今年最初の演奏会と昨年の総まとめ2021年01月27日 08:15



神奈川フィル音楽堂シリーズ18回(モーツァルトプラス)

日時:2021年1月23日(土)15:00
場所:神奈川県立音楽堂
指揮:川瀬賢太郎(常任指揮者)
共演:モーツァルト・シンガーズ・ジャパン
   [タミーノ:望月哲也、パミーナ:文屋小百合、
   夜の女王:針生美智子、パパゲーナ:鵜木絵里、
   パパゲーノ・構成:宮本益光]
   長谷川初範(語り)作本美月(ダンス)
演目:イベール/モーツァルトへのオマージュ
   チャイコフスキー/組曲第4番ト長調Op.61
   「モーツァルティアーナ」
   モーツァルト/歌劇「魔笛」K.620(MSJ版)

 川瀬×神奈川フィルを聴くようになったきっかけは、数年前、東京音大を振った「幻想」が素晴らしかったから。すぐに神奈川フィルの会員にもなった。ロットの「交響曲」やシティフィルに客演したときのショスタコヴィッチ「9番」も面白かった。
 さて、抜粋とはいえ大好きな「魔笛」。期待した今年はじめての演奏会だったが…
 歌劇にはレチタティーヴォや台詞が入る。それが音楽の妨げになると感じたことはない。しかし、語りとなると――もちろんドラマの筋道を容易にするためだろうけど――正直いって音楽に対する集中力が途切れる。
 MSJの面々は衣装をまとい、ちょっとした演技も行い、「魔法の鈴」を擬人化した踊り子も加わって、よけい気が散ってしまった。いっそ演奏会形式にして、独唱や重唱を淡々とつなげて行ったほうが良かったような気がする。
 残念ながら、もやもやと、なぜか音楽の印象が薄い公演だった。

 新しい年になったから、ついでに昨年1年間の総まとめを。
 1年前の1月は、エッシェンバッハ×N響のマーラー「復活」からスタート。続いて下野×読響の、今を予言したようなグバイドゥーリナ「ペスト流行時の酒宴」。ブラビンス×都響のマクミラン「トロンボーン協奏曲」(独奏ライエン)とエルガー「エニグマ変奏曲」。ミューザでのモーツァルトマチネに音楽堂でのモーツァルトプラス、この二つの公演は同じ日の午前と午後。そして大阪フィル東京公演のブルックナー。ここまでは例年通りの滑り出しだった。
 2月に入り東響川崎定期(アランフェス、三角帽子)。井上×神奈川フィルのショスタコ「14番 死者の歌」。ホーネック×紀尾井のベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」と「7番」を終えたところで、ウーハン・コロナによってコンサートの開催が不可能となった。

 半年空いて9月上旬に沼尻×神奈川フィルで再開。客席は定員の半数を上限とし、千鳥格子状に再配置のうえ、プログラムもショスタコヴィッチ「8番」から「9番」+「火の鳥」に差し替えられた。9月はこの1公演のみ、そろりそろりと動きだす。
 10月から客席配置は平常に戻ったものの、読響はロトが来日できず、代わって秋山和慶が振った。曲目も大曲マーラー「7番」の予定が、レスピーギ「鳥」ほかの小さな曲に変わった。普通であればあえてチケットを取ることはないけど、入手済みのため消化することに。楽団側も集客目的ではなく、本格的な公演に向けての助走的プログラムと位置づけたのだろう。10月は加えて小泉×神奈川フィルのブルッフ「ヴァイオリン協奏曲」(独奏三浦文彰)とブラームス「2番」。これは演奏者も演目も当初通り。
 11月になっても読響はペレスのショスタコヴィッチ「12番」が開催できず、鈴木優人がシューベルト「4番 悲劇的」、ベリオ「レンダリング」などを指揮。モーツァルトマチネも当然ノット登壇は難しく沼尻の振る「プラハ」となった。
 12月、東響のサントリー定期は、演目のモーツァルト「PC21番」とシューベルト「グレート」はそのままで、指揮者がマリオティから鈴木雅明、ピアノがコミナーティから児玉桃に変更。読響は12月になってようやく本来の公演にこぎつけた。ヴァイグレが2週間の隔離措置を経てモーツァルト「PC25番」とブルックナーの「6番」に復帰。独奏者は岡田奏が代役を務めた。ベートーヴェン生誕250周年イヤーの〆は、秋山×東響の「9番 合唱付き」。年間では17公演を聴いた。

 エッシェンバッハのマーラー「復活」は、30年ほど前、札幌野外ステージで行われたPMF(アルトはクリスタ・ルートヴィヒ、ソプラノは佐藤しのぶ)の録画を観て以来、実演で聴いてみたかったもの。最良の「復活」の一つであった。随分楽しみにしていたが、期待が大きすぎたせいか、不完全燃焼。
 グバイドゥーリナの「ペスト流行時の酒宴」はなかなか刺激的だった。あとから振り返るとこんな時宜にかなった企画も珍しい。
 マクミラン「トロンボーン協奏曲」にも興奮した。こういった現代音楽が残っていくのだろう。マクミランは以前「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」でも感銘した。積極的に聴いてみたい作家の一人で、3月の川瀬×神奈川フィル+郷古「ヴァイオリン協奏曲」を待ち構えていたが残念ながら公演中止。都響を振った元名フィル常任のブラビンスはいい指揮者だ。現代音楽を得意とし、お国物のマクミラン、エルガーだったから尚更か。
 尾高×大阪フィルにはガッカリ。ブルックナー「3番」は音がデカイ印象しかなく、イッサーリスと合わせたエルガー「チェロ協奏曲」は音が届かない。これだけ居心地の悪い演奏会は久しぶり、こちらの体調の所為だったのだろうか。
 ショスタコ「14番 死者の歌」の実演は初めて。交響曲とされているが、弦楽器と打楽器を伴奏とする歌曲集。大地の歌や受難曲にも通じる緊張感がある。ブリテンの「戦争レクイエム」に触発されたものらしいからさもありなん。作曲家の心象世界を表すものこそが交響曲だとするなら、これは確かに交響曲なのだろう。ソプラノのアバーエワ、バスのスタヴィンスキー、井上×神奈川フィルがガッチリ組んで、重く深い感動があった。
 ホーネックの「ヴァイオリン協奏曲」は出色、弾き振りとはいっても、オケは紀尾井のコンマスであるバラホフスキー(バイエルン放送響)がリードしていたようなものだが。小編成、名ホールの故もあり、ソリスト、オケが寄り添い親密で幸福な時間を味わわせてくれた。

 コンサート再開後では、まず三浦文彰が弾いたブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」、骨太の音でゆったりと奏でた。小泉は暗譜でサポート。今年はブルッフの没後100周年でもあるが、遅まきながらこの曲の真価を知った。ブラームスの「2番」も上々。
 沼尻×東響の「プラハ」もなかなかなもの。両者ともモーツァルトの手練れだからこれくらいの出来映えは当たり前。沼尻はモーツァルトマチネの前に、神奈川フィルを指揮してショスタコ「9番」「火の鳥」を演奏したが、「9番」は前の年の川瀬×シティの強い印象を上書きするほどではない、「火の鳥」は大昔ながらジュリーニ&ロサンジェルスの名演がある。誰が立ち向かっても太刀打ちできない。沼尻は2022年4月から神奈川フィルの監督になる。
 東響が鈴木雅明と組んだ「グレート」、これは忘れられない演奏会となった。「グレート」は好きな交響曲の上位にあって、音盤ではワルター晩年の融通無碍な、まるで彼岸で鳴っているような“ひねもすのたりのたりかな”風の音楽を愛してきたが、実演ではノット×東響を思い出すくらい。鈴木父の「グレート」はワルターとは正反対のアプローチ、アクセントがきつく、高速、切れきれで、強引に説得された感じはするのだが、妙に感情が騒ぎ動揺したことは確か。もちろんこれはシューベルトの音楽が持つ力ゆえだが、東響の木管の妙技も与っていた。金管群のバランスも激情と言っていい演奏ながら破綻しない。やはり東響の音は魅力的である。
 ヴァイグレがシーズンプログラム通りブルックナー「6番」を取り上げた。コロナの渦中では大編成を避けるため、12型2管編成バス4本の仕様。しかしながら重心は低く、音はぶ厚い。読響はブルックナーオケといっていい。聴きどころが一杯。ヴァイグレが監督就任時に振った「9番」はモタモタ感があった。「6番」はオケの反応も鋭く入魂の演奏。スダーン×東響の推進力溢れる演奏とは違うが、楽器の重なりを大事にし、ひとつひとつの断面に次々とスポットを当てて行く。モーツァルトのピアノ協奏曲ではこれが裏目に出て、疾走感や愉悦感が乏しかったけど、ブルックナーではたえず新しい発見があって退屈しなかった。金管群の見事な活躍も特筆もの。
 年末は秋山×東響の「9番 合唱付き」、前座で振った「エグモント」もそうだが、劇的で非常にゆっくりとしたテンポ。1楽章とスケルツォを丁寧に進めて行って、緩徐楽章が早く感じられるほど。その緩徐楽章が絶品。12型の小編成、国立劇場合唱団も40人の少人数だったが流石プロ、4楽章も不足ない。
 1年を通して改めて思うが、演奏の平均点は東響がやはり一番、木管の瑞々しさは言うまでもないが、金管の安定度が高く、弦の厚みも年々増している。オケとしてのバランスと音楽性は一級、安心して聴くことができる。

 さて、今年はどんな音楽に出会えるだろうか。ゆっくりと楽しんでいきたい。