2022/11/18 沖澤のどか×新日フィル モーツァルト、マーラーそしてブラームス2022年11月18日 19:44



新日本フィルハーモニー交響楽団 
  すみだクラシックへの扉 #11

日時:2022年11月18日(金) 14:00開演
場所:すみだトリフォニーホール 大ホール
指揮:沖澤 のどか
共演:バリトン/大西 宇宙
演目:モーツァルト/フリーメイソンのための
          葬送音楽 K.477
   マーラー/亡き子をしのぶ歌
   ブラームス/交響曲第4番 ホ短調 op. 98


 一度目はウーハンコロナによる入国制限、二度目は出産のため、いずれもキャンセルとなった沖澤のどか、“三度目の正直”である。
 それにしても、よりによって悲劇的な曲を選んだものだ。「フリーメイソンのための葬送音楽」について、アインシュタインは「宗教的な楽曲で…ハ短調荘厳ミサ曲(K.427)とレクイエム(K.626)を結ぶきずな」(『モーツァルト その人間と作品』白水社 476頁)と述べた。「亡き子をしのぶ歌」は、リュッケルトの、二人の子供を失った悲しみを詠いあげた同名詩に基づいている。ブラームスが「交響曲第4番」で目指したのは、「ギリシア悲劇やシェイクスピアの『リア王』『オセロ』ような絶対的な悲劇だ」と金子建志は書いている。悲しみの歌ばかりである。

「フリーメイソンのための葬送音楽」
 管楽器の暗く低い音域の沈鬱な響きと、弦の痛切な鋭い音が全てを物語る。終結部は短調から長調の和音へ転調し、希望が浮かび上がるものの、曲全体は生者が死者に向かい合ったときの慟哭そのものである。10分足らずの短い曲ながら、悲しくも痛ましい心情をこれ以上に表現した曲があっただろうか。
 演奏会の冒頭にこの傑作を持って来るのは卑怯だけど、音盤でもワルター、クレンペラーなど偉大な指揮者の名盤がそろっていて、これらを聴いて育った人間を、実演だからといって説得するのはなかなか難しかったようだ。
 
「亡き子をしのぶ歌」
 マーラーの連作歌曲は本作と「さすらう若人の歌」のふたつのみ。歌詞は悲痛の極みで曲もとうぜん明るくはない。しかし、円熟を増したマーラー中期の作品で美しい。とくにホルンの音色は意味深い。
 第1曲「いま、太陽は明るく昇らんとする」、第2曲「いまならわかる、なぜあれほど暗い炎を」、第3曲「おまえのお母さんが」、第4曲「よく思う、あの子たちは出かけているだけ」、第5曲「こんな天気、こんな風のなか」の全5曲。曲と詩の実際はこれらのタイトルからも窺い知ることができる。
 息の長いメロディ、独特の和声の動き、管楽器の重ね合わせ、低音楽器の表情付けなどを駆使して、マーラーは心理と景色を描いて行く。子守歌のような曲全体の結尾は、完全に「大地の歌」の告別に通じている。
 大西さんは厚い管弦楽の響きを掻い潜って確実にマーラーの歌を届けてくれた。彼を聴くのは二度目、今、もっとも注目すべき声楽家の一人だ。オケでは日高さんのホルンがさすが立派だった。

「交響曲第4番」
 アウフタクトで開始、3度の下降音列による構成、終楽章が懐古的なシャコンヌ。情緒的に見えながら理論的な考えのもとに書かれている。
 ブラームスを感情の赴くまま緩く演奏すると聴くに耐えないものとなるのは衆知の通り。音盤におけるセルの素晴らしさが逆にこれを証明している。実演では大昔バルシャイ×東フィルの精緻な演奏に涙が途切れることがなかった。東フィルはときとして荒っぽい演奏になることがあるが、指揮者に恵まれると驚異的な精度を保ち感動させる。
 第1楽章、ソナタ形式、ホ短調はめずらしい、前半部は3度下降進行の連続、終結部は讃美歌のアーメン終止。第2楽章には教会旋法、ここでも執拗な3度進行、寂寥感がただよう。第3楽章は2拍子のスケルツォ、おどけた進軍のよう、威勢がいいけどカラ元気ともいえる。第4楽章、バロック時代に頂点を迎えた変奏曲形式(30変奏とコーダを伴うシャコンヌ<パッサカリア>)。ここでのトロンボーンは神託か。教会音楽の要素を用いることによって、宗教や死を自ずから連想させるようにつくられている。
 沖澤のどかは、前半、ちょっと優等生的な指揮ぶりだったが、ブラームスになって小柄な身体を大きく使い、身振りが激しくなった。アンサンブルの精度はもうひとつだが、音楽の表情はたしかに濃厚になり、熱演であった。
 ブラームスが交響曲において、古き時代のシャコンヌを用いたことは、後世へ少なからぬ影響を与えた。ドヴォルザークは「交響曲第8番」の最終楽章で変奏曲形式を採用した。ヴェーベルンは管弦楽による「パッサカリア」を書いた。ショスタコーヴィチ、ブリテンなども管弦楽のためのシャコンヌ、パッサカリアを作曲している。ブラームスの「交響曲第4番」は、それまでの作曲技術に新たな焦点をあて、次世代へ継承したともいえる。懐古主義者ブラームスではなく、先駆者ブラームスとしての面目躍如である。