初雪葛と定家葛2021年02月03日 07:20



 真冬になって常緑性の定家葛と、その園芸種である初雪葛の葉色が明らかに変わってきた。定家葛は緑から赤茶色に染まった。光沢があるので鼈甲色と呼んでもいい。初雪葛は全体が淡紅色に色付きつつある。

 もともと初雪葛は、春の新葉に入る淡いピンクの斑点が魅力で、斑は成長とともに徐々に白味が強くなる。名前の由来は、この美しい斑が初雪の積もったように見えるから。そして、秋を過ぎるころ班が薄れ緑が目立つようになり、その緑が寒さに当たると淡紅色に変わる。遅い紅葉である。初雪葛は変幻自在のこの葉色によって人気を博している。
 だから、初雪葛はどこの園芸店でも簡単に手に入る。

 かたや、定家葛はどこの園芸店でも簡単に手に入らない。
 定家葛は、式子内親王と藤原定家の悲恋物語である能楽「定家」がその名の由来とされる。グリーンカーテンになるほどの旺盛な成長力と、初夏の芳香を放つ小さな花や濃緑色の葉は魅力的と思うが、一見地味なせいもあって、初雪葛の親ともいえるのに、あまり市場には出回らない。

 初雪葛と定家葛は、さしずめ可憐な乙女と無骨な中年男といったイメージか。
 小さな庭の、寒さに耐える両葛を見比べながら、今日は立春である。

『イエスタデイ』と『はじまりのうた』2021年02月06日 08:03



『イエスタデイ』
原題:YESTERDAY
公開:2019年
監督:ダニー・ボイル
脚本:リチャード・カーティス
出演:ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ、エド・シーラン

『はじまりのうた』
原題:Begin Again
公開:2015年
監督:ジョン・カーニー
脚本:ジョン・カーニー
出演:マーク・ラファロ、キーラ・ナイトレイ、アダム・レヴィーン


 二つの音楽映画。
 突然、主人公以外に誰もザ・ビートルズを知らない世界になってしまったら、というパラレルワールドにおける顛末を描いた『イエスタデイ』。
 中年の落ちぶれた音楽プロデューサーが、名もなきシンガーソングライターを売り込むため、街中でライブレコーディングを敢行する『はじまりのうた』。
 どちらもビジネス重視の音楽業界との対決、というか決別が基底にあるものの、音楽を通しての友情や愛情がじわりと溢れ出てくる作品。商業主義にまみれた音楽業界の面々が敵役ではあっても、かれらはカリカチュアライズされ、ドラマにおけるスパイス。登場人物の多くは皆善い人たちばかり、気のいい連中ばかりでほっこりする。

 『イエスタデイ』は、ザ・ビートルズの名曲とともに『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!』のシーンや、『レット・イット・ビー』の屋上でのパフォーマンスなど、よく知っている人であれば、ザ・ビートルズに関する様々なネタが仕込んであって面白いらしい。でも、それを知らなくても奇想天外な設定のもと、ロマンチックコメディとして難なく楽しめる。ジョン・レノンのそっくりさんが出てきたり、歌手エド・シーランが本人役で出演したりと、別の興味も尽きない。エンドロールもお見逃しなく、一段と幸せな気分になれる。監督は『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイル、脚本は『ノッティングヒルの恋人』のリチャード・カーティス。

 『はじまりのうた』は、監督・脚本が『ONCE ダブリンの街角で』のジョン・カーニー。アイルランドはダブリンの街を背景に、売れないシンガーソングライターと移民女性の悲恋を描いた映画も素晴らしかったが、今回は舞台がニューヨーク。ニューヨークの路地裏や地下鉄のホーム、ビルの屋上、公園などを、ライブレコーディングの場とするためにミュージシャンたちが駆け抜ける。このニューヨークの映像がとても素敵だ。音楽プロデューサーである主人公の娘がギターを引っ提げ、レコーディングに加わることをキッカケにして、父と子の関係を修復して行くシーンや、中年男とヒロインがお互いのプレイリストを二股イヤホンで聴きながら、夜の街をさ迷い歩くシーンなど、名場面もたくさん。

 『イエスタデイ』では、冴えない主人公(ジャック)と、ヒロイン(エリー)の恋は成就し、『はじまりのうた』では、そもそも失恋したヒロイン(グレタ)と、草臥れた中年男(ダン)とは、それ以上の関係になりようがない。しかし、どちらも音楽によって、音楽があってこそ、それぞれが人生の新しい一歩を踏み出して行く。
 善良そうで内気なジャック役のヒメーシュ・パテル、落ちぶれても音楽への情熱を失わないダン役のマーク・ラファロの好演はいうまでもなく、両作品のヒロイン、リリー・ジェームズ(エリー)と、キーラ・ナイトレイ(グレタ)が、何ともいえず可愛くて、映画の魅力を倍加させている。
 リリー・ジェームズは『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』でチャーチルの秘書を、キーラ・ナイトレイはお馴染み『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでエリザベス・スワン役を演じていた。

2021/2/11 東響 ロッシーニとメンデルスゾーン2021年02月12日 11:11



東京交響楽団 名曲全集第164回

日時:2021年2月11日(木) 14:00
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:なし
演目:ロッシーニ 歌劇「泥棒かささぎ」序曲
          歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲
          歌劇「チェネレントラ」序曲
          歌劇「セミラーミデ」序曲
   メンデルスゾーン 交響曲 第4番「イタリア」

 「イタリアの神髄」と銘打って、ロッシーニの有名序曲集とメンデルスゾーンの交響曲を組み合わせたプログラム。

 ロッシーニのオペラは、一度も観たり聴いたりしたことがない、放送でもDVDでも。
 オペラなるものは生で経験しないと良さは分からない。その経験値が圧倒的に低いから、ずっと限られた作曲家の、限られた演目のまま過ごして来た。
 作曲家でいえばモーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニくらい。演目もモーツァルトは別として、それ以外の作家は2つか3つ程度。ビゼーやヴェルディの知識さえ乏しいのだから、ロッシーニまで手が届くわけない。
 でも、ロッシーニの序曲集は、気分転換にいいのでときどき聴く。LPの時代はセラフィン×ローマ歌劇場管弦楽団が愛聴盤だった。CDになってからは珍しい曲も収録してあるネビル・マリーナの序曲全集3枚組をたまに取り出して聴いてきた。
 その序曲も意外と生演奏の機会がない。最近ではアマオケの「ウイリアムテル」、3年ほど前には、ノット×東響の「絹のはしご」と「セヴィリアの理髪師」を聴いた。「絹のはしご」は同じロッシーニの「ファゴット協奏曲」の前に置き、メインプログラムのシューベルト「6番」のあとに「セヴィリアの理髪師」をアンコールで演奏した。なにせ、ノット×東響だからキレ味抜群で大盛況、気分ウキウキで帰って来たことを思い出す。
 そういえば「イタリア」も聴く機会が少ない。確たる根拠があるわけではないが、メンデルスゾーンの交響曲自体、演奏頻度が低いような気がする。近年のオケ・レパートリーのメインはブルックナー、マーラー、ショスタコヴィッチが御三家。モーツァルトやベートーヴェンは別格としても、つつましやかなメンデルスゾーンはちょっと置いてきぼりにされているよう。プログラムに登場しても敬遠することが多いかも知れない。LPを集めはじめたころは、メンコンと彼のシンフォニー3曲を早々に入手していたほどなのに。

 今回、ジャンルイジ・ジェルメッティの本場物が聴けると、楽しみにしていたが来日中止。ところが東響は、代役を立てず指揮者なしで公演を決行するという。これはこれで興味津々。ロッシーニ・クレッシェンドやアッチェレランドを指揮者なしでどう演奏するのか。音盤、実演を問わず、久しぶりのメンデルスゾーンがどう聴こえるのか。東響の鉄壁のアンサンブル能力に、期待半分、不安半分。はて、結果は。

 衝撃の演奏会だった。こんなことになるなんて想像もしなかった。
 編成は12型の変形で、当然全体では50人以上。それが合わせようと守りに籠るのではなく、強烈に攻めきった。強弱、緩急、揺らぎ、タメを伴いながら、攻めているにも拘わらず驚異的な精度で揃えてくる。音楽を楽しんで演じたいという気持ち、音楽を聴いてもらいたいという思い、まで伝わってくる。
 プロの技術の凄み、音楽家魂の凄まじさを観せてもらった、いや、聴かせてもらった。

 オケのメンバーが観客の拍手のなか入場し、立ったままコンマスの水谷さんを迎えて、正面に向かって一礼。
 場内の照明が落ちると同時に、A音なしに突然「泥棒かささぎ」の小太鼓がはじまった。どういうわけか、もうこれで涙腺が緩む。フルートとピッコロの音色、ロッシーニ・クレッシェンドで興奮の極み。終了後盛大な拍手、ここで調音。「セビリアの理髪師」のオーボエの美しさもあっという間。そういえばロッシーニの序曲のなかでは「泥棒かささぎ」が一番好きで、次が「セビリアの理髪師」だった。「チェネレントラ」ではクラリネットの節回しに聴き惚れたまま、さらに短く感じ、音盤の「セミラーミデ」は団子状態に聴こえることもあったけど、生で聴くホルンの重奏と、そのあとファゴットなどの木管楽器が絡み、弦に引き継がれて行くところなど最高ではないか、と思っているうちに、4曲の序曲集が終わる。茫然自失、もうマスクの中が涙と鼻水で収拾がつかなくなってしまった。ロッシーニってこんなに泣ける曲だったか?
 休憩後のプログラムの後半は「イタリア」。少し冷静になったかも知れない。一楽章の木管の序奏からヴァイオリンのピチピチした主題、コントラバスとチェロも素早く細かく動き回る。テンポが極端に伸縮し陽光が差してくる。二楽章の物憂げな木管の旋律、弦のきざみ、翳りと荘重さを一緒に感じる。三楽章の穏やかな曲調にあってのホルンの和音、ここでもホルンの大野さんたちの見事な音。四楽章の飛び跳ねるような舞曲、徐々に熱気をはらみコーダへなだれ込む、再びテンションが高まる。
 フルートの相澤さん、ピッコロの濱崎さん、オーボエの荒さん、最上さん、クラリネットの吉野さん、ファゴットの福井さん、万全の木管の布陣。東響はそんなに大きな所帯でもないのに、この日は新国の「フィガロの結婚」と二つに分けて出演、信じられない。

 東響はどんな指揮者に対しても反応が俊敏で素直。だからこそ指揮者の良し悪しを浮かび上がらせてくれる。統治される能力が優れたオケだからノット、スダーンをはじめとする指揮者の厳しい要求に応え、数々の名演を披露してくれた。
 しかし、ただの優等生ではなかった。従順で一方的に支配だけされていたわけではない、と知った。指揮者の軛から解かれ、“統治される”という日常をかなぐり捨てたとき、弾け、自在に、それでいてお互いを聴き合い、自由に伸び伸びと自分たちの音楽を創り出した。
 音楽史的にいえば、マーラーやニキッシュなど本格的な指揮者が現れるのは、20世紀に入ってから。たかだか100年である。もちろん、それ以前から指揮者付きのアンサンブルはあったにせよ、歴史のなかでは遥かに長い間、指揮者なしの合奏や合唱を楽しんできた。その原初のエネルギーを東響は引き寄せた。

 オケへのスタンディングオベーション、アシスタントコンマスの廣岡さんがコンマスの水谷さんを称え、一層盛大な拍手。カーテンコールでオケ全員が舞台に再登場し、観客と手を振りあうという一場面も。
 ウーハンコロナは憎んでも憎み切れないし、腹立つこと限りないが、その結果生まれたこの演奏会と音楽が、それを打ち砕くエネルギーの象徴としてここに立ち現れたように思えた。

 一生忘れられない演奏会となった、昨夜は「序曲」と「イタリア」がごっちゃごちゃになって頭のなかで鳴り続け一睡もできず。何年かに一度こういったとんでもない演奏会に出会うから、コンサート通いがやめられない。
 この演奏会にあたっての東響事務局の決断と、それを受け入れ、こんな大熱演をしてくれたオーケストラ・メンバーの心意気に、心の底から感謝をしたい。

花壇の水仙2021年02月17日 07:36

 

 小さな花壇がある。レンガ風仕立てのブロックプランターで設えてある。
 あらかじめ正方形と長方形に成型され、底が開いていて庭の土と一体になる。ただ置くだけで花壇ができるという優れものだ。
 この正方形(23×23cm)のものを2個並べ、別に長方形(15×30cm)のものを2個並べてある。いずれもちょっとした植木鉢くらいの大きさで、寄せ植え風にしようと思っても、3号ポット(直径9cm)なら3、4個しか入らない。
 春には美女桜、カッコウアザミ、日々草を、夏には鶏頭、ベゴニア、ブルーサルビアを、秋にはマリーゴールド、エキザカム、友禅菊を、そして、この冬にはガーデンシクラメン、ビオラ、パンジーなどを植えてきた。
 ところが、ここへきて育てやすいといわれるビオラ、パンジーを枯らしてしまった。では、一度球根に挑戦しようということで、芽出し球根の水仙に植え替えた。白い花の日本水仙と、黄色い花のミニ水仙で品種はテタテートという。
 テタテートは、1本の茎に幾つかの花をつける日本水仙とは異なり、1本の茎にひとつの花しかつけないが、群生すると花と花が頭を寄せ合うように見えることから、「Tete a tete」(頭と頭=古フランス語)と名付けられたらしい。
 二種類とも植えてすぐに花が咲き出した。黄色いテタテートは匂わない。白い日本水仙はいい香りがする。冬から早春にかけての風物、水仙のお目見えである。

確定申告のあと『ぶらあぼ』を読んで2021年02月19日 11:16



 確定申告の受付がはじまった。混雑を避けるため早めに申告書類を提出することにした。例年なら数十人、ひどい時には百人以上が税務署の5、6個所ある受付窓口並ぶのだが、今年は閑散としていた。納税まで済ませて15分程度で終わった。

 帰り道、近くの音楽ホールに寄って、『ぶらあぼ』を貰ってきた。日別の公演情報や演奏家へのインタビュー記事、オケ広告などが満載されているので、毎月愛読している。無料である。これがあるから演奏会当日にホール前で配られるチラシも必要ないし、時々買っていた『音楽の友』なんて雑誌もいらなくなってしまった。
 パラパラと頁を繰っていたら中ほどに「編集部からのお知らせ」という1頁を使った案内文が目に入った。“緊急事態宣言の発令に伴って、演奏会情報の変更修正が間に合わず、実際とは異なる情報を掲載して発刊することになってしまった、できるかぎり正確な情報を提供するため、4月号(3月18日発行)より「前売りチケット情報」「News&Topics」「TV&FM」「公演情報」の本誌掲載を取りやめ、ウエブサイトでの掲載のみに変更する”とのこと。紙媒体はWebと連携し、読み物記事と演奏団体の広告に特化するようである。
 即時的に正確な情報を提供するためにはやむを得ない措置であろうけど、紙媒体の一覧性を偏愛する者にとっては少しばかり寂しい。

 紙媒体の凋落が著しい。新聞は2020年10月現在の発行部数合計(朝夕刊セットは1部と数える)が、前年に比べ271万部あまり減少した。しかも、下げ止まる気配は全くない。2017年は前年比2.7%減、2018年同5.3%減、2019年同5.3%減、そして2020年は同7.2%と年々減少率は大きくなっている(日本新聞協会の調べ)。雑誌の推定販売額も1997年にピークを打ったあと右肩下がりで、2019年のそれは半分以下に激減している(全国出版協会「出版指標年報2020版」)。
 媒体価値を計る広告費の推移をみても、インターネット広告費は、2006年に雑誌広告費を抜き、2009年に新聞広告費を超えた。そして、2019年には、ついにTV広告費を上回った(電通「2019年 日本の広告費」)。

 紙媒体は、情報の迅速性の面でWebに太刀打ちできない。正確性といっても情報そのものに角度がついていれば、多少不正確なものが混じっていてもWebの多様な情報には敵わないだろう。双方向性のないまま情報の修正がなされないのなら尚更と思う。あとはどのくらい情報の深堀ができるかだが、今の新聞に(放送でさえ)その余地があるのかどうか。マスメディアの世界に不案内ながら、終わったといわれる雑誌のほうが、まだその可能性が残されているような気もする。