グラディエーターⅡ ― 2024年12月02日 15:51
『グラディエーターⅡ 英雄を呼ぶ声』
原題:GladiatorⅡ
製作:2024年 アメリカ
監督:リドリー・スコット
脚本:デビッド・スカルパ
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
出演:ポール・メスカル、コニー・ニールセン、
デンゼル・ワシントン、ペドロ・パスカル
24年ぶりの続編だという。『ブレードランナー』や『エイリアン』の二作目は他に委ねたリドリー・スコットだけど、『グラディエーター』の続編は自らがメガホンをとった。
予め久しぶりに前作の『グラディエーター』をPrime Videoで観た。これは完璧に完結した映画だ。続きを描くのは並大抵のことではなかったはずだ。
前作に引き続いてコニー・ニールセンがルッシラを演じ、その息子ルシウス(ポール・メスカル)の復讐を描くことになる。ルシウスは、実は前作で亡くなった剣闘士マキシマス(ラッセル・クロウが演じた)が父だった、ということが途中で明かされる。それ以降の彼はマキシマスという英雄伝説の継承者として際立っていく。
冒頭のガレー船による城塞の攻略、猿との闘い、サイを操る戦士との闘争、コロッセオにおける模擬海戦などスペクタクルな見所が一杯である。爛熟し腐臭ただようローマの景色も圧巻である。そのなかでルシウスの小麦に触れる記憶や、コロッセオの砂を手で握りしめる所作などがマキシマスと重なる。
さすがリドリー・スコットといえる映像ではあるけれど、前作では若きホアキン・フェニックスが演じた皇帝コモドゥスとマキシマスとの息詰まる闘いに収斂していった映画が、今作ではルシウスばかりでなく、母ルッシラやその夫である帝国将軍アカシウス(ペドロ・パスカル)、謎の奴隷商人マクリヌス(デンゼル・ワシントン)、双子のゲダ帝(ジョセフ・クイン)、カラカラ帝(フレッド・ヘッキンジャー)などに拡散し、群像劇となってしまったようなところがある。
前作から今作まで四半世紀を経て、映画が現実社会の幾許かを映し出すとするなら、単純な英雄譚としては語れなくなったこの世界の、分断と対立が進み複雑さを極める歩みが映像に反映しているのかも知れない。
そうは言っても、ルシウスはもちろん、ルッシラの存在感やアカシウスの矜持、怪奇なマクリヌスなど、俳優陣の見事な演技については賞賛すべきだし、大画面の映像としては前作以上に『ベン・ハー』や『十戒』など大昔のハリウッド大作を彷彿とさせ文句なしに楽しめる。
なお、音楽はハンス・ジマーから彼のプロダクションに所属するハリー・グレッグソン=ウィリアムズに変わっている。ハリーはハンスが書いたモチーフを取り入れつつ力の漲った強靭なサウンドを実現している。
余談ながら、改めて前作『グラディエーター』を観て思った。ホアキン・フェニックスの“皇帝コモドゥス”は、時空を越え“ジョーカー”の原型のようだ、と。
2024/12/8 ノット×東響 シェーンベルクとベートーヴェン ― 2024年12月08日 20:59
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第98回
日時:2024年12月8日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ヴァイオリン/アヴァ・バハリ
演目:シェーンベルク/ヴァイオリン協奏曲 op.36
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調 op.67
「運命」
シェーンベルクの「ヴァイオリン協奏曲」は、実演はもちろん音盤や放送でも聴いたことがない。で、予習のためYouTubeを検索するとヒラリー・ハーンの音源があったので再生してみた。しかし、5分と聴いていられない。
楽曲の構成は急・緩・急という古典的な3楽章らしいが、十二音技法を駆使して書かれている。メロディーのない協奏曲なんてどうやって聴けばいいのか。早々に予習することを諦め、実演はひたすら我慢するより仕方ないと覚悟してミューザに向かった。
その実演である。ソロはスウェーデンのアヴァ・バハリ。
ハイフェッツが「指が6本必要だ」と宣った難曲中の難曲だが、彼女はさりげなく平然と弾いて行く。不快な音を一切出さない。奥行きのある美音が響き渡る。この音とノットのオケを効率よく捌く指揮の面白さに引き込まれ、最後まで聴き通すことができた。
シェーンベルクの協奏曲はテンポの変化と音量の大小、音色の移り変わりだけで出来ていて、和声も旋律も感じられないので掴みどころがない。リズムにさえ定型がない。曲がどのように進行をしているのか分からないし、フレーズとフレーズとの関係も感得できないから屡々迷子になる。
それでも第1楽章と第3楽章のバハリの目の覚めるようなカデンツァや、オケのパートの中でさらにパートを分けるといった書法、ソロと打楽器との協奏など面白い部分がなかったわけではない。
としても楽曲全体から受ける印象といえば、連続性とか統一性とか関係性とかが極めて薄く、分断、分裂、孤立を妙に意識させる音響ではあった。今年2024年はシェーンベルクの生誕150年という。音楽に限らず人の精神活動の成果というものは、その時々の社会を反映し、さらには予見するものなのだろう。
聴き手にとってのヴァイオリン協奏曲としては、ほぼ同時代に書かれたベルクの「ある天使の思いで」までが、ぎりぎり許容範囲のようである。
ソリストアンコールはクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ」、柔らかく情感に溢れた美しい音楽だった。アヴァ・バハリはもう一度ベートーヴェンかブラームスで聴いてみたい。
ノット×東響によるベートーヴェンの「交響曲第5番」は再演である。
前回は聴き逃している。ノットのベートーヴェンにあまり興味を持てないせいでパスしたのかも知れない。もちろん幾つかベートーヴェンの交響曲を聴いているはずだけど、思い出せるのは「第2番」と「第3番」くらい。その両曲も前後に聴いた広上や小泉、シュテンツやヴィオッティのほうが鮮明な記憶として残っているほどだ。
でも、シェーンベルクと対比した「第5番」である。強烈な印象であったことは間違いない。陰影がとてつもなく濃い。硬軟取り混ぜた緩急と強弱、各楽器の縁取りを際立たせ、些かどっしり感は欠けるとしても、自在さと奔放さがまさに紙一重、アグレッシブで入魂の演奏だった。
指揮者とオケの一体感ここに極まれり、といった趣。週末の「ばらの騎士」が楽しみである。
パシフィックフィルの来期プログラム ― 2024年12月11日 16:46
パシフィックフィルハーモニア東京(PPT)の2025/26シーズンラインナップが発表された。これでようやく東京・神奈川に本拠地を置くプロオケ10団体の来期プログラムが揃った。
https://ppt.or.jp/
PPTは年度末(2024年3月)に楽団員16名が一斉に退団するという異常事態を引き起こした。存立自体が危ぶまれるのではないかと心配していたが、定期演奏会6公演、名曲・特別演奏会2公演と回数を減らして次期プログラムが決まった。事情はよく分からないものの楽団内部に大きな困難を抱えているのだろう。
さて、2025/26シーズンであるが、音楽監督の飯森範親が3公演を受け持ち、フェルディナント・リースやサン=サーンスなどを振る。ほかには園田隆一郎、原田慶太楼、ユージン・ツィガーン、出口大地などが登壇する。演目としては飯森が最近よく取り上げているリースの「交響曲第3番」やツィガーンの「展覧会の絵」などが注目されそう。
2024/12/13 ノット×東響 「ばらの騎士」 ― 2024年12月14日 15:20
東京交響楽団 特別演奏会
R.シュトラウス/オペラ「ばらの騎士」
(演奏会形式、全3幕)
日時:2024年12月13日(金) 17:00開演
会場:サントリーホール 大ホール
指揮:ジョナサン・ノット
演出監修:サー・トーマス・アレン
出演:元帥夫人/ミア・パーション
オクタヴィアン/カトリオーナ・モリソン
ゾフィー/エルザ・ブノワ
オックス男爵/アルベルト・ペーゼンドルファー
ファーニナル/マルクス・アイヒェ
マリアンネ/渡邊仁美
ヴァルツァッキ/澤武紀行
アンニーナ/中島郁子
警部・公証人/河野鉄平
元帥夫人家執事・料理屋の主人/髙梨英次郎
テノール歌手/村上公太
動物売り・ファーニナル家執事/下村将太
合唱/二期会合唱団
一昨年の「サロメ」、昨年の「エレクトラ」に続いて、今年は「ばらの騎士」である。これでノット×東響によるR.シュトラウスのコンサートオペラが完結する。
「サロメ」「エレクトラ」の公演はセンセーショナルにして衝撃の出来事だった。「ばらの騎士」となるとモーツァルトやJ.シュトラウスの影がチラチラする。R.シュトラウスによる過去を回顧し引き受けながらの、微妙な均衡によって成り立っている20世紀の音楽をノットと東響がどう描くのか期待は高まる。
オケの規模は「サロメ」「エレクトラ」ほど大きくない。それでも弦は14型、特殊楽器がちらほら、打楽器奏者も8、9人が待機している。舞台前面は以前の2公演よりはちょっと余裕があり、上手に小さな丸テーブルと椅子が2脚、下手にソファーが置いてある。P席は空いていて小ぶりの合唱団が何度も出入りした。
第1幕の前奏曲から精妙でありつつ躍動的な音楽が鳴る。注意すると活き活きとした音符の動きのなかに翳りがさして上々の滑り出し。元帥夫人とオクタヴィアンが登場しソファーの上で戯れる。のっけから不倫の現場とは穏やかでない。ミア・パーションは深紅のドレス、カトリオーナ・モリソンは上背があってシンプルな衣装が似合っている。両者の絡み合う声が魅惑的だ。
オックス男爵が現れ、がらりと雰囲気が変わる。アルベルト・ペーゼンドルファーは声といい演技といいオックスのイメージそのもの。その助平なこと、自己顕示欲の強いこと、男の馬鹿さ加減に思わず苦笑する。オックスは「フィガロの結婚」でいえば伯爵、さらにいえばドン・ジョヴァンニと対比できるかも知れないが、貴族の嗜みや気品など更々なくて滑稽で粗野そのもの、その姿はわれわれに限りなく近い。だから、男の厭らしさには辟易するものの、あまりにも身近な存在として親しみさえ覚えてしまう。レポレッロの“カタログの歌”のような台詞を自ら喚き、散々ドタバタを演じて舞台から下がる。
激しい音楽が転機を迎える。ノットと東響の演奏は優しさを増していく。元帥夫人は時の移ろいと老いゆく自分に溜息し、オクタヴィアンにも別れる定めだと説く。「夜中に起きて、すべての時計を止めるの…」と歌いだすと、もう涙を止めようがない。「もしよければプラーター公園に来て、馬車の隣で馬に乗るといいわ…」と、一緒には馬車に乗らないことで別れを暗示する歌となって、観客はついに泣き崩れる。
ミア・パーションはここ十数年来、「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルディリージ、「フィガロの結婚」の伯爵夫人ロジーナ、そしてこの元帥夫人マリー・テレーズと聴いて来た。たしかに御歳を召されたが、容姿、声の美しさは全く衰えない。いま望みうる最上の元帥夫人に出会っているのだろう。
第2幕はファーニナル家の広間。オクタヴィアンが「ばらの騎士」としてファーニナル家に到着する音楽の華やかで煌びやかなこと。
ゾフィーのエルザ・ブノワは失礼ながら写真で見るよりずっと可憐で可愛い。修道院から連れ戻された少女そのもの。当主ファーニナルのマルクス・アイヒェはゾフィーの父親として若々しすぎる感じはするが、声はよく伸びてなかなかの好感度。
野卑なオックス男爵が舞台に上がるとゾフィーやオクタヴィアンとひと悶着、オクタヴィアンと刃傷沙汰となり怪我をして大騒ぎとなる。てんやわんやの末、オックス男爵はワインで憂さを晴らし、逢い引きの手紙をもらい、上機嫌となって「俺なしでは、毎日が君にとって不安。俺となら、どんな夜も君には長すぎない」と独白が始まり、彼の一人舞台となる。有名なワルツが会場に響き渡るころには目頭がまた熱くなる。
ノットと東響は、「サロメ」の“七つのヴェールの踊り”での完全無欠な舞踏曲と同様、これ以上ない“オックスのワルツ”を奏でた。第2幕を終えたあとの会場は熱狂的となり、ノットとペーゼンドルファーが呼び返されていた。
第3幕の冒頭、居酒屋を「お化け屋敷」に改造する場面での音楽のそれらしさはまさにR.シュトラウスの練達の技、ノットの指揮のもと東響はオケの表現力の幅広さをまざまざと見せつけてくれた。
女装したオクタヴィアンと彼(彼女?)を口説くオックス男爵、そこに亡霊や警部たちが入り乱れ、ドタバタ劇が始まる。呼ばれてやってきたファーニナルとゾフィーは男爵の醜態に怒り、婚約は破談だとわめき散らす。元帥夫人が登場し、オックスに「何も言わずに立ち去るよう」命じ、男爵はすべてを諦めることになる。この場面でのミア・パーションは緑のドレスに着替え凛とした佇まいを崩さない。
ここからのマリー・テレーズとオクタヴィアンとゾフィーとの三重唱は、やはりこの作品の最大の聴きもので、まさに陶酔の世界。オケは繊細極まる伴奏で応える。壊れてゆくものの美しさ、滅びの美ともいうべきか、残酷ではあってもこれが定めだと納得させてくれる終幕だった。
耽美で爛熟の音楽を書いたといわれるR.シュトラウスだが、実生活ではドイツの崩壊とともに歩まざるをえなかった。それは独墺音楽の終焉と軌を一にしていたのだろう。すでに「ばらの騎士」の音楽に、音楽の未来に対する憂いと消滅とを予兆してしまう。
それにしても昨夜の「ばらの騎士」は、サー・トーマス・アレンの水際立った演出もあって、大仰な装置がないだけで何の不満のない本格的な歌劇だった。コンサートオペラの集大成として究極ともいえるべきものであり、10年を経たノットと東響の到達点でもあった。ひとつの金字塔を打ち立てたといっても言い過ぎではない。
明日15日、ミューザ川崎でも同一プログラムが上演される。東京公演と同様、完売のはずである。
冬の紅葉 ― 2024年12月16日 16:17
好い天気が続いている。近辺は12月になってからが紅葉の見頃である。
2株植えてある「ドウダンツツジ」が殊のほか見事に色づいた。4、5年経ってようやくここの土に馴染んだようだ。
昔、地方に住んでいたとき玉仕立てにした「ドウダンツツジ」を育てていたが、11月には綺麗に紅葉していた。土地や気象、気温の按配などで差がでるのだろう。
いまの2株は放任しっぱなしの自然樹形だけど、それほど見苦しくない。このまま生長を見守っていくつもりだ。
いつも旺盛な「五色南天」も上部が赤く染まってきた。これまで肥料を与えすぎたせいか新芽を勢いよく伸ばし、「五色南天」とは名ばかりで冬になってもほとんど全体が緑色のままだった。昨年から栄養過多を少し調整してみたら上手く色づいた。
「山法師」は相変わらず花と実の気配がないものの、だいぶしっかりしてきた。大きめの葉が紅くなるまえに落葉していたものが、今年は深紅の葉をたくさん残して目を楽しませてくれる。
ついでに、根元にある「オキザリス」は太陽に向かって小さな薄紅色の花をつけている。何の手入れもせず放置していても冬のあいだ絶え間なく貴重な花を咲かせる。
残念なのは「出猩々」を枯らしてしまったことだ。地方に居たときにも「モミジ」を駄目にしている。素人の荒っぽい剪定が原因だと思う。紅葉の代表選手を欠くのは惜しい。改めて挑戦してみようか、という気がないわけではないが、しばらくは大人しくしていたほうがよさそうだ。
同じ紅葉といっても色合いも姿形もそれぞれ。もう秋とはいえない冬のひととき、目の保養をさせてもらえるのは有難い。