2022/5/28 カーチュン・ウォン×日フィル 伊福部とマーラー2022年05月28日 19:33



日本フィルハーモニー交響楽団 
   第740回東京定期演奏会

日時:2022年5月28日(土) 14:00 開演
会場:サントリーホール
指揮:カーチュン・ウォン
共演:ピアノ/務川 慧悟
   ソプラノ/三宅 理恵
演目:伊福部昭/ピアノと管絃楽のための
        「リトミカ・オスティナータ」
   マーラー/交響曲第4番ト長調


 「リトミカ・オスティナータ」とマーラーの「交響曲第4番」を歌う三宅理恵に魅かれてチケットを取った。先週にはタイミングよくカーチュン・ウォンが日フィルの次期首席指揮者になるという発表があった。
 カーチュン・ウォンは評判の高い指揮者だが、あまり相性が良くない。積極的に聴くつもりはなかったけど、今日のようなプログラムが目に入ると、足を運んでしまう。

 「リトミカ・オスティナータ」は1961年に完成。戦中に書かれ戦災で焼失したと思われていた「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」のスケッチをもとにしている。「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」からは、もう一つ「シンフォニア・タプカーラ」が1954年に生れている。よって「リトミカ・オスティナータ」と「シンフォニア・タプカーラ」は兄弟曲ということになる。
 伊福部は「リトミカ・オスティナータ」について「執拗に反復する律動的な音楽」という意味だと記している。そして、「我々の伝統音楽は、総て、偶数律動から成り立っていますが、一方、韻文は五・七・五の奇数が基礎となっています。この作品では、音楽ではなく韻文の持つ奇数律動をモチーフとしました」「旋律は伝統音楽に近い6ヶの音しかない六音音階(ヘクサトニック)に依っています」。つまり、奇数律動によるリズムで書かれた六音音階によるメロディーを執拗に繰り返すことで「吾々の内にある集合無意識の顕現を意図」したという。
 今日のソリスト務川慧悟も「冒頭主題は五と六という数字がキーとなっています。旋律は6音音階(ドレミファソラシからシを抜いた6音)から成り、拍子は5拍子、尚且つ5小節で1フレーズという区切りが多用されています。その主題が次第にfffまで拡大されて執拗に鳴り響きかっこよい」と、練習風景の動画とともにTwitterにあげている。
 1960年代といえば、十二音や無調でなければ音楽として認められないという狂った時代。伊福部はそんな楽壇に抗うように十二音の半分である六音音階でもって「リトミカ・オスティナータ」を作曲したわけだ。兄貴分の「シンフォニア・タプカーラ」が民族的な熱量と叙情を表しているとするなら、「リトミカ・オスティナータ」はメカニックな律動が強調されている。
 もっとも、激しさばかり注目される「リトミカ・オスティナータ」だが、前半の狂騒が収まった後の優しく静謐な中間部も魅力的。務川慧悟も「曲中に2度登場する緩徐パートは、何故だか分からないけれど日本人としての私達の郷愁を誘う響き。(あと、僕だけかもしれないけれどこの部分、なんだか千と千尋の銭湯の風景を彷彿とさせないですか?)」と呟いている。

 カーチュン・ウォンは譜面をおいて、1頁ずつ確認をしながら丁寧に振っていた。左手で絶えず奏者にキューを出し、右手で変拍子を刻んでいく。まじめな指揮者であることは間違いないが、伊福部の、破天荒な音楽と勢いを味方にできたかどうかはちょっと疑問だ。務川慧悟はさすが若いからオケ後方のティンパニやコンガ、トムトムやティンバレスに合わせて、バリバリと叩いていく。ここでのピアノは正真正銘の金属製打楽器である。
 「リトミカ・オスティナータ」は、強靭な律動と金属的な音色、急―緩―急―緩―急という構成美によって、伊福部の作品中、一番の興奮をもたらす曲だが、今回はそこまで熱くなれなかった。そうではあっても、最近、務川慧悟や松田華音など若手ピアニストたちが、この曲に挑戦している。喜ぶべきことだ。

 後半、カーチュン・ウォン得意のマーラー。当然、暗譜でオケを完全に掌握し、楷書体の「交響曲第4番」。雑味がないというか清潔なマーラー。
 日フィルは骨太な音で、各パートのトップは上手いし、演奏水準も高い。お目当ての最終楽章の三宅理恵は、やはり清潔なマーラーにはぴったしの声で、予想通りだった。
 その意味では全く不満のない演奏。でも、カーチュン・ウォンに限っていえば、ひと昔前の指揮者なら、それぞれのマーラーへの思い入れが、共感であれ反発であれエグミとなって音楽に表れていたものだが、彼のマーラーは蒸留水のように舌に残らない。
 テンポにしても、緩急・強弱にしても、いろいろ工夫をこらしてはいるものの、その仕掛けが何故かなかなかこちらに訴えてこない。いや、これは単に相性のせいかも知れない。カーチュン・ウォンとはこれが3回目ながら、苦手意識は消えないままである。

 マーラーの「交響曲第4番」は。「2番」「3番」とともに角笛交響曲といわれる。いずれも「少年の魔法の角笛」の歌詞に基づいた声楽が挿入される。
 ドイツ、ハンガリー各地の歌劇場で指揮者として活動していたマーラーが、ウィーンの宮廷歌劇場監督に就任する。「4番」は、栄光に満ちたその時期に作曲された。全7楽章として構想されていた「3番」の最終楽章をカットし、「4番」の第4楽章に移し、そこから遡るように他の楽章を書いたようだ。
 一時「フモレスケ(ユーモア)」という副題を考えていたらしい。確かに滑稽、おふざけと取られかねない部分はある。最終楽章の「天上の生活」の歌詞、“地上のことに関わらないようにして、飽食と享楽にふける”というのも、けっこう皮肉っぽい。
 しかし、それより、マーラーは第4交響曲の完成時、ナターリエ・バウアー=レヒナーに「第四交響曲は前の三つの交響曲と密接に関係しており、それらはこの第四交響曲によってはじめて終結するのだ、と力説した。それらは、内容においても構造においても、四つでひとつに完結した四部作である」と語っている。
 巨人の、生と闘い、死と復活を経て、永遠の自然を賛美し、そして天上の世界で戯れる、その姿を描いたものかも知れない。もちろん、巨人とは、夭折した親友ロットを意識したものであり、そのロットについて「彼と僕とは、同じ土から生まれ、同じ空気に育てられた同じ木の二つの果実のような気がする」(ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』音楽之友社)といったマーラーが、自分自身を重ね合わせていることは、ほぼ間違いないだろう。