フルトヴェングラーかカラヤンか2021年01月29日 07:25



書 名:『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』
著 者:川口マーン恵美
刊行年:2008年
出版社:新潮社(新潮選書)

 新刊書ではない、10年以上も前の本、たまたま図書館で見つけた。
 著者の川口マーン恵美は、ネット上のサイト『現代ビジネス』などでドイツの政治・社会に対する鋭い批評を書いている。幾つか読んだことがある。迂闊にも社会学者と思い込んでいたが、経歴をみると音大出身のピアニストでもある。

 書名から連想するのはヴェルナー・テーリヒェンの『フルトヴェングラーかカラヤンか』(音楽之友社)だが、「証言」とあるように、そのテーリヒェンを含めて11人の元ベルリンフィルのメンバーに話を聞いている。もっともそのうち5人はフルトヴェングラーが去ったあとの入団だから、フルトヴェングラーとカラヤンの両現場に居合わせたのは6人である。生々しい証言はそれなりに面白い。が、巷間伝えられている2人のエピソードと「証言」に大きな隔たりはない。

 ところで、読み手にとっての「フルトヴェングラーかカラヤンか」は?
 その「問い」自体に最初から大きなハンディがある。
 カラヤンとは、生演奏を聴く機会があったものの、その当時は興味も金もなく、聴こうとしなかった。フルトヴェングラーとは、そもそも時代も場所も違う。ということは、両者とも生の音を知らない。
 それでも音盤を通して、というなら小さな回答くらいはできる。

 音質でいえば勝敗は決まっている。録音技術に異常な関心を持ち、拘泥したカラヤンだ、残された音には寸分のスキもない。
 ただ、音盤によってでも生の空気を感じ取りたい、と思っている人間からすると、カラヤンは一度聴けば十分。完璧な音だから何度でも聴ける、というものでもない。
 フルトヴェングラーの録音は、実際なら一回こっきりの生演奏の興奮を、繰り返し確認したくなる。クナッパーツブッシュやワルターもそう。
 いや、カラヤン亡き後の指揮者だって、録音技術はいっそう進歩しているはずなのに、人工美の極致ともいうべきスタイルとは随分違う。
 そういう意味でカラヤンは孤高の存在だ。音盤史上、カラヤンの前と後には大きな断絶がある、と言ってみたくなる。もちろん孤高の人が歴史を生き残れるかどうかは別の話だが。

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