バッドボーイズ RIDE OR DIE ― 2024年07月02日 16:35
『バッドボーイズ RIDE OR DIE』
原題:Bad Boys: Ride or Die
製作:2024年 アメリカ
監督:アディル・エル・アルビ、ビラル・ファラー
脚本:クリス・ブレムナー、ウィル・ビール
音楽:ローン・バルフェ
出演:ウィル・スミス、マーティン・ローレンス、
バネッサ・ハジェンズ、パオラ・ヌニェス
アカデミー賞授賞式において妻の容姿を揶揄され、相手を「平手打ち」にしたウィル・スミス。動機に同情すべきはあったものの、公的な場所で責任ある大人が暴力を振るうことなど許されない、というのが大方の見解だった。
その後、ウィル・スミスは自ら謹慎をしていたが、このたび代表作ともいえる『バッドボーイズ』シリーズで復帰した。日本では目立ってブレイクしているわけではないが、全米では大ヒットを記録、興行的な成功は彼の復活を確実にした。大いに祝福しよう。
マイアミ市警の「悪友」ことマイク(ウィル・スミス)とマーカス(マーティン・ローレンス)は、いつものように悪ふざけばかり。ところが彼らの亡き上司ハワード警部が麻薬組織とつながっていたという疑惑が浮上する。二人は上司の汚名を晴らすため独自に捜査を始めるが、巨大な陰謀に巻き込まれ警察と犯罪組織の両方から容疑者として追われる身となってしまう…
30年近くも続いているシリーズ4作目、ストーリーは2020年の前作『フォー・ライフ』とつながっている。定番の強烈なアクションとお笑いだけでなく、マイクの結婚やマーカスの身体の変調という設定もあり、二人とも家庭への責任を背負いながら肉弾戦を繰り広げる。それを思いっきり助けるのがマイクの息子とマーカスの娘婿、強い強い!まさに無敵。
加えて感動のシーンがある。マイクは過去のトラウマによって闘いのさなかパニック障害を起こし、相棒マーカスから何度も「平手打ち」にされ自分を取り戻す。これは当然あのスキャンダルを意識したもので、ウィル・スミスの復活への決意の現れに違いない。ちょっとウルウルしてしまう。
監督は前作と同様、アディル・エル・アルビ&ビラル・ファラー。カメラワークが斬新でカラフルかつポップな映像を背景に、シューティングゲーム感覚の視点が面白い。
「悪友」たちは、マイクはもちろんマーカスもお爺ちゃんにしては若くて元気いっぱい。ハリウッドらしくバディ映画としてもアクション映画としても理屈なしに楽しめる。
2024/7/5 フルシャ×都響 ブルックナー「交響曲第4番」 ― 2024年07月05日 20:58
東京都交響楽団 都響スペシャル
日時:2024年7月5日(金) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:ヤクブ・フルシャ
共演:ヴァイオリン/五明 佳廉
演目:ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 op.26
ブルックナー/交響曲第4番 変ホ長調 WAB104
「ロマンティック」
フルシャは此度の来日で2つのプログラムを2日間ずつ振った。ひとつは先日のチェコ音楽、もうひとつが昨日・今日の独墺音楽である。2つのプログラムを聴けば朧気ながらフルシャの現在地が分かろうというもの。
前半はブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」、独奏の五明佳廉は日本生まれのモントリオール育ち。スズキ・メソッドで学び、ドロシー・ディレイに師事した。北米でキャリアを積み、今では舞台を世界に広げている。何十年も前から活躍しているヴァイオリニストなのに初めて聴く。
歯切れのいい音ながらここぞという場面ではヴィブラートを強めて情緒纏綿と歌う。ことに第2楽章がよかった。フルシャのバックも丁寧かつ強力で、やはりブルッフのこの楽曲は心に響く。
後半はブルックナーの「交響曲第4番」。ブルックナーの演奏は、いつも版の問題がついて回るが、正直、聴いているだけでは部分的に違和感が生じる程度でよく分からない。今回は「第4番」の3つの稿のうち最も一般的な2稿(1878/80年)をコーストヴェットが2018年に校訂した最新の版だという。
コーストヴェット版はハース版とノヴァーク版の中間的な選択といわれる。もともと2稿についてはハース版もノヴァーク版も大差ないようだから、このコーストヴェット版は聴きなれた「ロマンティック」となっていた。
フルシャのブルックナーは巨きくて立派。ダイナミックレンジが広く緩急は自然、パウゼも納得の呼吸だった。下手な小細工をせず音楽の流れに忠実な演奏。しかし、微笑がこぼれたり涙に濡れたりするほどではなく、感情が強く揺さぶられることはなかった。どこといって不満があるわけではないが、強固な設計に感心したものの、わずかに即興性の乏しさを感じたせいなのかもしれない。
都響の大野監督のあとはフルシャが適任ではないかと夢想してみた。今はアラン・ギルバートのほうが有力なのだろうけど、こと、ブルックナーの「第4番」に関して言えば、数年前に聴いたタケシより今日のフルシャのほうに軍配をあげたい。
コンマスは矢部達哉、トップサイドは水谷晃。先週同様のツートップで万全の体制。同一プログラムの昨夜の定期は完売公演だったらしい。今日も平日の昼公演としては良く入っていた。
生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界 ― 2024年07月09日 16:44
JRあるいは東急の目黒駅から目黒通りを東へ歩いて10分ほど、首都高速道路の高架をくぐると東京都庭園美術館がある。
本館は昭和初期に皇族朝香宮家の自邸として建てられ、昭和の終わり近くになって美術館として開館した。都心ながら緑豊かな「日本庭園」「西洋庭園」「芝庭」に囲まれた宮廷時代の面影を残すアール・デコ様式の歴史的建造物で、10年ほど前、国の重要文化財に指定された。
いまここで生誕140年、没後90年にあたる竹久夢二展が開催されている。夢二の故郷岡山にある夢二郷土美術館のコレクションを中心とした200点近くの作品展である。
グラフィックデザイナーだけではなく近代画家としての夢二にスポットをあて、油彩画も10数点が出展された。最初期の「初恋」、新発見の「アマリリス」、滞米中の「西海岸の裸婦」などである。夢二は生涯に油絵を30点ほど残しており、そのうちのほぼ半数が集められている。
「初恋」は濃い色調のほの暗い絵で和服姿のうつむきかげんの女性が描かれているが夢二のイメージからは少々遠い。「アマリリス」は色白な肌に憂いを帯びた瞳、赤い唇、そして大きな手、と典型的な夢二美人である。「西海岸の裸婦」は印象派の影響が明らかだけど、縦に長く引き伸ばされたような女性像がモディリアーニを思い起こさせる。
もちろん雑誌の表紙や挿絵、広告チラシも多数あり、珍しいスケッチブックや素描なども展示され、夢二の軌跡を辿ることができる。
展示会場は本館だけでなく21世紀になってから建設された新館にも及んでいる。館内には喫茶軽食のサービスもある。この猛暑ではあまりお勧めできないが、展覧会を観たあと三つの庭園を散策するのも一興。
東京での催しは8月25日まで。10時~18時開館で月曜日は休館。団体や学生・シニア割引など普通の割引制度のほか、面白いのは会期中きものを着て来館するとドレスコード割引が適用される。また、7月19日以降の毎週金曜日はサマーナイトミュージアムとなり21時まで延長され、17時以降の入場が割引となる。
本企画は東京での展示が終わったあと、岡山や大阪など全国5館を巡回する予定となっている。
2024/7/13 広上淳一×日フィル リゲティとシューベルト ― 2024年07月13日 21:15
日本フィルハーモニー交響楽団
第762回 東京定期演奏会
日時:2024年7月13日(土) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:広上 淳一
共演:ヴァイオリン/米元 響子
演目:リゲティ/ヴァイオリン協奏曲
シューベルト/交響曲第8番 ハ長調 D.944
「グレイト」
先ずは、難曲中の難曲、リゲティの「ヴァイオリン協奏曲」から。
リゲティを初めて聴いたのは、『2001年 宇宙の旅』の中でのことだったと思う。クラシックの音盤を集め出した頃で、R・シュトラウスやJ・シュトラウスの音楽に感激しながら、リゲティについてはその音響が耳に残ったものの、作家にも音楽にも関心が持てなかった。当たり前だろう、旋律も和音も茫漠として音響操作のみでつくられているようなゲンダイ音楽など理解できるわけがない。
その後、ほとんど絶縁状態のまま何の支障もなかったのだけど、ノットが東響の監督になってからしきりとリゲティを取り上げる。「ハンガリアン・ロック」「ポエム・サンフォニック」「ルクス・エテルナ」「レクイエム」など嫌でも聴かされる。ノットはベルリン・フィルを指揮して「リゲティの全管弦楽作品全集」を録音しているくらいだから、好みの音楽のひとつなのだろう。東響定期における「ルクス・エテルナ」や「レクイエム」では強い印象を受けた。そして、これらが『2001年 宇宙の旅』でも使われていた楽曲だと半世紀ぶりに確認することなる。
そのリゲティ晩年の傑作といわれる「ヴァイオリン協奏曲」はいつか生で聴いてみたいと思っていた。昨年のコパチンスカヤと大野和士×都響との公演は聴き逃した。さいわい当日の模様はYouTubeで公開されているので一応予習をかねて視聴した。
今日、ようやく米元響子と広上×日フィルによるライブを聴く。米元響子は広上が可愛がっているようだ。何度か協演するのを目にする。米元はベルキンに師事しており、広上とベルキンは友人同士だからその関係もあるのかも知れない。どちらにせよソロと指揮者とは気心の知れた間柄だろう。米元のモーツァルトやベートーヴェンの協奏曲は良かった。果たしてリゲティはどうか。
リゲティの「ヴァイオリン協奏曲」の伴奏は小さな編成である。弦はヴァイオリンが3+2、ヴィオラ3、チェロ2、コントラバス1。うちヴァイオリンとヴィオラの各1は変則調弦する。木管楽器はリコーダーやオカリナに持ち替える。金管楽器はホルン2とトランペット、トロンボーン。打楽器は現代音楽らしく10種類以上を用意し、極めて多様な音を生み出す。
楽曲は、第1楽章:前奏曲、第2楽章:アリア・ホケトゥス・コラール、第3楽章:間奏曲、第4楽章:パッサカリア、第5楽章:アパッショナート、の5楽章で構成されている。1990年の初演時には3楽章形式だったがその後改訂された。
演奏が始まる。協奏曲といってもソロとアンサンブルはアンバランスに並走する。広上はいとも簡単に巨大なスコアを繰っていく。米元もさすが譜面台を置いている。
聴き手は無調で不協和なリゲティの音楽を解明しようなどと大それたことは考えない。ただその音響にゆだねる。
第1楽章から擦過音が飛び交い、混沌としたリズムが膨れ上がる、鍵盤打楽器は独奏者とのユニゾンが多くあって合わせるだけでも大変そうだ。第2楽章は意外にもアダージョのような詩情がある。途中、木管奏者が本来の楽器をリコーダーやオカリナに持ち替え、調子はずれな音を吹き鳴らす。第3楽章は激烈、カオスの一歩手前の雰囲気。第4楽章は遠くからバロック音楽が聴こえてくる。最終楽章にはカデンツァがあり、何をどう弾くかは奏者に任されている。YouTubeでのコパチンスカヤは、自らのヴァイオリンに合わせて歌い、楽員や会場を巻き込んで叫んだ。米元は歌ったり叫んだりはしない。プログラムノートによれば初演者ガヴリロフのカデンツァに基づいて弾いたようだ。太く豊かな音、多彩な音色で堅苦しさや無愛想さはなく、まさしくヴィルトゥオーゾの至芸としてうならせた。
いつのまにか感情の波が寄せてきて、知らず知らずのうちに身体が反応していた。ソロもオケも見事な演奏だった。いわゆるゲンダイ音楽でこんなに興奮したのは初めてかもしれない。もう一度聴きたいと思ったほどだ。
後半はシューベルトの「グレイト」、最近はこの「グレイト」を通し番号では「第8番」とすることが多いようだ。レコードの時代は「第9番」とされていたはず。
調べてみると、戦後シューベルトの作品目録を作成したドイチェが、それまで未完のものを除いて「第7番」と呼ばれていたこの作品を、演奏される未完の2曲を含め「第9番」とし、それが定着し親しまれていた。ところが、20世紀の終わりころドイチェ番号の改定が行われ、自筆譜のままで演奏できる交響曲は8曲ということで「第8番」とされ、現在はこの「第8番」に統一されつつあるという。つまり「グレイト」は「第7番」→「第9番」→「第8番」と変遷して来たわけだ。
紛らわしい。新しい研究成果に基づき通し番号を付け替えれば混乱するのは無理ない。モーツァルトの場合は最初のケッヘル番号を大事にし、交響曲の通し番号も実際何曲あるのか知らないが「第41番」まで不動である。ブルックナーだって9曲以外に「0番」「00番」とあって当初の番号は変更していない。通し番号も作曲年順だったり、出版年順だったり、そもそも全体数と番号とが対応しないこともある。通し番号といってみても馴染んだ記号、愛称に近いわけで、最新の研究結果でもってそれを屡々変更するのはどうかと思う。
それに交響曲でいう「第9番」は、“第9の呪い”などと面白おかしくいわれ、ベートーヴェンから始まり、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラー、ヴォーン・ウイリアムズなど「第9番」以降の交響曲をつくることができなかった作曲家を列挙して遊ぶことがある、そこからシューベルトを外す必要はないだろうに。
もっとも“第9の呪い”などというのは与太話に過ぎない。ブルックナーやマーラーは9曲以上の交響曲を作曲しているし、ドヴォルザークの「新世界から」は最初「第5番」と呼ばれていたのだから“第9の呪い”などは作り話の類である。でも、人は事実であろうとなかろうと物語さえあれば余分に楽しめるわけで、その楽しみはそっとしておいたほうがいいのではないか、というだけの余談である。
さて、広上の「グレイト」は、近年流行りの速めのテンポによるエキセントリックな演奏ではなく、恰幅が良くまろやかでコクのある落ち着いた演奏である。古風といってもよい。冒頭のホルンの導入部も刺激的ではなく、それに導かれる弦楽器の響きも神秘的だ。推進力に富んでいながらリズムは柔らかくノスタルジックな雰囲気さえある。鄙びた辻音楽を連想させるスケルツォのトリオはこの曲の中で一番好きな箇所だけど、理想的なテンポと節回しで感情を大きく揺さぶる。広上は最終楽章のコーダに向けてスコアを閉じた。両手を広げ、身体を左右に振ってオケを駆り立てる。音楽が集中力を高めながらスケールを増し大団円をつくりあげた。円熟の指揮者の為せる業である。
コンマスは扇谷泰朋。木管のトップは真鍋恵子、杉原由希子、伊藤寛隆、田吉佑久子。金管はホルンが信末碩才、トランペットがオッタビアーノ・クリストーフォリ、トロンボーンのトップは不明だが、トロンボーン隊として最上の仕事をした。ティンパニはエリック・パケラ。これはベストメンバーだろう。弦管打楽器とも至福の音を出していた。
2024/7/15 垣内悠希×Ph・エテルナ コルンゴルトとマーラー「交響曲第6番」 ― 2024年07月15日 22:01
フィルハーモニア・エテルナ 第29回 定期演奏会
日時:2024年7月15日(月・祝) 14:00開演
会場:すみだトリフォニーホール
指揮:垣内 悠希
共演:ヴァイオリン/ヴィルフリート・和樹・
ヘーデンボルク
演目:コルンゴルト/ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」
指揮の垣内悠希は10年ほど前に「ブザンソン国際若手指揮者コンクール」で優勝した。ブザンソンの覇者といえば小澤征爾が有名だが、その後も邦人指揮者が度々優勝している。松尾葉子、佐渡裕、沼尻竜典、曽我大介、阪哲朗、下野竜也、山田和樹と続き、垣内悠希のあとが沖澤のどかである。沖澤は小澤から60年後、5年前のこと。時の経つのは早い。
このなかで未聴は垣内悠希のみ。アマオケではあるがプログラムも重量級、一度聴いてみようと久しぶりに錦糸町まで足を運んだ。
フィルハーモニア・エテルナは30年ほど前に在京の大学オーケストラの卒業生を中心に結成されたオーケストラだという。
今日の演目はウィーン繋がり。コルンゴルトはマーラーに才能を見出されウィーンで活躍する。しかし、ナチスのオーストリア併合により、ユダヤ人ゆえにウィーンから追い出され、ハリウッドで映画音楽を手がけつつ生計を得る。戦後完成した「ヴァイオリン協奏曲」はマーラーの未亡人のアルマに献呈された。そして、20世紀初頭のマーラーはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督、その時代に書かれた「交響曲第6番」である。
コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」の独奏者は、ウィーフィルのヴァイオリニストであるヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク。
第1楽章の粘るような主題を和樹・ヘーデンボルクは甘く柔らかい音色で奏でる、甘味料が多めのコルンゴルトの旋律にはお似合いである。第2楽章はロマンチックで映画音楽そのもの。第3楽章はいつ聴いても後世のジョン・ウィリアムズを連想する。ここでのオケはアマチュアとは思えないほど、弦はよく歌い管は音を外さない。技量が高く合奏能力も優れている。
垣内悠希は派手なところが一切ないが、的確な指示を与え手堅い指揮ぶりだった。
休憩後、マーラーの「交響曲第6番」。
なんと、ソロを弾き終えたばかりの和樹・ヘーデンボルクがコンマスとして座った。オケとしては未経験の「悲劇的」らしいけど、和樹はウィーンフィルで何度となく弾いているはず。アマオケにとってこんなに心強いことはなかろう。Ph・エテルナの弦は比較的若い人が多いが、和樹はその中あって情熱的にリードをしていた。
垣内悠希は堅実に音楽をつくりあげていく。第1楽章の付点リズムの行進曲が潮の干満のようなうねりを伴って進む。アルマの主題の歌わせ方が絶妙で心の襞にさざ波が生じる。第2楽章にアンダンテをおいたが、美しい旋律と牧歌的な響きのこの緩徐楽章が今日一番の感動的な音楽だった。第3楽章のスケルツォは大音量が連続し多少単調になった。最終楽章は救いようのない闘争に突入する。徹底的に戦い完膚なきまでに打ち砕かれる様をオケは大奮闘。弦の響きは厚くアンサンブルも素晴らしい。木管はバランスを崩すことなく、金管もアマとしては極めて強靭、最後までヘタれることなく吹ききった。打楽器の獅子奮迅の活躍も賞賛に価する。垣内については総じて好感を持ったけど、意表をつかれる場面が少ない。幾つかの意外性をみせてくれれば音楽はより奥行きが増すのではないか。
客席はほぼ満席。演奏会終了後、すぐに立ち上がって帰る人はわずかで、あたたかい拍手が最後まで続いていた。