今日がそう。まったく隙がない。絶妙のバランス感覚と色彩感。自然な息遣いと無理のない進行。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅が続く。次々と景色が目の前に現れ、ドン・キホーテの狂気と悲しみが浮かび上がる。
 上野通明と田原綾子の名演ももちろんだが、精密なアンサンブル、緻密な弦楽器、粒の揃った管楽器など、桐朋学園の実力を再認識した。過去の音大オケ・フェスを通しても屈指の演奏だった。

2024/9/28 D・R・デイヴィス×神奈川フィル P・グラス「Mishima」2024年09月28日 19:40



神奈川フィルハーモニー管弦楽団
 みなとみらいシリーズ定期演奏会 第398回

日時:2024年9月28日(土) 14:00開演
会場:横浜みなとみらいホール
指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス
共演:ピアノ/滑川真希
演目:ドヴォルジャーク/交響曲第7番ニ短調Op.70
   黛敏郎/饗宴
   フィリップ・グラス/ピアノとオーケストラ
             のための協奏曲「Mishima」


 デニス・ラッセル・デイヴィスは随分前に聴いたことがある。演目も演奏内容も全く思い出せなくて、期待外れで落胆したことだけをぼんやりと覚えている。リンツ・ブルックナー管のときの録音が話題になっていた頃だから、多分プログラムにはブルックナーの交響曲が入っていたと思う。アメリカ出身の指揮者ながら長くヨーロッパのオケのシェフを歴任し、今でもチェコ・ブルノ国立フィルとライプツィヒMDR響の首席指揮者を兼務している。この秋、ブルノ国立フィルは韓国ツアーの予定で、デイヴィスは韓国遠征に合わせて神奈川フィルを振るのだろう。もう80歳である。
 今シーズンの神奈川フィルについてはセレクト会員に変更した。デイヴィスの演奏会を選択するかどうか迷ったけど、フィリップ・グラスの「Mishima」に、三島由紀夫の朋友である黛敏郎の「饗宴」を組み合わせて演奏するといった尖ったプログラムに魅かれてチケットを取った。

 前半はドヴォルジャークの「交響曲第7番」。この曲の背景にはヤン・フスの悲劇と民俗の悲願があるとされるが、実生活においても長女、次女、長男を失い、母を亡くすという不幸な時期に書かれている。「第8番」「第9番」に比べると演奏機会が少ないが、ドヴォルジャークの重要な作品のひとつ。重く痛切な嘆きがこめられ、調性の二短調はモーツァルトの「レクイエム」と同じである。
 デイヴィスはゆったりとしたテンポで重心の低い骨太な音をつくりだすが、各楽章ともそのテンポ感がほぼ同じだから平板でのっぺりした感じがする。楽章内においても緩急がはらむ緊張感がうすく、どこか弛緩したままで推進力に乏しい。凡庸なドボルジャークだった。神奈川フィルのコンマスは藝大フィルの植村太郎がゲスト、クラリネットには都響首席のサトーミチヨが参加していた。

 後半は演奏時間10分ほどの「饗宴」から。若き黛敏郎の作品でオケのなかにサックス5本が並び、打楽器奏者を10人ほど揃えた。ラテンのリズム、ジャズの即興性、アジアの響き、日本的な音階などが混在した熱く激しい曲。響きとリズムの、まさにその饗宴を楽しんだ。聴き方によっては「シンフォニック・ダンス」に通じるところがある。バーンスタインの弟子の佐渡裕や大植英次が振ると面白いかも知れない。

 最後がグラスの「Mishima」、ピアノとオーケストラのための協奏曲。三島由紀夫の半生を描いた日本未公開映画『Mishima:A Life In Four Chapters』(1985年)の音楽を素材にしてキーボード奏者のマイケル・リースマンが編曲した。ソロの滑川真希はグラス作品の世界初演を幾つか手がけているし、このピアノ協奏曲もデイヴィスの指揮のもと海外では音盤になっている。日本初演である。
 滑川は小柄、白装束をまとい裸足で登場、まるで神事に携わるような雰囲気が漂う。ピアノは休むことなくほぼ弾きっぱなし、シンプルなメロディーとリズムの反復がオケと一体となって波のように寄せては引いていく。指揮のデイヴィスは大半を滑川に任せていたようだが、ぴったりと息が合っている。実際にも夫婦というから当たり前か。
 グラスはミニマル・ミュージックの先駆者、自身の音楽を「劇場音楽」と称しているが、その劇的でありながら抒情的な音楽に陶酔し興奮した。
 盛大な拍手に応えて、滑川のアンコールは当然グラスのピアノ曲。「エチュード11番」だと案内されていた。

 文学界、音楽界、映画界などは左巻きばかりだから、文学の三島も音楽の黛も映画の『Mishima』も疎んじられがちだけど、すべては歴史に委ねればいいことだ。
 映画『Mishima』は遺族の反対や街宣右翼の脅迫(しょせん左翼を利するための活動だろう)といったこともあって日本では未公開、DVDの販売や配信もない。製作総指揮はフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカス、監督・脚本はポール・シュレイダーという信じがたいメンバーで、主演は緒形拳。
 来年は三島由紀夫の生誕100周年だが、いつかこの映画を観ることができる日が来るのだろうか。

2024/9/13 志野文音 「アルハンブラの想い出」2024年09月14日 09:09



お仕事終わりに ワンコインコンサートVol,2
  志野文音のクラシックギター リサイタル

日時:2024年9月13日(金) 19:00 開演
会場:かなっくホール
出演:ギター/志野 文音
演目:A.ルビーラ/禁じられた遊び
   F.タレガ/アラビア風奇想曲
   横尾幸弘/さくらの主題による変奏曲
   A.C.ジョビン/Felicidade
   志野文音/碧い月
   F.タレガ/アルハンブラの想い出
   C.コリア/SPAIN
   A.ピアソラ/リベルタンゴ
   

 学生のとき下宿住まいをしたことがある。いや下宿というのは正確ではない、学生用のアパートである。2階建ての安普請で10部屋くらいあっただろうか。その2階にクラシックギターのすごく上手い奴がいた。しょっちゅうギターを爪弾いていたから、ときどきその部屋に出向いて聴かせてもらった。ソルとかカルリ、カルカッシといった作曲家の名前を覚えたのも彼のおかげだった。「禁じられた遊び」はもちろん知っていたが、「アルハンブラの想い出」はそのときが初めて。たちまち魅了された。一本の弦をトレモロで弾く奏法がカッコよくて痺れた。
 身体を壊したためアパート暮らしを半年ほどで切りあげ実家に戻った。彼とはそれっきりになってしまった。学部も履修科目も違っていたから再び顔を合わせることはなかった。しかし「アルハンブラの想い出」の憧れだけは残った。何とか自分で弾こうとギターを買った。我流で挑戦してみたが、譜面をまともに読めない、指も不器用で思うように動かないとなれば、挫折するまでそんなに時間はかからない。新品のギターが勿体なかった。あとはコードをまさぐってフォークソングの真似事をしていたものの、それもいつしか飽きて、ギターは埃にまみれるばかりだった。
 就職して何年かのち転勤を命じられ一人暮らしをはじめると、どうしてか「アルハンブラの想い出」が懐かしく、頻りにまた弾きたいと思うようになった。本格的にギターを習おうという邪悪な考えが頭をもたげ、個人レッスンなどという暴挙に及ぶこととなる。今となってみるとトチ狂っていたとしか思えないのだけど、建孝三という当時はそれなりに名の知れたギタリストのところまで通った。
 ソルやカルカッシなどの練習曲を繰返し勉強した。だけど、いよいよ思い知ったのは自分には露ほども音楽の才能が備わっていないということだった。1年たっても「アルハンブラの想い出」の数小節も弾けない。で、結局は諦めるより仕方ない。音楽は聴くことに専念しようと。こそばゆいようなほろ苦いような記憶である。

 ギター演奏会に出向くのは、束の間の先生だった建孝三のリサイタル以来だから何十年ぶりかである。チラシの演目で「アルハンブラの想い出」をみた。「リベルタンゴ」や「スペイン」も。交通の便がよいホールで、ワンコインで、仕事帰りあるいは夕食後の1時間、女性ギタリストが弾くという。このホール、普段なら中段より後ろに座るのだが、今回はかぶりつきとはいわないまでも舞台前方から数列目に陣取って楽しむことにした。

 上が白、下が黒の、シンプルでゆったりした装いの志野文音が登場した。綺麗なお嬢さん。しばし黙考し即興風にギターをかき鳴らす、そのうちあの「禁じられた遊び」のメロディを普通に弾いたあと、幾つかのバリエーションを施した。お馴染みの「禁じられた遊び」がとても新鮮に聴こえた。
 1曲終えるごとに楽曲の解説やギターの奏法などのお喋りを挟んで進行する。「アラビア風奇想曲」はむかし聴いた覚えがある。「さくらの主題による変奏曲」は琴の音色がする。「フェリシダージ」はブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビンが遺したボサノヴァの名曲、リズムが心地よい。
 奏者自らが書いた「碧い月」を経て、「アルハンブラの想い出」。音楽は一瞬にして時を超える。学生アパートの窓枠に腰をかけ手摺に身を寄せ弾いていた彼の姿が見えたような気がした。
 ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」のアダージョを引用して始まる「スペイン」。オスティナートが印象的。もともとフュージョン・バンドのため書かれたものらしいが、いろいろな楽器にアレンジされる。ギター独奏となるとコードとメロディー、リズムを忙しく刻み観ているだけでも壮観。
 最後は「リベルタンゴ」。言わずと知れたピアソラの代表作。これもギター、ヴァイオリン、チェロ、ピアノソロからサクソフォーン、フルート、弦楽などの四重奏、タンゴ楽団、通常のオーケストラまで様々な楽器でもって演奏される。ギター一本でも音楽の迫力は半端ない。大いに盛り上がって予定の演目を終了、アンコールは一転し哀愁の「ニュー・シネマ・パラダイス」を弾いてくれた。

2024/8/8 FSM:園田隆一郎×神奈川フィル 團伊玖磨&プッチーニ100周年オペラ・ガラ2024年08月08日 19:55



フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2024
     神奈川フィルハーモニー管弦楽団

日時:2024年8月8日(木) 15:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:園田 隆一郎
共演:ソプラノ/木下 美穂子
   テノール/笛田 博昭
演目:<團伊玖磨生誕100年>
   新・祝典行進曲(管弦楽版)
   歌劇「夕鶴」から
    「与ひょう、あたしの大事な与ひょう」
   管弦楽組曲「シルクロード」
   <プッチーニ没後100年>
   歌劇「ラ・ボエーム」から「冷たい手を」
    「私の名はミミ」「おお、優しい少女よ」
   歌劇「トスカ」から「歌に生き、愛に生き」
    「星は光りぬ」
   歌劇「蝶々夫人」から第2幕2場への間奏曲
    「ある晴れた日に」「さらば愛しの家」
   歌劇「トゥーランドット」から皇帝入場の音楽
    「氷に包まれたあなたも」「誰も寝てはならぬ」


 フェスタ サマーミューザ(FSM)の神奈川フィル公演。今年はブルックナーとスメタナの生誕200周年で有名だけど、團伊玖磨の生誕100年、プッチーニの没後100年でもあり、アニバーサリーであるこの二人のオペラを中心にしたプログラム。プッチーニをまとめて聴けるのは嬉しい。
 本番前に園田隆一郎のプレトークがあった。30分ほどかけて一曲ずつ丁寧に解説をした。まるでレクチャーコンサートのよう。若い学生さんたちも詰めかけていたからこれは有難い。

 前半は團伊玖磨の作品。「新・祝典行進曲」は今上天皇の結婚パレードのための作品。團は上皇の結婚時にも「祝典行進曲」を書いているので“新”となった。中間部のトランペットのファンファーレは「アイーダ」の凱旋行進曲を意識したものだろう。華やかで颯爽とした音楽。
 2曲目は木下美穂子のソロで「与ひょう、あたしの大事な与ひょう」。日本の創作オペラのなかでは間違いなく「夕鶴」が一番のヒット作。初演以来半世紀以上も歌い継がれている。木下さんのソロが美しい。
 「シルクロード」は綺想、牧歌、舞曲、行進の4楽章構成。團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎による「3人の会」の作品発表会で初演されたという。当時はかのゲンダイ音楽全盛期で、3人の音楽がどれほど評価されたのかよく分からない。造形を重視し抒情を尊ぶ音楽が前衛の時代にどう受け止められたのか、いささか興味が湧く。保守的、時代遅れ、陳腐などとくさされたのだろうか。今では3人の音楽は演奏会の重要なレパートリーとなっているけど。この組曲は異国風の旋律も聴こえ全体がひとつの行進曲のようにも思えた。

 後半のプッチーニは「ラ・ボエーム」第1幕のミミとロドルフォとの出会いから3曲。「トスカ」からソプラノとテノールの代表曲「歌に生き、愛に生き」と「星は光りぬ」。「蝶々夫人」では打楽器を増強し、第2幕の間奏曲のあと「ある晴れた日に」とピンカートンが歌う「さらば愛しの家」。「トゥーランドット」からは第2幕の皇帝アルトゥムが登場する際の音楽とリュウの「氷に包まれたあなたも」、そして、もちろんカラフの「誰も寝てはならぬ」。
 木下美穂子も笛田博昭も抜群の安定度で、木下さんは当たり役の蝶々さんがやはり見事、笛田さんは明るめの声で英雄的な「誰も寝てはならぬ」が圧巻だった。
 それにしてもプッチーニは声に寄り添い、高ぶる気持ちを支え、嘆き悲しむ感情を十全に表現する天才だとつくづく思う。甘い旋律、多様なリズム、斬新な管弦楽法と和声、意表を突く楽器の使い方や響きなど、後世はこれ以上のオペラ作家を持つことはできていない。

 没後100年と生誕100年を同時に祝うということは、プッチーニが亡くなった年に團伊玖磨が生れたということ。音楽だけで判断しようとすれば團伊玖磨よりプッチーニのほうが新しい時代の人のように思える。奇妙ながら面白い。