2024年の演奏会のまとめ ― 2024年12月31日 10:43
今年は50公演を聴いた。昨年を僅かに下回ったけど、それでもほぼ週1回のペース。演奏会通いを半減させるつもりが全く実現できていない。
プロオケでは会員となっている東響と神奈川フィルが二桁、他はせいぜい1回か2回程度。老舗のN響と新興のパシフィルは一度も聴かなかった。アマオケは月1の頻度。これ以外に声楽や室内楽が加わる。いつものことながら随分と偏っている。
遠い会場や夜の公演、連日の演奏会を極力避けるようにしたから、身体への負担はだいぶ軽減された。体調不良で無駄にしたチケットもなかった。
しかし、記憶力の衰えと感性の摩耗は隠しようがなく、記録を繙いても思いだせない演奏が結構ある。涙脆くなっているものの身震いする感動がいつまでも残るということが稀になってきた。歳のせいか片っ端から忘れて行く。
好みの中心はオーケストラ作品で変わらないが、ここ数年は管弦楽曲よりも歌劇のほうに心を動かされることが多い。正直オペラは不案内でモーツァルトの後期、Rシュトラウスやプッチーニ、ヴェルディやワーグナーの一部作品くらいしか知らない。でも、一昨年の「サロメ」、昨年の「アニオー姫」と「エレクトラ」は衝撃だったし、今年の演奏会でいえば「ばらの騎士」と「ラ・ボエーム」、それに「コジ・ファン・トゥッテ」が真っ先に思い浮かぶ。
「ばらの騎士」はノット×東響によるR.シュトラウスのコンサートオペラの完結編。これはもう理想的な出来栄え。指揮者、オケ、歌手、演出とも望むべき全てを満たしてくれた。
演奏会形式ながらサー・トーマス・アレンのP席やオーケストラ席まで活用した手際よい舞台づくりや、狭いスペースにおける巧みな人物の動かし方に感心した。大仰な装置がないだけで「ばらの騎士」の雰囲気を十分醸し出していた。
もちろん、それに応えたのは達者な歌手たち。とりわけ贔屓のミア・パーションの気品、表情、立ち居振る舞いにはただただ見惚れるばかり。声量はそれほどでもないけど、大詰めの三重唱は当然のこと、第1幕終盤の過ぎ去る時間を嘆く元帥夫人には全面降伏だった。
劇における出ずっぱりはオックス男爵とオクタヴィアンの二人だが、アルベルト・ペーゼンドルファーはこれぞオックス男爵というべき歌手、そのリアリティたるや身の回りの何人かを思い浮かべるほど。カトリオーナ・モリソンは声量が豊富で、ちょっと力任せのところがあって、ケルビーノと重ならないのが多少の難点といえるかも知れないけど、最後の三重唱、二重唱ではアンサンブルの要となって好印象。ゾフィーのエルザ・ブノワもファーニナルのマルクス・アイヒェも適役となれば、本当に贅沢で夢のような歌手陣だった。
そして、ノットと東響。「ばらの騎士」は「サロメ」や「エレクトラ」のように勢いや力強さだけで押し切るにはどうにもならない音楽ながら、そこはモーツァルトにおいて優雅でありつつ清新な音楽を聴かせてくれた指揮者とオケだから、期待以上の演奏を展開してくれた。第1幕の前奏曲、第2幕のワルツ、第3幕の化け物屋敷の設営場面など、再び聴きたい演奏を数えあげたらきりがない。ノットと東響の相互作用は究極の高みに達し、両者の一体感は快感そのものだった。
引退を宣言している井上道義が最後に選んだオペラが「ラ・ボエーム」。何故「ラ・ボエーム」なのかという詮索はさておき、結果は後々まで語り継がれる舞台となった。
井上は長患いのまま直前に再発した病を押して振ってくれた。その音楽は限りなく優しかった。驚いたのは強面で有名な読響があんなにも細やかに甘く切なく井上の棒について行ったことだ。井上の“何か”がオケに乗り移った、そうとしか考えられない演奏だった。
「ラ・ボエーム」も歌手は粒ぞろい。ミミのザン・マンタシャンとロドルフォの工藤和真は最高の恋人同士、ムゼッタのイローナ・レヴォルスカヤとマルチェッロの池内響もお似合い。コッリーネのスタニスラフ・ヴォロビョフ、ショナールの高橋洋介が加わり、これだけ歌手陣の水準が高いと安心して音楽に集中することができた。
演出の森山開次は美術、衣装を併せて担当し、様々な工夫を加えて斬新な舞台をつくりあげた。基本的には甚だしい逸脱もなく大向こうを唸らせるような突飛なことはしていないのだけど、ダンサーを登場させるとか、画家のマルチェッロを藤田嗣治に見立てるとか、幕間に小劇を挟み場面転換するとか、アイデアが一杯つまった演出で視覚的にも大いに楽しめた。
いやいや、プッチーニが書いて井上道義が指揮した音楽に関しては、最初から最後まで泣かされっぱなしだったけど。
アルミンクが新日フィルを指揮した二期会の主催公演「コジ・ファン・トゥッテ」の美しさにも魅了された。穏やかなテンポによる繊細な音楽が心の底まで沁みわたり、各楽器のひとつひとつの音がそれぞれ意味を持っているかのように聴こえた。愚かにもアルミンクを過小評価していたのかも知れない。時を経たアルミンクを再認識することとなった。
二期会の歌手たちは重唱の多いこのオペラを精妙なアンサンブルでもって応えてくれた。不謹慎で不実な物語だけど散りばめられた歌は誠の心情を訴えてくる。いつものことながらモーツァルトの音楽の凄みにとことん圧倒された。
シャンゼリゼ劇場との共同制作でロラン・ペリーによる演出だという。18世紀のナポリでなく現代風の録音スタジオに読み替えた舞台ではあったが、大きな違和感はなく、装置も衣装も簡素で音楽をやたら邪魔することがないのが幸いだった。
このとき観賞したキャストとは別キャストによる録画が、年明けにNHKで放映される。楽しみに待ちたい。
歌劇3作品を除いた管弦楽曲となると、先ずは広上淳一の指揮を取り上げるべきだろう。神奈川フィルとの「わが祖国」、日フィルとのリゲティ「ヴァイオリン協奏曲」とシューベルト「グレイト」、東京音大とのプロコフィエフ「交響曲第5番」である。
「わが祖国」はじっくりと腰の据わった演奏、神奈川フィルの鳴りっぷりも豪快そのもの。「ヴァイオリン協奏曲」は変則的なオケ編成、ソロとオケとのアンバランスな並走、混沌としたリズムなど、まさしくリゲティなのだが、広上は米元響子と共にいとも容易く捌いて行く。現代音楽なのに身体が反応し感情が徐々に高ぶってきたのには吃驚した。「グレイト」はコクがあってたっぷりとした古風な演奏。音大オケの熱演によるプロフィエフは、重量感と軽快さを使い分け、とても学生たちの集団とは思えないほどの仕上がり。いま広上は邦人指揮者なかで一番脂が乗っている。
会員となっている神奈川フィルは、監督の沼尻竜典がマーラーの「交響曲第7番」、ブルックナーの「交響曲第5番」、ヴェルディの「レクイエム」など大曲を披露してくれたが、どういうわけか影が薄い。デニス・ラッセル・デイヴィスと滑川真希の協演によるグラスの「Mishima」や、大植英次の「第九」のほうが意外性や外連味があって興奮した。
今年の沼尻であればチェロの上野通明とヴィオラの田原綾子を伴い、桐朋学園を指揮した「ドン・キホーテ」が屈指というべき演奏であった。驚くべきバランス感覚と色彩感覚でもって、沼尻は時としてとてつもない音楽を築くことがある。この「ドン・キホーテ」がまさしくそうだった。
それにしても音大の演奏会は侮れない。年末の音大オケ・フェスティバルと年度末の音大合同オケの公演は恒例行事である。3月の合同オケを指揮したカンブルランの「ダフニスとクロエ」も緻密で隙がなく完成度の高い演奏だった。合同オケといえば昨年は井上の「シンフォニア・タプカーラ」があり、来年は沼尻によるショスタコーヴィチの「交響曲第4番」が予定されている。今から待ち遠しい。
神奈川フィルとともに定期会員となっている東京交響楽団。ノット指揮では「ばらの騎士」以外、ブルックナー「交響曲第7番」、「大地の歌」、「運命」を聴いた。ノットのマーラーは、フェスタサマーミューザにおける急遽代役として新日フィルを振った「夜の歌」もそうだけど、部分部分は面白くても全体となるとなぜか希薄に感じることがある。ところが声楽が入った「大地の歌」は、各楽章の描き分け方の巧みさ、細部の表情の豊かさでもって最良の演奏となった。完璧に歌ったメゾのドロティア・ラング、テノールのベンヤミン・ブルンスの功績も大きい。過去のスダーンの名演に匹敵するものだった。
そのスダーンはベートーヴェンの「田園」と「交響曲第4番」を振ってくれた。実演に恵まれなかった「4番」の決定稿となった。サカリ・オラモはドヴォルザーク「交響曲第8番」において、テンポの揺らぎ、落差のある強弱などを駆使して、情熱的で彫の深い音楽を聴かせてくれた。
ウルバンスキも相変わらず絶好調、「展覧会の絵」とショスタコーヴィチ「交響曲第6番」をメインとした2つの公演である。「展覧会の絵」はスマートな演奏でありつつもコーダでは変態的なタメをみせて面目躍如。「第6番」は不安定な構造の難しい交響曲だが、静と動、明と暗の対比も鮮やかに一気に駆け抜けた。来年は都響を相手に同じショスタコーヴィチの「第5番」を振る。楽しみに待ちたい。
都響といえば久しぶりにフルシャを聴いた。ブルックナーの「交響曲4番」は強靭な鋼のような演奏で、ちょっと聴き疲れをした。お国物のスメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークの組合せは気持ちよい演奏会だった。華やかな歌劇「リブシェ」序曲で始まり、フルシャ自身が編曲した「利口な女狐の物語」で次々とエネルギーあふれる音楽を繰り出し、ドボルザークの珍しい「交響曲第3番」では真摯で誠実な音楽が鳴っていた。
あと、特筆すべき演奏会としては、二期会の企画によるミシェル・プラッソンの日本最終公演が忘れられない。フォーレの「レクイエム」をメインにラヴェルの2曲を組み合わせたもの。終戦の日と重なった「レクイエム」は穏やかで過剰な感傷のない音楽が安息をもたらしてくれた。プラッソン90歳の音楽は気高く慈愛に満ちていた。東フィルの音は柔らかく滑らかに溶け合い、二期会ともどもその献身的な演奏・歌声に胸が熱くなった。
もうひとつ、周防亮介によるヴァイオリン協奏曲集。一夜でパガニーニ、ブルッフ、シベリウスを一気に弾くという無謀な企画。渡邊一正指揮による日フィルの伴奏による。曲芸の類では決してない。パガニーニはオペラ・ブッファのように軽やかに、ブルッフは甘美な熱狂をまとい、シベリウスは秘めた情念として弾き分けた。周防のヴァイオリンは、それぞれの協奏曲における今までのベストワンに並ぶほどの錬達ぶり、驚嘆するほかない。
結構な頻度で聴いたアマオケのほとんは覚えていないけど、太田弦×ユニコーンSOのブルックナーの「交響曲第8番」は好い演奏だった。極端なアゴーギグやデュナーミクを避け、低音を強調しながら大きくがっしりとした音楽をつくった。太田弦は若手指揮者のなかの筆頭といえよう。東響との「スター・ウォーズ」における茶目っ気ぶりも微笑ましい。
そして、対極に位置したのは80歳半ばの汐澤安彦。白金フィルによるスッペ、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ。オペレッタの序曲とは思えないほど巨大で感動的な「軽騎兵」で開始され、孫ほど歳の違う中谷哲太朗をサポートした「ヴァイオリン協奏曲」を経て、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」に至り懐深い奥行きのある音楽をつくりあげた。アンコールの「ニムロッド」も絶品だった。汐澤翁の健在ぶりが嬉しい。
室内楽では神奈川フィルの弦楽メンバーとピアノ・嘉屋翔太による「エロイカ」の四重奏版、クァルテット・インテグラに山崎伸子が参加したシューベルトの「弦楽五重奏曲」、岩田達宗がシューベルトの歌曲を小歌劇に仕立て、小森輝彦が歌い演じた「水車屋の美しい娘」をベストスリーとしておこう。
来年も東響と神奈川フィルの会員を継続する。東響は大規模な声楽曲がプログラムされ、神奈川フィルは特別公演としてワーグナーの「ラインの黄金」が予定されている。ひょっとしたら今後「リング」の連続上演に繋がるかもしれない。沼尻竜典はびわ湖ホールで「リング」を完成させているから期待できそうだ。
夏と冬は川崎でフェスタサマーミューザと音大フェスティバルがある。加えて室内楽、歌劇も幾つか選ぶことになるだろう。なかなか演奏会通いを減らせそうもない。しかし、考えてみれば演奏会に足を運ぶことができるのは、心身がまずまずだからこそ。感謝しなければならない。