マッドマックス フュリオサ ― 2024年06月13日 16:37
『マッドマックス フュリオサ』
原題:Furiosa: A Mad Max Saga
製作:2024年 アメリカ
監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー、ニック・ラザウリス
音楽:トム・ホルケンボルフ、
出演:アニヤ・テイラー=ジョイ、トム・バーク、
クリス・ヘムズワース、チャーリー・フレイザー
「マッドマックスシリーズ」の熱狂的な信者というわけでは勿論ない。『怒りのデス・ロード』はシャーリーズ・セロンに惹かれてたまたま観ただけ。シリーズを追いかけて来たわけでも、追いかけるつもりもさらさらない。
そもそも監督ジョージ・ミラーのどぎつい映画世界に共感することが難しい。前作ではディストピア的な舞台背景や、ヒロインのフュリオサの正体がよくわからないまま、強烈なアクションと珍奇な車両たちに圧倒されたばかりだった。
今回はフュリオサの前日譚だという。シリーズの主人公マックス・ロカタンスキーの物語ではないからスピンオフ作品ということだろう。
映画史上でも稀なスーパー・ウーマン誕生の秘密が解明されるかも知れない。それにフュリオサ役がセロンからアニヤ・テイラー=ジョイに代わった。ジョイはモデル出身らしいが『ノースマン』では体当りの熱演で、先日の『デューン 砂の惑星 PART2』にもちらっと顔を出した。次の「DUNE」の完結編では重要な役を担いそうだ。彼女が若きフュリオサをどう演じるのか、少なからず興味がある。
劇場は平日の昼のせいもあるけどガラガラだった。あまりに人気がなくて拍子抜け。全米でもRotten Tomatoesの評価など好意的だが、興業成績はあまり芳しくない。本当かどうか、ハリウッドのフェミ推し、ポリコレ推しへの反発なのだ、という穿った意見もあるようだ。
それはさておき、本作によって終末世界のバックグラウンドはより鮮明になったし、戦士フェリオサのフェリオサたる所以も理解できた。画面に溢れる相変わらずのバイオレンスも、いっそ様式として観れば、エグさというよりは空絵ごととして単純に楽しめる。
アニヤ・テイラー=ジョイは台詞が極端に少ないながら目力が半端なく、抑圧した激情と凄みを見せつけた。相棒を演じたトム・バークはクールで猛々しい。クリス・ヘムズワースは滑稽味と残虐さが同居するヴィランとなって卓抜な存在感を示す。フェリオサの母親役チャーリー・フレイザーの計り知れない強さは娘に遺伝したのだろうと身震いする。そう、少女フェリオサを好演したアリーラ・ブラウンも忘れられない。配役の妙が際立っていた。
ジョージ・ミラーはほぼ80歳、化け物である。『アラビアンナイト 三千年の願い』などという粋なファンタジー映画も監督しているけど、この御年で「マッドマックスシリーズ」に注ぎ込んだ膨大なエネルギーに驚嘆する。
音楽は『ゴジラ×コング 新たなる帝国』のトム・ホルケンボルフ。よくもドーパミンが噴出する楽曲を続けて書けるものだ。
映画総体として完成度は高く、期待を裏切られることはない。
最近は動画配信の普及により、家庭で気楽に映画を楽しむことができる。それでも大画面・大音響が絶対に必要な映画がある。クエンティン・タランティーノ、クリストファー・ノーラン、ドゥニ・ヴィルヌーヴなどの作品は押並べてそうだろう。
『フュリオサ』においても、荒涼たる砂漠、奇っ怪な燃料基地や武器弾薬貯蔵所、独裁者イモータン・ジョーの砦、そこでの銃撃戦や肉弾戦。変態的な車やバイクが縦横無尽に走り回り、粉塵が舞い、火薬が炸裂し、火炎が埋めつくす。大画面・大音響であればこそのシーンが連続する。その没入感は一種の快楽といえる。
『怒りのデス・ロード』における疑問点、モヤモヤ感がこの映画によって払拭されエンド・タイトルとなり、前作のショットがいくつか挟み込まれる。画像だけでなく生身のシャーリーズ・セロンが登場すればよかったのに、とは贅沢な望みか。
『フュリオサ』は、このまま『怒りのデス・ロード』に繋がり、これで一応エピソードは完結した。動画配信で再度『怒りのデス・ロード』を観ることにしよう。