TAR/ター2023年06月01日 17:44



『TAR/ター』
原題:Tar
製作:2022年 アメリカ
監督:トッド・フィールド
脚本:トッド・フィールド
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
出演:ケイト・ブランシェット、ニーナ・ホス、
   ソフィー・カウアー


 アメリカで成功をおさめ、ベルリン・フィルで女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、作曲家としても揺るぎない地位を手にしている。いまはマーラーの「交響曲第5番」のライブ録音に向け準備に余念がないが、録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんな時、かつてターが指導した若手指揮者が自殺し、彼女に疑惑がかけられる。SNSでの誹謗中傷も重なり、リディア・ターはだんだんと追いつめられていく。

 サイコスリラーと宣伝文句にあるが、それほどおどろおどろしい話ではない。でも、ダークで重い映画であることは間違いない。終幕のエピソードを救いとみれば、かすかに希望は持てるけど、一般受けするような物語ではない。加えて、この映画ではジェンダーや同性愛、ハラスメント、SNSの悪用など、今日的で難解な問題をふんだんに扱っている。それもポリコレ的ではなく、多面的で皮肉を込めて語られる。混迷する現代なるものを考えさせられる映画でもある。

 脚本の監修を指揮者のジョン・マウチェリが担当した。バーンスタインと親交があったマウチェリは、『指揮者は何を考えているか』(白水社)という本も書いている。それもあってか、映画のなかでは突っ込んだ音楽論や演奏論が披瀝され、実際の作曲家や演奏家の名前が飛び交う。現役の指揮者のスキャンダルなども平気で話題となる。クラシック音楽に親しんでいる人なら別の楽しみ方ができるかも知れない。

 例えば、演奏家の小ネタで笑いを誘ったのは、
 <放送されている曲を聴いて、ターは「レニーの演奏?」とつぶやく。しばらくすると終結に向けて音楽はどんどん遅くなり、「こんなにタメをつくっては駄目、きっとMTTの演奏」と独りごちる。すぐに「マイケル・ティルソン・トーマスの演奏でお送りしました」とアナウンサーの紹介が入る> 容赦のない一撃でMTTも形無しである。
 <ターとロシア人の若い女性チェリストが車のなかで会話をしている。ターが「好きなのはロストロポーヴィチ?」と尋ねる。チェリストは「デュ・プレ」と答える。ターが頷き「そう、デュ・プレとバレンボイム指揮のロンドン・フィル、エルガーのチェロ協奏曲は名盤ね」というと、若きチェリストは「YouTubeで聴いたの。指揮者はだれか知らない」と> 今どき音盤の時代じゃないし、若き演奏家にとってデュ・プレとバレンボイムが特別の関係であったことなど頓着しない。

 劇中で鳴る音楽は、マーラーの「交響曲第5番」とエルガーの「チェロ協奏曲」が物語の進行に重要な役割を果たす。ベルリン・フィルを演じたオケはドレスデン・フィル、演奏会場も彼らの本拠地のクルトゥーア・パラスト(文化宮殿)を使ったようだ。リディア・ターの失脚に重要な役割を果たすロシア人の女性チェリスト・オルガを演じたのは、イギリスの若手チェリストのソフィー・カウアー。本作が俳優デビューだという。

 それにしてもケイト・ブランシェットにはほとほと感心した。その場の空気を圧倒的な力で支配し、強烈なエゴと権力者の苦悩を浮かび上がらせる。徐々に心が犯されていく様など、観ていて胸が痛くなる。
 この映画は彼女のためにつくられたといってもいいほどだ。―――たしかに、監督・脚本のトッド・フィールドは、「この脚本はケイト・ブランシェットという一人のアーティストのために書かれたものです」と言った。そして、「彼女がノーと言ったら、この映画は決して日の目を見ることはなかったでしょう」と語っていた(The Film Stage 2022年8月25日)。

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