2024/12/22 大植英次×神奈川フィル 「第九」 ― 2024年12月22日 22:16
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
For Future 巡回公演シリーズ
日時:2024年12月22日(日) 14:00開演
会場:横浜みなとみらい大ホール
指揮:大植 英次
共演:ソプラノ/宮地 江奈
メゾソプラノ/藤井 麻美
テノール/村上 公太
バリトン/萩原 潤
合唱/神奈川ハーモニック・クワイア
演目:モーツァルト/「バスティアンとバスティエンヌ」
序曲
ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調Op.125
「合唱付き」
神奈川フィルの演奏会案内によると、「第九」が1824年にウィーンのケルントナートーア劇場で初演されてから今年が200年目に当たるという。
大阪フィルハーモニー交響楽団の桂冠指揮者、ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの名誉指揮者である大植英次は、ハノーファー音楽大学では終身正教授も務めていて、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のシェフであるヨアナ・マルヴィッツの師匠である。大植自身はバーンスタインの弟子だからマルヴィッツはバーンスタインの孫弟子ということになる。
大植はもう70歳に届こうとしている。オーケストラ・ポストは名誉職のみで、後進の指導に重きをおいているのかも知れない。それでも時々は帰国して指揮をしてくれる。首都圏ではN響、東響、日フィルなどを振っているが、神奈川フィルとは相性が合うとみえ定期演奏会を中心に毎年のように指揮をしている。
ところが大植×神奈川フィルを聴く機会がなかなか訪れない。彼が振るときに限って他楽団と日程が重複したり用件が出来してパスせざるをえなかった。大植を聴くのはコロナ禍の東響を相手にした演奏会以来である。
「第九」の前に歌芝居「バスティアンとバスティエンヌ」の序曲から始まった。弦は8型、管はオーボエとホルン、打楽器は用いない。今日のコンマスは読響の戸原直がゲスト。
モーツァルトはこのとき12歳の少年。この序曲の何が興味深いかというと主題が「エロイカ」と瓜二つ。もっとも同じような旋律であってもこちらは鄙びて長閑なもの。大植×神奈川フィルの演奏も優しく可愛らしい。
多分、本歌取りをしたのではなく、たまたま一緒になってしまったのだろう。聴き手からするとモーツァルトの曲のなかにベートーヴェンが浮かび上がる。その2分ほどの序曲を終え、休憩を挟むことなくそのまま「第九」へ。
弦は14型に増強され、管楽器・打楽器奏者が加わる。最近の「第九」は12型や、場合によっては10型の小編成で、ピリオド奏法を取り入れた歯切れ良い音楽になることが珍しくない。
もちろん大植はそんな演奏などに拘泥しない。第1楽章は神秘的な開始、音の大きな波小さな波が興奮を高めていく。第2楽章はかなり快速、金管を強調して気合十分。第3楽章は弦の美しさが際立つ。ホルンのトップは坂東さんだったが、くだんのソロは楽譜通り4番奏者が吹いた。初めてみる若い男性、新しく入った契約団員なのかゲストなのか分からないけどすごく上手い。演奏後、大植は真っ先に4番奏者を立たせ称えたが、さもありなん。終楽章はうねるうねる、パウゼは深く、タメも十分、濃厚な演奏を繰り広げた。そんな大植の指揮にオケは食らいつき、合唱も久野綾子や岸本大などが参加するプロ集団だから一分の隙も無い。
吃驚したのはソリストと合唱団が舞台へ登場する場面。席はP席ではなくオケと同じ舞台上に用意されていた。普通は第2楽章が終わったあとソリストと合唱とが入場するか、合唱団ははじめから待機しソリストのみ第3楽章の前に着席する。ところが、今日は最終楽章が開始されてもソリストや合唱団が出てこない。空席のまま。
トランペットが鳴り、オケは先行楽章の主題をひとつひとつ否定し、新たな歓喜のテーマを低弦が提示する。そのときようやく上手からバリトンの萩原潤が、遅れてテノールの村上公太が入場した。2人は舞台上でハグしたり肩を叩きあったりしてちょっとした演技をする。下手からはメゾの藤井麻美とソプラノの宮地江奈が続き、4人が揃うと握手をしたり周りを見まわしたり小歌劇のように振舞う。
そのうちに、40人ほどの合唱団が舞台奥の定位置についた。歓喜のテーマが各楽器によって演奏され丁度終わるところだった。おもむろにバリトンの萩原が「O Freunde」と歌いだす。こんな演出は前代未聞、大植のアイデアだろう。意表をつかれたものの、これはこれで感心し納得してしまった。
それと、はじめて気づいたのだが大植の指揮棒が奇妙な動きをする。ときどき逆手に持ち替え、いつのまにか指揮棒が消える。指揮棒を譜面台に置く指揮者はいるけど、大植はどうやら上着の袖のなかへ入れてしまうようだ。指揮棒を袖のなかへ入れたまま両手の指先をヒラヒラさせ指示する。その指示も非常に細かく丁寧な場合と、まったく奏者に任せてしまうときがある。指揮の不思議もひとつのマジックかもしれないと思う。
それにしても大植の音楽は外連味たっぷり。だけど、わざとらしさとか嫌味は感じない。古典派というよりロマン派のベートーヴェン。振幅が大きく堂々として懐かしさを覚えるベートーヴェンだった。
明日、19時からミューザでも同一プログラムによる公演がある。横浜は完売だったが川崎は残券があるようだ。
今年最後の演奏会、一年が終わった。
2024年の演奏会のまとめ ― 2024年12月31日 10:43
今年は50公演を聴いた。昨年を僅かに下回ったけど、それでもほぼ週1回のペース。演奏会通いを半減させるつもりが全く実現できていない。
プロオケでは会員となっている東響と神奈川フィルが二桁、他はせいぜい1回か2回程度。老舗のN響と新興のパシフィルは一度も聴かなかった。アマオケは月1の頻度。これ以外に声楽や室内楽が加わる。いつものことながら随分と偏っている。
遠い会場や夜の公演、連日の演奏会を極力避けるようにしたから、身体への負担はだいぶ軽減された。体調不良で無駄にしたチケットもなかった。
しかし、記憶力の衰えと感性の摩耗は隠しようがなく、記録を繙いても思いだせない演奏が結構ある。涙脆くなっているものの身震いする感動がいつまでも残るということが稀になってきた。歳のせいか片っ端から忘れて行く。
好みの中心はオーケストラ作品で変わらないが、ここ数年は管弦楽曲よりも歌劇のほうに心を動かされることが多い。正直オペラは不案内でモーツァルトの後期、Rシュトラウスやプッチーニ、ヴェルディやワーグナーの一部作品くらいしか知らない。でも、一昨年の「サロメ」、昨年の「アニオー姫」と「エレクトラ」は衝撃だったし、今年の演奏会でいえば「ばらの騎士」と「ラ・ボエーム」、それに「コジ・ファン・トゥッテ」が真っ先に思い浮かぶ。
「ばらの騎士」はノット×東響によるR.シュトラウスのコンサートオペラの完結編。これはもう理想的な出来栄え。指揮者、オケ、歌手、演出とも望むべき全てを満たしてくれた。
演奏会形式ながらサー・トーマス・アレンのP席やオーケストラ席まで活用した手際よい舞台づくりや、狭いスペースにおける巧みな人物の動かし方に感心した。大仰な装置がないだけで「ばらの騎士」の雰囲気を十分醸し出していた。
もちろん、それに応えたのは達者な歌手たち。とりわけ贔屓のミア・パーションの気品、表情、立ち居振る舞いにはただただ見惚れるばかり。声量はそれほどでもないけど、大詰めの三重唱は当然のこと、第1幕終盤の過ぎ去る時間を嘆く元帥夫人には全面降伏だった。
劇における出ずっぱりはオックス男爵とオクタヴィアンの二人だが、アルベルト・ペーゼンドルファーはこれぞオックス男爵というべき歌手、そのリアリティたるや身の回りの何人かを思い浮かべるほど。カトリオーナ・モリソンは声量が豊富で、ちょっと力任せのところがあって、ケルビーノと重ならないのが多少の難点といえるかも知れないけど、最後の三重唱、二重唱ではアンサンブルの要となって好印象。ゾフィーのエルザ・ブノワもファーニナルのマルクス・アイヒェも適役となれば、本当に贅沢で夢のような歌手陣だった。
そして、ノットと東響。「ばらの騎士」は「サロメ」や「エレクトラ」のように勢いや力強さだけで押し切るにはどうにもならない音楽ながら、そこはモーツァルトにおいて優雅でありつつ清新な音楽を聴かせてくれた指揮者とオケだから、期待以上の演奏を展開してくれた。第1幕の前奏曲、第2幕のワルツ、第3幕の化け物屋敷の設営場面など、再び聴きたい演奏を数えあげたらきりがない。ノットと東響の相互作用は究極の高みに達し、両者の一体感は快感そのものだった。
引退を宣言している井上道義が最後に選んだオペラが「ラ・ボエーム」。何故「ラ・ボエーム」なのかという詮索はさておき、結果は後々まで語り継がれる舞台となった。
井上は長患いのまま直前に再発した病を押して振ってくれた。その音楽は限りなく優しかった。驚いたのは強面で有名な読響があんなにも細やかに甘く切なく井上の棒について行ったことだ。井上の“何か”がオケに乗り移った、そうとしか考えられない演奏だった。
「ラ・ボエーム」も歌手は粒ぞろい。ミミのザン・マンタシャンとロドルフォの工藤和真は最高の恋人同士、ムゼッタのイローナ・レヴォルスカヤとマルチェッロの池内響もお似合い。コッリーネのスタニスラフ・ヴォロビョフ、ショナールの高橋洋介が加わり、これだけ歌手陣の水準が高いと安心して音楽に集中することができた。
演出の森山開次は美術、衣装を併せて担当し、様々な工夫を加えて斬新な舞台をつくりあげた。基本的には甚だしい逸脱もなく大向こうを唸らせるような突飛なことはしていないのだけど、ダンサーを登場させるとか、画家のマルチェッロを藤田嗣治に見立てるとか、幕間に小劇を挟み場面転換するとか、アイデアが一杯つまった演出で視覚的にも大いに楽しめた。
いやいや、プッチーニが書いて井上道義が指揮した音楽に関しては、最初から最後まで泣かされっぱなしだったけど。
アルミンクが新日フィルを指揮した二期会の主催公演「コジ・ファン・トゥッテ」の美しさにも魅了された。穏やかなテンポによる繊細な音楽が心の底まで沁みわたり、各楽器のひとつひとつの音がそれぞれ意味を持っているかのように聴こえた。愚かにもアルミンクを過小評価していたのかも知れない。時を経たアルミンクを再認識することとなった。
二期会の歌手たちは重唱の多いこのオペラを精妙なアンサンブルでもって応えてくれた。不謹慎で不実な物語だけど散りばめられた歌は誠の心情を訴えてくる。いつものことながらモーツァルトの音楽の凄みにとことん圧倒された。
シャンゼリゼ劇場との共同制作でロラン・ペリーによる演出だという。18世紀のナポリでなく現代風の録音スタジオに読み替えた舞台ではあったが、大きな違和感はなく、装置も衣装も簡素で音楽をやたら邪魔することがないのが幸いだった。
このとき観賞したキャストとは別キャストによる録画が、年明けにNHKで放映される。楽しみに待ちたい。
歌劇3作品を除いた管弦楽曲となると、先ずは広上淳一の指揮を取り上げるべきだろう。神奈川フィルとの「わが祖国」、日フィルとのリゲティ「ヴァイオリン協奏曲」とシューベルト「グレイト」、東京音大とのプロコフィエフ「交響曲第5番」である。
「わが祖国」はじっくりと腰の据わった演奏、神奈川フィルの鳴りっぷりも豪快そのもの。「ヴァイオリン協奏曲」は変則的なオケ編成、ソロとオケとのアンバランスな並走、混沌としたリズムなど、まさしくリゲティなのだが、広上は米元響子と共にいとも容易く捌いて行く。現代音楽なのに身体が反応し感情が徐々に高ぶってきたのには吃驚した。「グレイト」はコクがあってたっぷりとした古風な演奏。音大オケの熱演によるプロフィエフは、重量感と軽快さを使い分け、とても学生たちの集団とは思えないほどの仕上がり。いま広上は邦人指揮者なかで一番脂が乗っている。
会員となっている神奈川フィルは、監督の沼尻竜典がマーラーの「交響曲第7番」、ブルックナーの「交響曲第5番」、ヴェルディの「レクイエム」など大曲を披露してくれたが、どういうわけか影が薄い。デニス・ラッセル・デイヴィスと滑川真希の協演によるグラスの「Mishima」や、大植英次の「第九」のほうが意外性や外連味があって興奮した。
今年の沼尻であればチェロの上野通明とヴィオラの田原綾子を伴い、桐朋学園を指揮した「ドン・キホーテ」が屈指というべき演奏であった。驚くべきバランス感覚と色彩感覚でもって、沼尻は時としてとてつもない音楽を築くことがある。この「ドン・キホーテ」がまさしくそうだった。
それにしても音大の演奏会は侮れない。年末の音大オケ・フェスティバルと年度末の音大合同オケの公演は恒例行事である。3月の合同オケを指揮したカンブルランの「ダフニスとクロエ」も緻密で隙がなく完成度の高い演奏だった。合同オケといえば昨年は井上の「シンフォニア・タプカーラ」があり、来年は沼尻によるショスタコーヴィチの「交響曲第4番」が予定されている。今から待ち遠しい。
神奈川フィルとともに定期会員となっている東京交響楽団。ノット指揮では「ばらの騎士」以外、ブルックナー「交響曲第7番」、「大地の歌」、「運命」を聴いた。ノットのマーラーは、フェスタサマーミューザにおける急遽代役として新日フィルを振った「夜の歌」もそうだけど、部分部分は面白くても全体となるとなぜか希薄に感じることがある。ところが声楽が入った「大地の歌」は、各楽章の描き分け方の巧みさ、細部の表情の豊かさでもって最良の演奏となった。完璧に歌ったメゾのドロティア・ラング、テノールのベンヤミン・ブルンスの功績も大きい。過去のスダーンの名演に匹敵するものだった。
そのスダーンはベートーヴェンの「田園」と「交響曲第4番」を振ってくれた。実演に恵まれなかった「4番」の決定稿となった。サカリ・オラモはドヴォルザーク「交響曲第8番」において、テンポの揺らぎ、落差のある強弱などを駆使して、情熱的で彫の深い音楽を聴かせてくれた。
ウルバンスキも相変わらず絶好調、「展覧会の絵」とショスタコーヴィチ「交響曲第6番」をメインとした2つの公演である。「展覧会の絵」はスマートな演奏でありつつもコーダでは変態的なタメをみせて面目躍如。「第6番」は不安定な構造の難しい交響曲だが、静と動、明と暗の対比も鮮やかに一気に駆け抜けた。来年は都響を相手に同じショスタコーヴィチの「第5番」を振る。楽しみに待ちたい。
都響といえば久しぶりにフルシャを聴いた。ブルックナーの「交響曲4番」は強靭な鋼のような演奏で、ちょっと聴き疲れをした。お国物のスメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークの組合せは気持ちよい演奏会だった。華やかな歌劇「リブシェ」序曲で始まり、フルシャ自身が編曲した「利口な女狐の物語」で次々とエネルギーあふれる音楽を繰り出し、ドボルザークの珍しい「交響曲第3番」では真摯で誠実な音楽が鳴っていた。
あと、特筆すべき演奏会としては、二期会の企画によるミシェル・プラッソンの日本最終公演が忘れられない。フォーレの「レクイエム」をメインにラヴェルの2曲を組み合わせたもの。終戦の日と重なった「レクイエム」は穏やかで過剰な感傷のない音楽が安息をもたらしてくれた。プラッソン90歳の音楽は気高く慈愛に満ちていた。東フィルの音は柔らかく滑らかに溶け合い、二期会ともどもその献身的な演奏・歌声に胸が熱くなった。
もうひとつ、周防亮介によるヴァイオリン協奏曲集。一夜でパガニーニ、ブルッフ、シベリウスを一気に弾くという無謀な企画。渡邊一正指揮による日フィルの伴奏による。曲芸の類では決してない。パガニーニはオペラ・ブッファのように軽やかに、ブルッフは甘美な熱狂をまとい、シベリウスは秘めた情念として弾き分けた。周防のヴァイオリンは、それぞれの協奏曲における今までのベストワンに並ぶほどの錬達ぶり、驚嘆するほかない。
結構な頻度で聴いたアマオケのほとんは覚えていないけど、太田弦×ユニコーンSOのブルックナーの「交響曲第8番」は好い演奏だった。極端なアゴーギグやデュナーミクを避け、低音を強調しながら大きくがっしりとした音楽をつくった。太田弦は若手指揮者のなかの筆頭といえよう。東響との「スター・ウォーズ」における茶目っ気ぶりも微笑ましい。
そして、対極に位置したのは80歳半ばの汐澤安彦。白金フィルによるスッペ、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ。オペレッタの序曲とは思えないほど巨大で感動的な「軽騎兵」で開始され、孫ほど歳の違う中谷哲太朗をサポートした「ヴァイオリン協奏曲」を経て、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」に至り懐深い奥行きのある音楽をつくりあげた。アンコールの「ニムロッド」も絶品だった。汐澤翁の健在ぶりが嬉しい。
室内楽では神奈川フィルの弦楽メンバーとピアノ・嘉屋翔太による「エロイカ」の四重奏版、クァルテット・インテグラに山崎伸子が参加したシューベルトの「弦楽五重奏曲」、岩田達宗がシューベルトの歌曲を小歌劇に仕立て、小森輝彦が歌い演じた「水車屋の美しい娘」をベストスリーとしておこう。
来年も東響と神奈川フィルの会員を継続する。東響は大規模な声楽曲がプログラムされ、神奈川フィルは特別公演としてワーグナーの「ラインの黄金」が予定されている。ひょっとしたら今後「リング」の連続上演に繋がるかもしれない。沼尻竜典はびわ湖ホールで「リング」を完成させているから期待できそうだ。
夏と冬は川崎でフェスタサマーミューザと音大フェスティバルがある。加えて室内楽、歌劇も幾つか選ぶことになるだろう。なかなか演奏会通いを減らせそうもない。しかし、考えてみれば演奏会に足を運ぶことができるのは、心身がまずまずだからこそ。感謝しなければならない。