2021/2/11 東響 ロッシーニとメンデルスゾーン2021年02月12日 11:11



東京交響楽団 名曲全集第164回

日時:2021年2月11日(木) 14:00
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:なし
演目:ロッシーニ 歌劇「泥棒かささぎ」序曲
          歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲
          歌劇「チェネレントラ」序曲
          歌劇「セミラーミデ」序曲
   メンデルスゾーン 交響曲 第4番「イタリア」

 「イタリアの神髄」と銘打って、ロッシーニの有名序曲集とメンデルスゾーンの交響曲を組み合わせたプログラム。

 ロッシーニのオペラは、一度も観たり聴いたりしたことがない、放送でもDVDでも。
 オペラなるものは生で経験しないと良さは分からない。その経験値が圧倒的に低いから、ずっと限られた作曲家の、限られた演目のまま過ごして来た。
 作曲家でいえばモーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニくらい。演目もモーツァルトは別として、それ以外の作家は2つか3つ程度。ビゼーやヴェルディの知識さえ乏しいのだから、ロッシーニまで手が届くわけない。
 でも、ロッシーニの序曲集は、気分転換にいいのでときどき聴く。LPの時代はセラフィン×ローマ歌劇場管弦楽団が愛聴盤だった。CDになってからは珍しい曲も収録してあるネビル・マリーナの序曲全集3枚組をたまに取り出して聴いてきた。
 その序曲も意外と生演奏の機会がない。最近ではアマオケの「ウイリアムテル」、3年ほど前には、ノット×東響の「絹のはしご」と「セヴィリアの理髪師」を聴いた。「絹のはしご」は同じロッシーニの「ファゴット協奏曲」の前に置き、メインプログラムのシューベルト「6番」のあとに「セヴィリアの理髪師」をアンコールで演奏した。なにせ、ノット×東響だからキレ味抜群で大盛況、気分ウキウキで帰って来たことを思い出す。
 そういえば「イタリア」も聴く機会が少ない。確たる根拠があるわけではないが、メンデルスゾーンの交響曲自体、演奏頻度が低いような気がする。近年のオケ・レパートリーのメインはブルックナー、マーラー、ショスタコヴィッチが御三家。モーツァルトやベートーヴェンは別格としても、つつましやかなメンデルスゾーンはちょっと置いてきぼりにされているよう。プログラムに登場しても敬遠することが多いかも知れない。LPを集めはじめたころは、メンコンと彼のシンフォニー3曲を早々に入手していたほどなのに。

 今回、ジャンルイジ・ジェルメッティの本場物が聴けると、楽しみにしていたが来日中止。ところが東響は、代役を立てず指揮者なしで公演を決行するという。これはこれで興味津々。ロッシーニ・クレッシェンドやアッチェレランドを指揮者なしでどう演奏するのか。音盤、実演を問わず、久しぶりのメンデルスゾーンがどう聴こえるのか。東響の鉄壁のアンサンブル能力に、期待半分、不安半分。はて、結果は。

 衝撃の演奏会だった。こんなことになるなんて想像もしなかった。
 編成は12型の変形で、当然全体では50人以上。それが合わせようと守りに籠るのではなく、強烈に攻めきった。強弱、緩急、揺らぎ、タメを伴いながら、攻めているにも拘わらず驚異的な精度で揃えてくる。音楽を楽しんで演じたいという気持ち、音楽を聴いてもらいたいという思い、まで伝わってくる。
 プロの技術の凄み、音楽家魂の凄まじさを観せてもらった、いや、聴かせてもらった。

 オケのメンバーが観客の拍手のなか入場し、立ったままコンマスの水谷さんを迎えて、正面に向かって一礼。
 場内の照明が落ちると同時に、A音なしに突然「泥棒かささぎ」の小太鼓がはじまった。どういうわけか、もうこれで涙腺が緩む。フルートとピッコロの音色、ロッシーニ・クレッシェンドで興奮の極み。終了後盛大な拍手、ここで調音。「セビリアの理髪師」のオーボエの美しさもあっという間。そういえばロッシーニの序曲のなかでは「泥棒かささぎ」が一番好きで、次が「セビリアの理髪師」だった。「チェネレントラ」ではクラリネットの節回しに聴き惚れたまま、さらに短く感じ、音盤の「セミラーミデ」は団子状態に聴こえることもあったけど、生で聴くホルンの重奏と、そのあとファゴットなどの木管楽器が絡み、弦に引き継がれて行くところなど最高ではないか、と思っているうちに、4曲の序曲集が終わる。茫然自失、もうマスクの中が涙と鼻水で収拾がつかなくなってしまった。ロッシーニってこんなに泣ける曲だったか?
 休憩後のプログラムの後半は「イタリア」。少し冷静になったかも知れない。一楽章の木管の序奏からヴァイオリンのピチピチした主題、コントラバスとチェロも素早く細かく動き回る。テンポが極端に伸縮し陽光が差してくる。二楽章の物憂げな木管の旋律、弦のきざみ、翳りと荘重さを一緒に感じる。三楽章の穏やかな曲調にあってのホルンの和音、ここでもホルンの大野さんたちの見事な音。四楽章の飛び跳ねるような舞曲、徐々に熱気をはらみコーダへなだれ込む、再びテンションが高まる。
 フルートの相澤さん、ピッコロの濱崎さん、オーボエの荒さん、最上さん、クラリネットの吉野さん、ファゴットの福井さん、万全の木管の布陣。東響はそんなに大きな所帯でもないのに、この日は新国の「フィガロの結婚」と二つに分けて出演、信じられない。

 東響はどんな指揮者に対しても反応が俊敏で素直。だからこそ指揮者の良し悪しを浮かび上がらせてくれる。統治される能力が優れたオケだからノット、スダーンをはじめとする指揮者の厳しい要求に応え、数々の名演を披露してくれた。
 しかし、ただの優等生ではなかった。従順で一方的に支配だけされていたわけではない、と知った。指揮者の軛から解かれ、“統治される”という日常をかなぐり捨てたとき、弾け、自在に、それでいてお互いを聴き合い、自由に伸び伸びと自分たちの音楽を創り出した。
 音楽史的にいえば、マーラーやニキッシュなど本格的な指揮者が現れるのは、20世紀に入ってから。たかだか100年である。もちろん、それ以前から指揮者付きのアンサンブルはあったにせよ、歴史のなかでは遥かに長い間、指揮者なしの合奏や合唱を楽しんできた。その原初のエネルギーを東響は引き寄せた。

 オケへのスタンディングオベーション、アシスタントコンマスの廣岡さんがコンマスの水谷さんを称え、一層盛大な拍手。カーテンコールでオケ全員が舞台に再登場し、観客と手を振りあうという一場面も。
 ウーハンコロナは憎んでも憎み切れないし、腹立つこと限りないが、その結果生まれたこの演奏会と音楽が、それを打ち砕くエネルギーの象徴としてここに立ち現れたように思えた。

 一生忘れられない演奏会となった、昨夜は「序曲」と「イタリア」がごっちゃごちゃになって頭のなかで鳴り続け一睡もできず。何年かに一度こういったとんでもない演奏会に出会うから、コンサート通いがやめられない。
 この演奏会にあたっての東響事務局の決断と、それを受け入れ、こんな大熱演をしてくれたオーケストラ・メンバーの心意気に、心の底から感謝をしたい。