桔梗2021年07月01日 06:30



 雨の7月入り。早いもので今年も半分終わった。

 桔梗(キキョウ)が3、4輪花をつけている。
 桔梗というと秋の七草のひとつとして親しまれているのだけど、開花時期は6月から9月頃、もう咲いてもおかしくはない。

 秋の七草の語呂合わせは「お好きな服は(おすきなふくは)」らしい。
 お=オミナエシ、す=ススキ、き=キキョウ、な=ナデシコナ、ふ=フジバカマ、く=クズ、は=ハギ、というわけである。

 桔梗は、古くから日本人にとって馴染み深い花なのに野生種は数が少なくなり、絶滅危惧種に指定されている。
 ただ、園芸品種は江戸時代より改良が重ねられ、現在までたくさんの品種が生み出されてきた。

 桔梗の蕾は、咲く寸前までふんわり膨らんで紙風船の様な形をしている。そして、いつの間にか星形の花が咲く。花の色は青紫が代表的だが、今ではピンクや白もあるらしい。英名はそのものずばりballoon flowerという。
 宿根草で根にサポニンを含み生薬に用いられる。漢方でいうキキョウ根は、せきや痰、鎮痛効果や解熱作用がある。

 桔梗の花を見ていると、これから夏に向かうとは思えない。どうしても秋の風情を感じてしまう。
 オリンピックが大過なく開催され、無事秋を迎えたい。

2021/7/3 井上道義×新日フィル ショスタコーヴィチ「交響曲8番」2021年07月03日 19:16



新日本フィルハーモニー交響楽団 第635回 定期演奏会 ジェイド

日時:2021年7月3日(土)14:00
場所:サントリーホール
指揮:井上 道義
演目:ショスタコーヴィチ/ジャズ組曲第2番より抜粋
   ショスタコーヴィチ/交響曲第8番 ハ短調 op.65

 3月、2夜にわたってショスタコーヴィチの交響曲を聴いた。ひとつは高関×シティフィルの「8番」、もうひとつは井上×東響の「6番」であった。
 今度は井上が新日フィルを振って「8番」を披露してくれるという。もともとはヴァレリー・ポリャンスキーが指揮する予定だった。やはり来日不能で、井上に交代した。
 井上はショスタコーヴィチをライフワークとしている。伝説の日比谷公会堂での全曲演奏会には行けなかったが、日比谷公会堂改修前の記念コンサートにおける新日フィルとの「9番」「15番」は聴いている。あと、先日の東響との「6番」、N響との「11番」、神奈川フィルとの「14番」を聴いた。

 今日の演奏会、最初は「ジャズ組曲第2番」。
 正確には旧「ジャズ組曲第2番」。現在では「ステージ・オーケストラのための組曲」と呼ぶのが正しい。昔、誤って「ジャズ組曲第2番」とされていたもの。本来の「ジャズ組曲第2番」は、20世紀の終わりに発見されるまで謎につつまれていたから、未だにこの「ステージ・オーケストラのための組曲」が、そのまま「ジャズ組曲第2番」と呼ばれて演奏されることもある。
 今日は全8曲のうち5曲が選ばれた。映画音楽やダンス音楽からの流用もあり、運動会かサーカス小屋で流れていてもおかしくない曲ばかり。ジンタ調であったり、歌謡風であったり、軽快でありながら、ほろりとくる。そういえばショスタコはサーカス・ポルカも作曲している。ショスタコの別の一面を知るには格好の曲だろう。
 井上は指揮台を使わず、まさに平場で踊りまくる。オケの中にまで入って振る。音楽はもちろん指揮ぶりもメチャクチャ楽しい。
 
 休憩を挟んで「交響曲8番」。今日のプログラムは、前半と後半で明暗の対比。
 ここでも井上は指揮台を使わず、オケと同じ地平に立って指揮をした。派手な指揮ぶりは変わらないが、解釈は奇を衒うことなく極めてオーソドックス。とりわけアタッカで演奏される3楽章以降の物語性が存分に伝わってきた。3楽章はまさに突撃の阿鼻叫喚、4楽章の不気味な鎮魂歌、5楽章の消えない恐怖と偽りの平安。それぞれ見事な描きわけ。
 オケもよく鳴った。午後から雨はあがったが、こんなに湿気が多いにもかかわらず、不順な天候を吹き飛ばす勢い。反応、集中力も半端ない。難曲をほとんど破綻なくまとめあげたことにも驚嘆した。
 演奏するほうはもちろん大変だが、聴いているほうだって一瞬たりとも気を緩めることはできない、緊張感が持続する。曲が終わるとともに疲れがドット押し寄せて来た。

 ところで、ショスタコ自身はこの「8番」についてこんなことを言っている。
 「交響曲第8番は、悲劇的であり、なおかつ劇的な多くの内面的対立を秘めています。しかし、全体的にみれば、楽観的であり人生肯定的作品です。……最後の第5楽章は、様々なダンスの要素と民謡を取り入れた、牧歌風で、明るく陽気な音楽です。……これを私の過去の作品と比較すると、雰囲気としては、交響曲第5番や五重奏曲に最も近いのです。……この新作の哲学的概念を要約すると<人生は美し>となります。暗く憂鬱なものはすべて朽ち果て、消滅し、美が凱歌を奏でるでしょう」(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』)。

 ホントかいな?
 全体的にみれば、楽観的であり人生肯定的作品?
 牧歌風で、明るく陽気な音楽?
 雰囲気としては、交響曲第5番や五重奏曲に最も近い?
 暗く憂鬱なものはすべて朽ち果て、消滅し、美が凱歌を奏でる?

 作曲家本人の言葉だからといって、そのまま受け取っていいのか、そもそも額面通りの言葉と信じていいのか。
 音楽は概念を具体的に表現しなくても、直接情感を揺り動かす。惹起された情動はその言葉に疑問符をつきつける。

 井上道義オフィシャルサイトに今回の演奏に関するメッセージが掲載されていた。
 https://www.michiyoshi-inoue.com/2021/07/_635.html
 とても面白い。井上は、この「8番」を評して、
 「5番のように万人向きのわかり易いモノを書いた自分を皮肉っぽく笑い、生き残っている自分の運命へのレクイエムと、人びとの止むことない勝利への渇望を距離を持って鳥の目で望むような音楽。……逃れることが不可能な時代の運命の下に生きなければならない人そのものへの悲歌か牧歌か賛歌か」と書いている。

 作曲家より、むしろ指揮者の、この言い分のほうがピッタリくる。
 もっとも、一方的に深刻で悲劇的な作品とばかり捉える必要はない。悲惨な体制のなかでジャズ組曲を書いたショスタコーヴィチにしても、病から生還した井上道義にせよ、生きている限り、死なない限り、<人生は美し>いと、どこかで言いたい、のかもしれない。
 まぁ、いずれにせよショスタコーヴィチの音楽は多義性のかたまり。

 それにしても、あのスターリンがいなかったら、ソビエト連邦という共産主義と遭遇しなかったら、ショスタコーヴィチはどんな作曲家になっていたのだろう
 最悪の政治体制がこういう芸術家を産み出すアイロニー。一方、恵まれた社会が最良の芸術家を生むだすわけではない。
 これはなかなか難しい問いのような気がする。

七夕のシクラメン2021年07月07日 06:55



 今日は七夕。五節句のひとつ、星祭りとも。
 笹に短冊の風習、牽牛織女伝説など、七夕に関連する行事や言い伝えは豊富である。

 さて、シクラメン。クリスマスあたりに盛んに咲くサクラソウ科の球根植物。
 布施明、小椋佳の『シクラメンのかほり』が有名なのだけど、実際はシクラメンに香はあまりない。球根を持つシクラメンは、花粉を撒き散らすための虫を集めなくてもいいから、匂う必要がない……たぶん。
 冬の花の代表格であり、開花期は10~4月。暑さに弱いのは当たり前だが、寒さにも弱いデリケートな植物。一般には室内に置いて鉢植えで管理することが多い。

 耐寒性を改良したガーデンシクラメンとなると屋外でも育てることができる。といっても、やはり夏は苦手なため、ワンシーズン限りの楽しみ方が普通のようである。しかし、本来は球根植物なので上手に育てれば何年でも花を咲かせることができるらしい。

 で、今年はそのガーデンシクラメンの夏越しに挑戦している。花が咲き終わった5月、南側の日向から東側の半日蔭に移植した。移し替えて2か月ほど経ったこの時期、また再び花を付けている。クリスマスではなく七夕のシクラメンだ。
 夏越しは道半ばだが、この調子で夏を凌いで、冬また沢山の花を付けてくれたら嬉しい。

 七夕にシクラメンの花を見せてもらえるとは奇妙な気分である。

三浦哲郎展――星をかたりて、たれをもうらまず――2021年07月10日 18:22



 かりに「戦後の小説家のなかで誰か1人だけあげてください」といった、とんでもない質問をされたら、候補者の筆頭として三浦哲郎が頭に浮かぶことは間違いない。
 と言っても、決して優良な読者ではない。第一、読んだのが出世作の『忍ぶ川』、短編では『真夜中のサーカス』『拳銃と十五の短編』『木馬の騎手』、長編では『少年讃歌』『白夜を旅する人々』程度で、TV化された『繭子ひとり』や『ユタと不思議な仲間たち』でさえ知らない。
 しかし、芥川賞作品と長編及び短編の代表作といわれる『白夜を旅する人々』『拳銃と十五の短編』を読了していることで許してもらうことにする。ともかく比類ない文章の達人であり、最後の文士と呼んでもいい。
 文章の名手とはいっても、何作も続けて読むのはなかなか辛いところがある。同じ青森出身の太宰のように自虐的で破滅的なところは見せないが、6人兄弟のうち4人の兄姉が失踪したり自裁するという星の下に生まれている。鎮魂歌として、あるいは死者に成り代わって言葉を紡いできた人だろう。イタコのような役割を自分に課してきたのかも知れない。
 私小説の伝統を踏まえてはいても、ユーモアもあり陰鬱な感じは受けず、どこか明るく愛しく救われるところがある。読み手としては、そのことが余計心の深いところを刺激して、稀にしか本を手に取ってこなかった、と言い訳をしておこう。

 その三浦哲郎の生誕90年の企画展が、港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で開催されている。副題の“星をかたりて、たれをもうらまず”は、同人誌掲載の処女作『誕生記』につけられたもの。
 大学の恩師小沼丹や生涯の師井伏鱒二、川端康成からの書簡、新潮社の編集者からの励ましの手紙など多数が展示されている。もちろん自筆原稿の柔らかくしなやかな筆跡も見応えがある。
 企画展は18日まで。

吉田秀和 対談集2021年07月16日 08:18



書 名:『音楽のよろこび』
著 者:吉田 秀和
刊行年:2020年
出版社:河出書房新社

 まだ大気の状態は不安定で、天気の急変に気を付けなければならないが、そろそろ梅雨明けのようだ。
 一週間後にはオリンピックが開催される。変則的な五輪とはいえ、良い方にこじつけて考えれば、無観客ということはテロのリスクが少なくなった。困難な中にあってもやり遂げることが大事、とにかくつつがなく終わってほしい。
 いよいよ夏本番である。この時節、蒸し暑くて本を読むには不適当ながら、軽い対談物を見つけた。

 吉田秀和の初めての対談集らしい。
 古くは戦後がまだ終わっていない1953年、新しいのは亡くなる前年の2011年、半世紀にわたる対談が編年順にまとめてある。
 相手は以下の11人12本である。
 
中島健蔵(フランス文学者・文芸評論家)
  来日演奏家から学んだものと学ぶもの 1953年
平島正郎(音楽学者)
  欧米のオーケストラと音楽生活 1955年
遠山一行(音楽評論家)
  最高の演奏家 1958年
園田高広(ピアニスト)
  ヨーロッパでピアノを弾くということ 1966年
高城重躬(オーディオ評論家・音楽評論家)
  録音と再生で広がる音楽の世界 1966年
斎藤義孝(ピアノ調律師)
  調律とピアノとピアニスト 1966年
藤原義江(オペラ歌手・声楽家)
  われらのテナー、歌とオペラ 1967年
若杉 弘(指揮者)
  日本のオーケストラの可能性 1967年
柴田南雄(作曲家・音楽評論家)
  演奏と作曲と教育の場をめぐって 1967年
武満 徹(作曲家)
  ベートーヴェンそして現在 1974年
堀江敏幸(作家・フランス文学者)
  音楽の恵みと宿命 2008年
  生と死が一つになる芸術の根源 2011年

 ほとんどが昭和30~40年代の時代もの。平成時代に相手をつとめた堀江敏幸だけが存命で、あとは全員鬼籍に入った。
 出版の経緯は不明だが、発刊されたのは昨年、比較的新しい。

 対談のテーマは様々。対談の形式を便宜的に、
 ①通常の対話(中島、遠山、柴田、武満)
 ②吉田が主に応答するもの(平島、堀江)
 ③吉田が主に質問するもの(園田、高城、斎藤、藤原、若杉)
に区分けすると、意外なことに吉田秀和が質問者となった対談が面白い。

 特に演奏者である園田、藤原との話。二人とも破天荒、体験談を聞かされるだけでも大笑い。一方、若杉はこの時30歳そこそこ。会話が進むにつれ、吉田にだんだん押し込まれていくのが微笑ましい。高城、斎藤とは音楽の周辺話といっていいが、オーディオを介した音楽のことや、調律師からみたピアニストの生態などはなかなか興味をそそる。
 通常の対話形式では、作曲家である柴田、武満との中身が濃くて話題の範囲も広い。作曲家は創作するだけでなく、文明批評でもやっていけるのではないか。中島や遠山との話は、登場人物がさすが古すぎる。
 半世紀に及ぶ時代の雰囲気を味わうような、時代を検証するための参考にもなりうるような、そんな本である。