2023/4/15 沼尻竜典×神奈川フィル 「レニングラード」2023年04月15日 19:47



神奈川フィルハーモニー管弦楽団
 みなとみらいシリーズ定期演奏会 第385回

日時:2023年4月15日(土) 14:00開演
場所:横浜みなとみらいホール
指揮:沼尻 竜典
演目:ショスタコーヴィチ/交響曲第7番ハ長調 Op.60
           「レニングラード」


 今シーズンの神奈川フィルが始動。初っ端の沼尻監督の選曲は「レニングラード」、昨年もショスタコーヴィチの「交響曲8番」を取り上げている。何年かかるか分からないがチクルスとなるのだろう。
 いまロシアは戦いのさなか、西欧諸国からは非難囂囂で、演奏家の一部も活動が制限されている。しかし、幸いなことにロシアの音楽は大きく後退していない。文学、美術も同様だろう。文化の厚みが政治の態様に拮抗しているかのようだ。

 16型の編成、16-14-12-10-8の弦5部だけで60人。舞台の上手と下手奥にトロンボーン、トランペット、ホルンのバンダ。100人以上が舞台上に並び、80分にわたる熱演を繰り広げた。コンマスは石田泰尚。
 沼尻のテンポ設定、アーティキュレーション、楽器のバランスには無理がなく、神奈川フィルもほぼ完璧。理想的な演奏のひとつだったと思う。しかし、昨年のマケラ×都響のときのように、強烈さと静謐さの両極を前にして我を忘れる、ということはなかった。そのせいか、それぞれのソロの細部を味わったり、楽器と楽器の重なり具合を確かめたり、ときどきの響の由来を探ってみたり…そんな聴き方をしていたようだ。

 交響曲「レニングラード」作曲のきっかけは、ドイツ軍のレニングラード包囲である。反専制主義者であり愛国者!ショスタコーヴィチが砲撃のさなかに書き始め、生まれ故郷のレニングラードに捧げた。資料を読むと、レニングラードにおける初演までの道のりは壮絶極まりない。指揮者カール・エリアスベルクをはじめ戦場からかき集められた奏者たちは、みな地獄の渦中にあった人々だった。
 演奏会はラジオで中継され、ソ連軍陣地はもちろんのことドイツ軍陣地にもスピーカーが向けられた。兵糧攻めにされたレニングラードには、戦争や飢餓、恐怖や死に対抗する人間の証としての音楽があった。交響曲「レニングラード」を演奏することは、その象徴であり希望だった。この曲には音楽が暴力と対峙した瞬間が刻まれている。
 「第7番」は「第5番」と並んでソビエト連邦のプロパガンダだ、という人もいる。たしかにショスタコーヴィチの交響曲のなかでは、最も素直に同胞にむけて書かれた作品だろう。諧謔や韜晦の度合からいえば、後年の詮索好きの聴衆には物足りない。しかし、それが何? たかだか音楽が、ひょっとしたら、暴力に蹂躙されていた歴史の流れを、わずかであっても変えたかも知れないのだ。
 たとえば、第3楽章の管楽器で奏でられるコラール主題とそれに続く、息の長い弦の旋律が、ソ連軍、ドイツ軍、そしてレニングラード市民に届けられたとき、彼らにはどう聴こえたのだろう。それを知りたいと思う。

2023/4/16 ウルバンスキ×東響 プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」とシマノフスキ「スターバト・マーテル」2023年04月16日 22:41



東京交響楽団 川崎定期演奏会 第90回

日時:2023年4月16日(日) 14:00開演
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
共演:ソプラノ/シモーナ・シャトゥロヴァ
   メゾソプラノ/ゲルヒルト・ロンベルガー
   バリトン/与那城敬
合唱:東響コーラス(合唱指揮/冨平恭平)
演目:プロコフィエフ/バレエ組曲
         「ロメオとジュリエット」より
       <ウルバンスキ・セレクション
           ( )内は1~3組曲の種別>
    モンターギュ家とキャピュレット家(2)
    情景(1)
    朝の踊り(3)
    少女ジュリエット(2)
    仮面(1)
    ロメオとジュリエット(1)
    踊り(2)
    タイボルトの死(1)
    朝のセレナーデ(3)
    百合の花を手にした娘たちの踊り(2)
    ジュリエットの墓前のロメオ(2)
    ジュリエットの死(3)
   コネッソン/Heiterkeit
    (合唱とオーケストラのためのカンタータ)
   シマノフスキ/スターバト・マーテル op.53


 東響川崎定期の今シーズン開幕である。
 残念なことに客は5.6割の入り。PとRA,LAの一部を合唱席として使っているのに、2階のセンターなど空きが目立っていた。

 自席の前後左右も空席だったので、開演前、だらしなく座席に沈み込みリラックスしていた。ところが「ロメオとジュリエット」の最初の音で身体が反応。座り直して全身を耳にしたら自然に前のめりになって、最後までその緊張が解けなかった。
 劇的で鮮烈で抒情的で果てしなく美しい。この「ロメオとジュリエット」を聴かなくて、他に何か聴くべき演奏があるのか、と思わされるほど。「タイボルトの死」を頂点に据えた、二度と聴けないかも知れない規格外の「ロメオとジュリエット」だった。
 清水太のティンパニは前々から特別だと思ってはいたが、これほどまでに凄いとは。言葉にならない。相澤、濱崎のフルート、荒、吉野のオーボエ、クラリネット、福士のファゴット、それぞれがエッジを効かせ自己主張する。脳内が痺れまくった。弦も精妙で神秘的。伊藤文嗣のチェロには泣けた。

 ウルバンスキは東響に初演したときから聴いている。ロボットダンスあるいはアニメーションダンスのような指揮ぶりに目を奪われた。でも音楽はごく普通。もちろん「我が祖国」のような名演もあったけど、客演指揮者だと紹介されてもそれほど注視していたわけではない。ベルリンフィルを指揮したり、インディアナポリス響の音楽監督などのキャリアも積んだ。しかし、いつの間にか東響の客演指揮者を降りてしまった。
 久しぶりに来日して指揮したのが、一昨年末の「カルミナ・ブラーナ」。とてもモダンな演奏で見直した。そして今回である。指揮姿も無駄をそぎ落とし、身体の動きそのままの音が出てくるようになった。もちろん東響の反応の鋭さと相性の良さもある。スタイリッシュで細微、さらに表現の深みが加わって、ほとほと感心した。

 ウルバンスキを聴き逃すわけにはいかない。休憩時間中、慌ててミューザのチケットボックスに飛び込んで、週末の名曲全集第186回のチケットを購入した。

 2つの合唱曲も期待を大きく上回った。
 コネッソンは1970年生まれの作曲家。「Heiterkeit」は合唱とオーケストラのためのカンタータで10分程度の曲。日本初演の現代音楽だが、響きは軽やか旋律も明快、静穏な風景を眺めながらゆっくりと歩んで行くよう。インディアナポリス響から委嘱された作品で、楽譜はウルバンスキに捧げられている。いつものように東響コーラスは暗譜、ウルバンスキはもちろん。

 わずかに舞台上を手直した後、シマノフスキ。
 「スターバト・マーテル」のテキストはラテン語でなくポーランド語らしい。全6章からなる。極めて静謐な出だし。ソプラノのシャトゥロヴァの透明な声と女性合唱がホールにしみわたる。第2章は単純で重々しいリズムに乗ってバリトンの与那城敬が力強く歌う。メゾ=アルトのロンベルガーが東響の木管群と歌い交わす第3章。第4章はアカペラ、管弦楽が沈黙するなか東響コーラスの合唱に涙する。第5章で合唱と管弦楽が総奏しクライマックスを築く。終章は祈りに満ち、柔和で光に溢れた声が広がる。
 20世紀、両大戦の中間に書かれた宗教音楽だけど、古風な雰囲気が漂い、民族音楽に通じるような懐かしさも感じる。3人のソリストと合唱団が見事、そのうえ精緻な管弦楽が加わる。浄化され天上に連れて行かれるような感覚を味わった。

 年度末に東響から何人かの首席が抜けた。今日のホルンの1番、3番も客演だったと思う。しかし、演奏を聴くかぎり精密で立体的な響きは健在。ちょっとした心配は杞憂に終わったようだ。
 それと、ウルバンスキの成長ぶりが頼もしい。監督のノットは10年目に入った。あと数年、契約延長を行うとしても、後任を考える時期である。後継にはこのウルバンスキかロレンツォ・ヴィオッティが有力候補であれば嬉しい。いまウルバンスキは主要なポジションに就いていないはずだから、再度、客演指揮者などに招いてもいいのではないか。
 今年度も東響の音楽とニュースには要注目である。

2023/4/22 ウルバンスキ×東響 「新世界より」2023年04月22日 22:20



東京交響楽団 名曲全集 第186回

日時:2023年4月22日(土) 14:00開演
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
共演:ピアノ/ヤン・リシエツキ
演目:メンデルスゾーン/「真夏の夜の夢」序曲
   ショパン/ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 op.21
   ドヴォルザーク/交響曲 第9番 ホ短調 op.95
         「新世界より」


 先日の定期公演に比べてお客さんの入りは上々、ほぼ満席だった。プログラムのせいなのか、ソリスト目当てなのか。
 そのリシエツキ、序曲「真夏の夜の夢」のあと舞台にピアノが置かれ、ウルバンスキと並んで登場した。二人ともイケメン、上背はほぼ同じ、体型も似ている。贅肉のない身体、長い手足。リシエツキのほうがちょっと背が高く細い。ポーランド系のカナダ人だから、作曲家、指揮者ともどもポーランド繋がりである。

 ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」。リシエツキの語り口の上手なこと。恋物語を聴かされているよう。音がキラキラと宙に舞う。第2楽章の美しさに眩暈を覚えた。第3楽章の舞踏のリズムも自然で心地よい。リシエツキはコンクール歴のない若者だが、15歳にしてドイツ・グラモフォンと契約したという。微妙な音色の変化やテンポの揺れを伴いながら情熱をこめて歌う。とても20代とは思えない、手練れと言っていいほど。
 ウルバンスキは協奏曲でも暗譜。リシエツキとはNDRエルプフィルハーモニー管を使って複数の音盤で共演している。とうぜん絶妙の呼吸で支える。貴公子然としたリシエツキには、東響のノーブルで熱量の高い音が似合っていた。

 ドヴォルザークの「交響曲第9番」は、アイデアが詰まった演奏。イングリッシュホルンは舞台に向かって左手の3階バルコニー席で吹いた。「家路」の旋律が天から降ってくる。その第2楽章の終結はパウゼを目一杯とり、さらに弦楽器が最弱音で余韻をたっぷり残す。弦の響きは全曲にわたって拘っていた。「真夏の夜の夢」の冒頭、管楽器の和音のあとの弦楽器の8分音符が続くフレーズも新鮮な響きだったが、ドヴォルザークでは弦5部の特性を細やかに使いわけ、ヴァイオリンはもちろんヴィオラ、チェロ、コントラバスのそれぞれが終始ゾクゾクするような音を出していた。スケルツォから終楽章へは大胆に音を積み重ね巨大な結末を築いた。この曲で木管がベルアップするのも珍しい。「新世界より」は、あまりに有名で手垢のついた曲だと思っていたけど、まだまだこんな清新な解釈ができることに驚いた。ウルバンスキの期待に違わない名演だった。

 フルートのトップには、この4月シティフィルから移籍した竹山愛さん。もともと優秀なシティフィルの看板奏者だった人。東響の木管に新しい魅力が加わった。オーボエの荒、クラリネットのヌヴー、ファゴットの福井は今まで通り盤石。ホルンは首席が2人抜け、どうしてもゲスト頼み。今日トップには都響の有馬さんが座っていた。
 東響の採用欄を見ると、首席の公募はオーボエとコントラバスのみで、ホルンは募集をしていない。フルートのように水面下で採用の話が進んでいるのかもしれない。早く体制を固めてほしい。
 とは言っても、東響の今シーズンの出足は絶好調、演奏についてはこの調子で突っ走ってもらいたい。

 今日の演奏は、ニコニコ動画で配信された。いつものように暫くは見逃し視聴ができる。

https://live.nicovideo.jp/watch/lv340478418

2023/4/24 飯守泰次郎×シティフィル ブルックナー「交響曲第4番」2023年04月25日 13:10



東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 特別演奏会
      飯守泰次郎のブルックナー「交響曲第4番」

日時:2023年4月24日(月) 19:00開演
場所:サントリーホール
指揮:飯守 泰次郎
演目:ブルックナー/交響曲第4番 変ホ長調
         「ロマンティック」


 飯守泰次郎が振るブルックナーは、過去何度も聴いているが、今回の「交響曲第4番」は、現在の飯守翁とシティフィルにして初めて可能となった最良の演奏だろう。80歳をこえた音楽家の気迫と、献身的なオーケストラが成しえた壮絶で剛毅で、それでいて暖かく人間味あふれるブルックナーだった。

 先日の「8番」と違って驚かされるような第1楽章ではなかった。冒頭の最弱音も神経質にならず、低弦を気持ちよく動かし、おおらかで包容力のある響き。各主題は明確で曖昧さがない。音量に関係なくユニゾンであっても全てのパートがどう演奏しているか分かる。途中チェロ首席の楽器に障害が発生し、楽器は舞台裏へ運ばれた。
 第2楽章は、慈愛にみちた弦の音色が印象的、ヴィオラが弾く旋律をコントラバス、チェロ、ヴァイオリンのピチカートが補強していく。結尾のティンパニの静かでゆっくりとした連打は、穏やかな心臓の鼓動のように聴こえた。
 チェロが舞台に戻ってきた第3楽章からが真の驚異のはじまりだった。スケルツォの速度は限界ギリギリ。飯守翁の動きの少ないタクトと、これほどの高速運転にも拘わらず、管楽器群はよく喰らい付いて行った。信頼するシティフィルだからこそ無茶ができる。一転トリオは田園風景と人々の長閑な日常が目の前に広がるふうだった。
 第4楽章は、終始地の底から音が湧き出るごとく、そのホールの鳴りに震撼した。しかし、透明感は損なわれない。「4番」が後期3作品に肩を並べた瞬間だった。第1楽章の主題が回帰するコーダは、時空の感触が失せた。意識が半分飛んでいたのかも知れない。
 ブルックナーを聴くと、宇宙的な広がりや神々しさ、彼岸をみるかの錯覚を覚えるときがある。けれど、今回は彼方の感覚ではなく、身近な原初的で素朴で偉大であり続ける人間の営みを感じさせるような演奏だった。

 コンマスは荒井英治。「8番」の戸澤哲夫と同様、飯守翁への敬意を払いつつ、困難を乗り越え最善を尽くした。シティフィルの各メンバーも、傷はもちろん幾つかあったけど、まさに身を削った渾身の演奏だった。
 会場の聴衆の集中度は素晴らしく、終了後は熱狂的な拍手とブラボーの嵐。

 当日のプログラムノートに飯守翁は書く。「音楽というのは、生きているもの―――どこかに決定版というものがあるのではなく、演奏者も聴き手もそれぞれが成長して変化することがすべて含まれていく演奏が自然だと思っています」と。
 またひとつ、ずっしりと手ごたえのある“生きた音楽”を聴くことができた。