モリコーネ 映画が恋した音楽家2023年02月02日 16:51



『モリコーネ 映画が恋した音楽家』
原題:Ennio
製作:2021年 イタリア
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
出演:エンニオ・モリコーネ、
   クリント・イーストウッド、
   クエンティン・タランティーノ


 エンニオ・モリコーネといえば、何といったってマカロニ・ウエスタンだ。その音楽なら今だって口笛で吹ける。『荒野の用心棒』か『夕陽のガンマン』か『続・――』か、どれであったか区別はつかないが、幾つかのメロディを思い起こすことができる。そして、その旋律と一緒にクリント・イーストウッドやリー・ヴァン・クリーフ、フランコ・ネロやジュリアーノ・ジェンマの雄姿が目に浮かぶ。そのくらい音楽と映画とが切り離せなくなっている。
 少し若い年代となれば『ニュー・シネマ・パラダイス』や『海の上のピアニスト』の音楽かも知れない。もちろん、後年これらを鑑賞してはいるけど、われわれ世代にとってエンニオ・モリコーネとは、頑としてマカロニ・ウエスタンの作曲家として在る。

 サンタ・チェチーリア音楽院で作曲技法を学んだモリコーネは、「映画音楽を作ることを、当初は屈辱だと感じていた」と語る。当時は「偉大なのはクラシックであり、映画音楽など邪道」という考え方が支配的だったのだろう。

 しかし、これはおかしくないか? 
 今われわれが聴いているクラシック、とりわけ管弦楽や声楽曲のほとんどは、18世紀から19世紀の音楽であり、作曲家でいえばバッハからR.シュトラウス、プッチーニまでの作品だ。クラシックとは20世紀に入ってすぐの第一次大戦を境にして終わってしまった音楽だといってよい。R.シュトラウスやプッチーニは、20世紀になってからも多くの曲を書いたが、その技法の基本は19世紀のものだ。
 西洋音楽の三要素を失った20世紀音楽は、100年の寿命さえ保てなかった。両大戦の間は過渡期としても、第二次大戦後の音楽で後世まで残るのは、せいぜいショスタコーヴィチ、ブリテン、メシアンくらいだろう。 
 
 では、R.シュトラウスやプッチーニの旋律、和声、管弦楽法はどうなったのか?
 映画音楽とポピュラー音楽とに引き継がれたと思う。これらの作品は音楽メディアの発展とともに大衆化を伴いながら大きく広がっていった。とくに大規模な管弦楽曲は、映画音楽が担うようになった。同じイタリアにニーノ・ロータがいる。フランスではモーリス・ジャールやフランシス・レイ、アメリカにはコルンゴルト、バーンスタイン、ヘンリー・マンシーニ、ジョン・ウイリアムズなど数えきれない。わが国では伊福部昭や早坂文雄などに代表される。
 プロオケの演奏会においても、ここのところ久石譲、すぎやまこういち、菅野祐悟など劇伴音楽を書く作家が登場する。映画、演劇、TVドラマ、ゲームなどの音楽は、感情の重層性、構造の複雑性、意味の多義性といったものを多少犠牲にしているかもしれないが、確実に劇世界を表現するための重要な要素となっている。こういった音楽のなかの最良のものが、これから先、生き残って行くのではないかと。

 エンニオ・モリコーネは、生涯で500作以上の映画音楽を作曲したというのに、たえず映画音楽から離れたいと発言していたらしい。しかし、晩年には「映画音楽も本格的な音楽だと考え直すようになった」「絶対音楽と映画音楽が共生していく感覚がある」と考えるようになったという。まさしくその通りだろう。

 『モリコーネ 映画が恋した音楽家』は、エンニオ・モリコーネの幼少から晩年までを、モリコーネ本人へのインタビューと、映画監督や俳優、作曲家や歌手など、多くの人々の証言で描きながら、モリコーネが映画音楽にもたらした革新や画期的な手法、斬新なアイデアなどをあますことなく紹介してくれる。
 長期にわたる取材を敢行したのは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督、2時間半に及ぶ労作である。