2021/8/21 内藤彰×ニューシティ管 ブルックナー9番2021年08月21日 21:10



東京ニューシティ管弦楽団 第140回 定期演奏会 

日時:2021年8月21日(土)14:00
場所:東京芸術劇場 コンサートホール
指揮:内藤 彰
演目:ワーグナー/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
   ブルックナー/交響曲第9番ニ短調
     (第4楽章:シャルラー校訂版・日本初演)

 公益社団法人オーケスト連盟の資料によると、日本のプロオーケストラは全国で正会員が25団体、準会員が11団体ある。
 このうち、東京で定期演奏会を開催している正会員を設立年の古い順に並べると、東京フィルハーモニー交響楽団(1911)、NHK交響楽団(1926)、東京交響楽団(1946)、日本フィルハーモニー交響楽団(1956)、読売日本交響楽団(1962)、東京都交響楽団(1965)、新日本フィルハーモニー交響楽団(1972)、東京シティ・フィルハーモニック交響楽団(1975)、東京ニューシティ管弦楽団(1990)の9団体となる。
 準会員は藝大フィルハーモニア管弦楽団(1898)と東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団(1973)の二つである。
 この他、近隣には正会員の神奈川フィルハーモニー管弦楽団(1970)、映画『ここに泉あり』で有名な群馬交響楽団(1945)と、準会員の千葉交響楽団(1985)がある。

 ちゃんと調べたわけではないが、ひとつの都市にプロのフルオーケストラが10団体前後もひしめいているのは、多分、世界の中で東京だけだろう。それだけに総じて運営は苦しく、財政基盤も盤石とはいえない。事実、過去には東響の経営破綻による解散と再結成があり、日フィルの争議から新日フィルが分かれ、新星日響は東フィルと合併した。初めての東京オリンピックのとき、記念事業として設立された都響に対しては反対運動もみられた。
 こういった厳しい競合のなかで、ニューシティ管は30年ほど前に生れている。“小回りの利くオーケストラがほしい、例え規模が小さくてももう少し低い予算でオーケストラを使えれば公演依頼したい”というニーズに応えるかたちで、指揮者内藤彰を中心にして発足した。最初は学校公演やバレエ、オペラアリアの伴奏公演などが活動の核だったようだ。そしてニューシティ管は、監督が創始者の内藤彰から飯森範親にバトンタッチ、先だってのサマーフェスタミューザKAWASAKIにも初参加、新しい時代に入ったということだろう。

 今回はこの東京ニューシティ管弦楽団である。オケも指揮者の内藤も初聴きである。
 ブルックナーの演奏編成は、弦が12-10-8-7-6の低弦を補強した12型、金管がホルン9(うち4はワグナーチューバ持ち替え)、トランペットとトロンボーン各3、チューバ1。半分近くがエキストラだとしても、なかなか重厚な音を出していた。
 内藤は基本テンポを動かさず、極端なアッチェレランドやリタルダンドも目立たない。音量はpやppを強調しないから、体感的にはmfからfffの間を動いているよう。神経質な弱音がなく強弱の幅が狭く感じられるので、変な緊張感がなくて聴き疲れしない。言葉は悪いが鈍重なぐらい、これがブルックナー演奏にはうまい具合に作用した。

 4楽章版は、過去1度だけ飯守泰次郎で聴いている。SMPC完成版だったと記憶するがはっきりしない。全く楽しめなかった。聴いていて不自然な感が拭えなかった。「9番」は3楽章として完璧な作品で、補作完成版など必要ないと思った。
 今回のドイツの指揮者シャルラー(シャラー)が、2018年に発表した最新完成版も同じように感じた。「テ・デウム」の音型、コラールなど部分部分にブルックナーらしさがあるとしても、その部分部分が楽章全体にどう寄与しているのか分からない。だから曲総体の物語が完成しない。
 シャルラー(シャラー)補作の第4楽章は、本人が指揮したものがYouTubeにあがっている。

 https://www.youtube.com/watch?v=bvJasTnAxfc

 ブルックナーは亡くなるまで自作品を改訂し、それがために、後の世は“版問題”で悩まされている。「9番」の4楽章は途中までオーケストレーションが済んでいても草稿に過ぎないのだから、ブルックナーが生きていれば手を入れ続け、全く違う完成形になってしまうことだってありうる。あくまでも中途段階の原稿を第三者がああでもない、こうでもないと補作したってブルックナーの意図に沿うわけがない。
 だいいち、4楽章の補作完成版と銘打っているものが、キャラガン、コールスをはじめ10人位はいる。そのうえ各人が新しい情報を加えて改訂版を2回も3回も出している。もうこうなると何がなんだか訳が分からない。それぞれの努力には敬意を払うとしても、ブルックナーの「9番」は3楽章までの未完成で完結なのだ、と今でも思う。
 
 ドイツ・オーストリア音楽がつくりあげた交響曲の歴史は、このブルックナーの「9番」で終わったと思い込んでいる人間からすると、「9番」の3楽章は、全交響曲に対するレクイエムだと言ってもいい。ブルックナーを通じてなされた“天の配剤”のあとに、何を付け加える必要があるのだろうか。

コメント

トラックバック