2023/8/31 上岡敏之×読響 ブルックナー「交響曲第8番」2023年09月01日 11:56



読売日本交響楽団 第664回名曲シリーズ

日時:2023年8月31日(木) 19:00開演
場所:サントリーホール
指揮:上岡 敏之
演目:ブルックナー/交響曲第8番 ハ短調WAB108


 ローター・ツァグロゼクが指揮するはずの演奏会だった。
 最初から躓いていた。年のはじめ、出遅れてチケットを入手できなかった。その後、幾つかのチケット取次サービスを注視していたが確保できず、ほとんど諦めかけていた。ところが、公演2週間ほど前になって「関係者席などの調整を行い60枚ほどの追加発売を行う」というアナウンスが読響からあった。販売は8月22日の10時から。朝から待機した。必死である。

 ツァグロゼクと読響は、2019年にブルックナーの「交響曲第7番」を聴いた。ツァグロゼクは昔から現代音楽への取り組みでいろいろと話題になっていて、名前だけは馴染みがあったけど、その演奏となると放送でも音盤でも真正面から聴いたことはなかった。しかし、このときのブルックナー「7番」は、ほかに比べようのない隔絶した演奏だった。
 「7番」は、「5番」「8番」などに比べ前半楽章に対して後半楽章が弱い。アダージョまでが勝負で、あとは印象薄く流れてしまうことが多い。1,2楽章の名演はあっても、全体を通して満足することがなかなかできない。その所為もあるのだろう後々まで演奏の記憶が残らない。
 ツァグロゼクは明らかに最終楽章にクライマックスを設計した。楽章を追うごとに熱量を増していった。特に全曲のコーダはいつもなら断ち切られたような中途半端さがつきまとうのだが、このときは違った。じわりじわりと盛り上げ、完全燃焼することができる曲だと知った。
 2022年には「5番」を振る予定だったけど、コロナ禍で来日不能となり下野に代わった。今回の「8番」は何としてもツァグロゼクの指揮で聴きたかった。

 さて、8月22日の追加発売日である。
 読響のWeb販売は「チケットぴあ」のシステム。これが極めて使い辛い。ログインしたあとも座席指定をするためにパスワードの再入力と認証文字を入力しなければならない。それも会場全体を見渡すことが出来ず、エリアを指定し、さらには券種、枚数を選択する。
 東響や都響、新日フィルなどは「AKASHIC」のシステムで、ログインしなくても会場全体の空席は確認できるし、一度ログインすれば決済までストレスなく一気通貫で終えることが出来る。えらい違いである。N響は最近「AKASHIC」から「チケットぴあ」に変更した。神奈川フィルやサントリホール、ミューザ川崎などのWeb販売も「ぴあ」である。面倒このうえない。
 で、当日10時からこのいかれたシステムと15分ほど格闘した。「チケットぴあ」は、ブラウザによって挙動が異なるようだ。最初、普段愛用しているChromiumの再構築版でアクセスしたら各券種ともはじかれ上手くいかない。Chromeに切り替えても売切れと表示されるばかり。最後にダメもとでEdegにしたら正常に反応した。たんなる接続のタイミングかもしれない。
 やれやれ、とにかくチケットを手に入れた。読響のHPには1時間足らずで「追加発売は予定枚数終了しました」と告知されたから、すごい人気のツァグロゼクのブルックナーである。

 その苦労が…土壇場で大波乱。
 追加販売の2日後、24日になって読響から「ツァグロゼクは、肺炎の診断を受け、医師からしばらくの間の療養が必要とされたため、急遽来日できなくなりました。代わりに、ドイツ在住の上岡敏之が緊急に一時帰国し、指揮します。―――変更によるキャンセル・払い戻しはできません」とのアナウンス。
 おいおい、それはないだろう。上岡敏之は、もっとも苦手とする指揮者である。ショックで寝込むほど落ち込んだ。もちろんツァグロゼクの快復を祈っているし、頭では不可抗力であると分かってはいるものの、心情的には詐欺にひっかかったような気分である。
 しかし、仕方ない。このブルックナーをできるだけ先入見なしで白紙の状態で聴いて、それでも納得できなければ、上岡はこれで最後にしよう、と気を取り直し出かけることにした。

 結果は、やはり駄目だった。まったく駄目。
 ブルックナーの音楽をこねくり回し、いじり倒してボロボロにしてしまった。極端な強弱――聴こえることのない弱音、無味乾燥な強音――、恣意的な緩急、パウゼの不自然さ。田舎芝居の厚化粧をした役者が舞台で見得をきっている風な作為とわざとらしさ。ブルックナーの音楽に奉仕するのではなく、自己顕示のためにブルックナーを材料にしているような不遜な空気を感じた。
 言い過ぎたかもしれない。これが上岡流の、誠心誠意をもって演奏したブルックナーなのであれば、上岡とはたんに接点のないまま、すれ違うだけの存在ということなのだろう。吸う息、吐く息が一致しない。その息遣いについて行けない。以前のブルックナー「9番」もそうだった。ワーグナーの「序曲集」やマーラーの「2番」でも心が動くことがなかった。所詮縁のない人なのだ。

 読響はブルックナーオケといってもいいほどの集団だ。「8番」だけとっても芸術劇場における最晩年のスクロヴァチェフスキ、ミューザでの井上道義など素晴らしい演奏を聴かせてくれた。今回もオケそのものに不満はない。音量がデカイだけで微妙なニュアンスに欠けるときがあるにしても、それぞれの楽器の音色が磨かれ進化している。音が与えてくれる情報量が増しているようにも感じる。
 ただひたすら砂を噛むような思いで座っていたのは、ひとえに指揮者と聴き手との相性ゆえのこと、オケの責任ではない。この先二度と上岡敏之を聴くことはない。

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