2025/4/20 佐渡裕×新日フィル バーンスタイン「カディッシュ」 ― 2025年04月20日 22:13
新日本フィルハーモニー交響楽団
#662〈サントリーホール・シリーズ〉
日時:2025年4月20日(日) 14:00開演
会場:サントリーホール
指揮:佐渡 裕
共演:チェロ/櫃本 瑠音
朗読/大竹 しのぶ
ソプラノ/高野 百合絵
合唱/晋友会合唱団、東京少年少女合唱隊
演目:ベートーヴェン/序曲「レオノーレ第3番」ハ長調
バーンスタイン/「ミサ」から
3つのメディテーション
バーンスタイン/交響曲第3番 「カディッシュ」
新日フィルの音楽監督として3期目を迎えた佐渡裕のシーズン開幕プログラム。師匠のレナード・バーンスタインの作品を中心に据えた。
メインの「カディッシュ」は、オーケストラに朗読、ソプラノ、混声合唱、児童合唱が加わる大作。朗読は大竹しのぶ、ソプラノは高野百合絵。合唱はP席を使用せず、混声合唱100人、児童合唱30人ほどがオーケストラの背後に並んだ。サントリーホールの舞台はR.シュトラウスの演奏会形式の歌劇を上演するくらいだから結構広い。
「カディッシュ」とはプログラムノートによると「聖なるもの」を意味するという。ユダヤ教の祈りの歌。神との対峙、信仰のゆらぎ、信仰の回復をテーマに、さまざまな様式の音楽が混在する。第1楽章が「祈り」、第2楽章が「神の試練」、ソプラノ独唱による子守歌が入る、第3楽章が「スケルツォとフィナーレ」という構成。神に対する盲目的な信仰心や神そのものに対する攻撃の中で、もう一度神との関係を作り直そうとする物語。
佐渡がバーンスタインに弟子入りしたい、と思ったきっかけがこの曲だという。細かな指示を含め迷いのない指揮ぶり。演奏会でも繰り返し取り上げているようだ。コンマス崔文洙とアシスト伝田正秀がリードした新日フィルも歯切れのよい鮮やかな演奏だった。高野百合絵は美声、大竹の語りは日本語、言葉の量が多い演劇寄りの作品だから適役。字幕サービスは有難い配慮だった。
「カディッシュ」は交響曲において言葉と音楽とを融合させようとした挑戦的な20世紀音楽だが、交響曲としてはそれほど過激でも斬新でもない。革新という意味では音響を含めてマーラーやショスタコーヴィチのほうがよほど衝撃的で破壊力がある。それと、これは楽譜のせいなのか演奏のせいなのか分からないが、弦5部の縁取りが弱く不満が残った。スタイリッシュでマイルドな現代音楽という印象だった。
休憩前の前半1曲目は「レオノーレ第3番」。プレトークで佐渡は思い出の作品だと語った。かって「広島平和コンサート」でバーンスタインが「カディッシュ」と組み合わせ演奏したという。「レオノーレ第3番」は客席を静めるための序曲としては重すぎて、歌劇「フィデリオ」の最終稿では別の序曲に差し替えられた。何度聴いても序曲というよりは濃密な交響詩のようで、ベートーヴェンの全序曲のなかの最高傑作だと思う。
前半2曲目は、バーンスタインの「ミサ」から3つのメディテーション。瞑想となっているがチェロ協奏曲のような作り。ソロはパリ・オペラ座のアカデミーで学んだ櫃本瑠音。オーケストラからは管楽器が抜け、鍵盤楽器と打楽器が加わった。民族的なリズムが横溢し自然と身体が反応する曲だった。
2025/4/12 高関健×シティフィル ショスタコーヴィチの最初と最後の交響曲 ― 2025年04月12日 21:56
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
第81回ティアラこうとう定期演奏会
日時:2025年4月12日(土) 15:00開演
会場:ティアラこうとう 大ホール
指揮:高関 健
演目:ショスタコーヴィチ/交響曲第1番ヘ短調 作品10
ショスタコーヴィチ/交響曲第15番イ長調 作品141
ショスタコーヴィチの学生時代に書いた最初の交響曲と、それからほぼ半世紀後の60歳半ばに作曲した最後の交響曲とを並べたコンサート。ありそうでなさそうな、なかなかに珍しいプログラム。
両曲とも聴く機会はそれほど多くなく、「第1番」は直近では10年以上前のスクロヴァチェフスキ×読響だった思う。その後、大野和士×都響のチケットを取っていたが、コロナ禍の緊急事態宣言のせいで公演中止となってしまった。「第15番」はやはり10年ほど前にノット×東響と井上道義×新日フィルを続けて聴いた。井上と新日フィルの公演は、日比谷公会堂がリニューアルする前のファイナルイベントとして企画されたもので「第9番」と一緒に演奏された。
「第1番」は、レニングラード音楽院の卒業制作で19歳のときの作品、若き天才のお出ましだ。第1楽章はいたずらっ子が駆けずり回っているようで、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を彷彿とさせる。第2楽章はピアノが大活躍するスケルツォ、ピアノ協奏曲といってもいいくらい。ここはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」がお手本だろう。第3楽章は緩徐楽章、弦楽器の半音階進行が目立ち、悲しげで不安に満ちている。「トリスタンとイゾルデ」を思わせる旋律も聴こえる。スネアドラムがクレッシェンドし切れ目なく最終楽章へ。序奏からショスタコ得意のアレグロに突入する。クライマックスにおけるテンポの変化は目まぐるしく、ジェットコースターに乗っているかのよう。ティンパニの扱い方も斬新だ。古典的な4楽章形式だが、モダニストとしてのショスタコーヴィチの面目躍如。毒気は少ないものの、おふざけ、誇張、皮肉、揶揄などなど、後年のショスタコーヴィチ作品の萌芽がすでにある。
高関はやや遅めの歩み、緩急もそれほど極端ではない。一音とも揺るがせにしない几帳面な音づくりで、才気煥発な作品というよりは、完成された一人前の交響曲という感じ。ちょっと分別がありすぎて若書きの奔放さや軽みが不足していたかも知れない。シティフィルは新しいメンバーもちらほら。個々の技量はもちろん、オケとしての充実度には目を見張るものがある。今日のコンマスは荒井英治だった。
ショスタコーヴィチの交響曲は、この後、単一楽章の宣伝音楽的なオラトリオ風交響曲が2曲続き、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」をきっかけとした“荒唐無稽”の批判のなか、挑戦するかのようにグロテスクで破天荒な「第4番」をものにした(ただし当時は封印を余儀なくされ初演は雪解け後)、「第5番」から「第10番」までは内容はともかく形式的には独墺の器楽交響曲に倣う。「第11番」と「第12番」は革命の物語に従った標題交響曲であり、「第13番」と「第14番」は声楽と交響曲との融合である。そして、最後の「第15番」において伝統の器楽交響曲へ回帰する。
「第15番」は1971年の作。古典的な4楽章構成の交響曲だが、コラージュや他作品からの引用、リズムクラスター、十二音主題など前衛的で実験的な試みがたっぷり詰まっている。楽器のソロを活かした“管弦楽のための協奏曲”としての面白さにも事欠かない。高関はここでも遅めのテンポで、錯綜した情報を解きほぐすがごとく丁寧に処理していく。「第1番」から数えて半世紀の毒をくぐり抜けてきた「第15番」である。高関の生真面目さが目新しい側面のみに惑わされず重みのある交響曲として結実した。ショスタコーヴィチの屈折した心情が一枚一枚はがれていくような様をじっくりと楽しませてもらった。
第1楽章はまさに合奏協奏曲、多久和怜子のフルートをはじめ各楽器のソロとオケとが縦横無尽に展開し、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲からの引用が陽気な気分を盛り上げる。しかし、陽気なのはここまで。第2楽章に入ると短調の金管コラールからチェロのモノローグ、トロンボーンの長大なソロなど、葬送行進曲風の沈鬱なアダージョになる。シティフィルの金管陣は女性主体ながらトランペットの松木亜希やホルンの谷あかね、トロンボーンはゲストかも知れないが、それにしても強力な陣容である。ファゴットの吹奏をきっかけとしてアタッカで第3楽章へ。山口真由が吹くクラリネットの主題は十二音列のようだ。トリオの後半には「第4番」2楽章のコーダと同様、打楽器アンサンブルが活躍し、ウッドブロックが不気味なリズムを刻む。終楽章はワーグナー「リング」のジークフリートの葬送行進曲の調べが印象的。中間部は長い長いパッサカリア。その後、オケの強奏を経て静謐なコーダへ。「第8番」の終結部のように弦楽器が優しく懐かしい旋律を奏でるが、金管楽器が何度か邪魔をし、再び7人の打楽器アンサンブルがチャカポコチャカポコと時を刻む。最後はチェレスタが鳴って全曲をしめくくる。ここは真に背筋が凍るほどの音楽だった。
ショスタコーヴィチが「交響曲第1番」から「交響曲第15番」までを書き継いだ50年は、ひとつ間違えば音楽家が抹殺されることもありえた危うい時代だった。観念ではない実体としての恐怖が支配していた。彼は焼けた鉄板のうえを飛び跳ねるようにして歌い続けた。その奇妙な歌は自己陶酔などでは毛頭なく、狂気をはらみ、嘲笑い、韜晦し、本人さえ虚実の見分けがつかないものになっていたのかも知れない。ということは、そこには無限の解釈が生ずることになり、この先の人々はますますショスタコなる歌を巡って、あるいは苦悩し、あるいは歓喜しながら、歴史を反芻して行くことになるのだろう。
2025/4/6 ノット×東響 ブルックナー「交響曲第8番」 ― 2025年04月06日 21:26
東京交響楽団 名曲全集 第206回
日時:2025年4月6日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
演目:ブルックナー/交響曲第8番 ハ短調WAB108
新年度最初の東響名曲全集、昨日の東京定期と同一のプログラム。ノットは監督としてのラストイヤー初っ端にブルックナーの大曲をもってきた。ノット×東響は積極的にマーラーとブルックナーを取りあげてきて、マーラーの交響曲は「大地の歌」を含め全曲、ブルックナーもコロナ禍で中止となった「第6番」を除いて「第1番」から「第9番」までを演奏している。
「第8番」は今回が二度目となる。前回の2016年のときは体調不良でチケットを駄目にしている。だから「第8番」だけが聴けていない。前回は一般的なノヴァーク第2稿での演奏だったというが、今回は珍しい初稿版である。ノヴァークの初稿版は10年ほど前にインバル×都響で聴いたことがある。実演はかなりレア、その意味でも期待が大きい。
で結果は、期待を遥かに上回った。新年度早々から途轍もない演奏を聴いた。ノットは確信を持って振り、東響は完璧にノットの要求に応えた。監督とオケとは10年を経て強固な信頼で繋がっているのだろう。弦の豊かな響き、精緻な木管、精度の高い金管、鳴らしすぎないティンパニなど隙のない演奏で充実の90分だった。「第8番」は朝比奈、飯守、井上、マタチッチ、スクロヴァチェフスキ、スダーンなどハース版やノヴァーク第2稿版の過去の名演が記憶に刻まれているが、今日のこの初稿版はそれらと並ぶ格別の演奏となった。
初稿版だからといって粗削りで取り散らかしたようなところは全くなく、素朴ながらしっかりと纏まっていた。第1楽章からニキティンと小林壱成に率いられた弦は雄弁で、荒木、竹山をはじめとする木管のアンサンブルも美しい。ホルンの上間、トランペットの澤田など金管も万全。第1楽章のコーダは主題が消え入るような形で締めくくるのが普通だが、初稿版ではトゥッティで力強く楽章を終える。第2楽章では特にトリオの部分が初稿と2稿とで大きく異なっており鄙びた独特の雰囲気が和ませる。第3楽章は2稿で削除された経過句がそこら中に残っておりクライマックスに至るまでが長大。洗練されていないが何ともいえない味わいがある。ハープは3台用意されここぞという活躍。シンバルも初稿は3連打を2度叩き計6発である。終結部の泣かせどころのホルンとワグナーチューバは読響の松坂さんや伴野さんなどが参加していたようだが、これら客演陣も大殊勲だった。第4楽章になって3管編成となり、ホルン9本が吹き鳴らされる。この終楽章で楽器編成が2稿と同じになるが全体の印象は随分違う。ノットは小細工なしに真向勝負、最後まで説得力を維持したまま大団円に向かう。ものすごい音圧でありながら威圧感はなく、透徹な音ゆえか峻厳であっても温かみのあるブルックナーが屹立した。
ブルックナーはベートーヴェンが「第九」を作曲した年にリンツの近くで生まれた。リンツはモーツァルトの交響曲でも有名。地理的にはウィーンから西へ約100kmちょっと。リンツからさらに西へ100kmほどにザルツブルグがあるから、ザルツブルグとウィーンとの中間である。
ブルックナーは早くから音楽的才能に恵まれていたようで、10歳になるかならないかで、オルガン奏者の父親の代役を務めている。ただ本格的に作曲に手を染めたのは40歳近くになってから。50歳ころに「第4番」を公表して交響曲作家として世間に認められるようになり、ここから70歳過ぎまで書き続け、未完の「第9番」までを残した。
大器晩成といったらよいのか、奥手といったらよいのか。彼のいろいろなエピソードを読むと、仕事に対しても女性に対しても一般的な常識というものからズレたおかしな人だったようである。
しかし、いつも思うのだが独墺で進化し続けた交響曲は、ブルックナーによって頂点を極めたと。このあとも交響曲はシベリウス、マーラー、ショスタコーヴィチと書き続けられるけど、シベリウスは交響曲における論理性を追及しながら、最後の「第7番」は単一楽章に収斂してしまう。マーラーは「交響曲は世界のように全てを包含しなければならない」と語って、あらゆるものを交響曲のなかに放り込んでしまった。ショスタコーヴィチとなると交響曲はますます何でもありの奇怪な世界となる。いや現実の世界そのものが雑駁で何でもありの奇怪なものになってしまった所為かもしれない。
ブルックナー以降は、交響曲がひたすら解体していく歩みのような気がする。交響曲としての均衡を辛うじて保っているのはブルックナーまでである。そして、ブルックナーの音楽からは、作為のない自然と無垢な感情が並び立つ。そのことが往々にして彼岸を感得したと錯覚することになる。人は、言葉によって世界を理解するが、音楽によって世界を感じる。聴こえてくるのは言葉で表すことのできない究極の何者かである。
「第8番」はブルックナーが完成させることのできた最後の交響曲である。その初稿版は、他者の批判を受け入れ、冗長な部分を刈り込み、全体の統一感を高めた2稿版に比べれば、原初的で素朴な衣装を纏っているものの紛れもない完成形である。これこそが独墺音楽の、ある種行きついた極北といえる作品ではないかと思う。
チケットの振替手続き ― 2025年04月04日 17:47
演奏会の中核は定期会員となっている東響と神奈川フィルだけど、どちらも開催日が土曜か日曜の14時からとなっていて、毎シーズン何度か両楽団の公演が重複する。
定期会員にはチケットの振替サービスがあるものの手続きが結構面倒である。東響は同一開催月の同一プログラムのみ振替可能で、基本、川崎定期と東京定期との交換となる。神奈川フィルは開催月や演目に関係なく振替可能だが、シ-ズン内3回までという制約がある。
昨シーズンの神奈川フィルについては、公演選択制のセレクト会員とし重複を回避したが、4月からの今シーズンはもとの定期会員に戻した。このため今年度は両楽団の3公演が重なり、振替手続きをしなければならない。
東響は川崎定期の演目が魅力的なため、振替はすべて神奈川フィルの公演にした。最初に電話で振替先を予約し、手持ちのチケットと書留用の切手を郵送すると、振替先のチケットを送付してくれる。もちろん座席指定はできず楽団任せである。しかし、希望通りの振替が可能となり、早速、1回目の5月公演の振替先チケットが送られて来た。座席もまずまず良好でほっとした。2回目は12月、3回目は1月の予定となっている。
2025/3/30 ヴァンスカ×東響 ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」とプロコフィエフ「交響曲第5番」 ― 2025年03月30日 21:57
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第99回
日時:2025年3月30日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:オスモ・ヴァンスカ
共演:ピアノ/イノン・バルナタン
演目:ニールセン/序曲「ヘリオス」
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番ハ短調
プロコフィエフ/交響曲第5番変ロ長調
今年度最終の東響川崎定期公演。
指揮のヴァンスカは一昨年都響とのシベリウス後期交響曲集(5~7番)を聴いている。あのときは聴き手の体調が最悪で、残念ながら集中力を欠いたまま、ぼんやりと過ごしてしまった。今日は再挑戦である。
デンマークの作曲家ニールセンの演奏会用序曲「ヘリオス」からスタート。日の出の静かでゆったりした序奏部分、真昼の明るく輝かしい中間部分、日没の穏やかな結尾部分、の3部構成で、日が昇り沈むまでを描写する。
ヴァンスカは落ち着いた足取り。最弱音の低弦のうえを4本のホルンが順番にファンファーレを奏でる。上間さんをトップにしたホルンの柔らかな響きがホールを満たす。太陽が昇るにつれ弦楽器のうねりが盛り上がる。ヴァンスカは音が欲しいパートには身体ごと向き合い、手を掬うようにして音を要求する。トランペットの吹奏をきっかけにテンポを早め真昼へ。最強奏のクライマックスから、曲は時間をかけ徐々に穏やかになる。木管楽器の朴訥なメロディーを経て、ホルンとヴィオラが日が沈む様子を描き、最後は低弦が消え入るように曲を締めくくる。親しみやすい作品で演奏会の幕開けにもふさわしい。
イノン・バルナタンが登場し、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は「第4番」と「第5番」の機会が多く、「第3番」は久しぶり。バルナタンはニューヨークを拠点にし、朋友であるアラン・ギルバートとのレコーディングや共演が目立つようだ。
今日一番の収穫はこのバルナタン。ひとつひとつの音に質量がぎっしり詰まっている。極めて表情が豊かで表現の幅が広い。弱音も強音も音が崩れない。低音から高音までの音域が広く感じる。アメリカにこんな素晴らしいピアニストがいるとは不覚だった。ベートーヴェンが重すぎることなく薄っぺらにもならず、程よい具合にしっかりと鳴った。
第1楽章はドラマティックで男っぽい。単純な動機が反復する。オケとピアノがときに対話を交わし、ときに対立をみせる。協奏曲でのヴァンスカは百戦錬磨だろう。ソリストに寄り添い音を引き出し、オケを煽り抑える絶妙のコントロール。カデンツァは、バルナタンが思う存分の技巧を繰り広げた。第2楽章は深い祈りに包まれた美しいラルゴ。オケとピアノが和解し優しく歌い涙を誘う。第3楽章は、軽快で華やかだけどどこか悲壮感がただよう。ピアノとオケの音が一体となって力強い。
久しぶりの「第3番」とはいえ、これだけの有名曲、過去それなりに聴いてきた。そのなかでも今日のバルナタン+ヴァンスカ×東響はベストワンというべき演奏だった。
独ソ不可侵条約を破棄し第三帝国軍がソ連に侵攻する。祖国愛に目覚めたプロコフィエフは交響曲を書く。その「第5番」交響曲。
ヴァンスカは重厚な音づくり、テンポもかなり遅い。低音楽器が強調される、というかほの暗い音色でもって雄大にじっくりと描いていく。
第1楽章はファゴットとフルートの長閑な主題で開始されるが、主題は次々と転調を重ね、拍子を変えていく。ヴァンスカは各パートに細かく指示を与えつつゆっくりと進む。展開部を経て再現部となってもあまり物語を意識させない。変奏曲のようだと勘違いする。第2楽章は奇怪なスケルツォ、ここでもヴァンスカは急がない。いつもなら機械的な音楽に聴こえることが多いけど、なぜか自然の風景が目に浮かんだ。第3楽章の無機的で冷たいアダージョも、ヴァンスカの手にかかると人肌のぬくもり。終楽章は冒頭牧歌的な主題が登場するが、チューバが縁取る主題は第1楽章の第1主題、ここで全曲が同じ物語であったと思い起こす。楽器が原色で彩られると、打楽器がけたたましく打ち鳴らされ音の洪水となる。圧倒的な興奮が押し寄せて来た。
「第5番」は聴くたびに様々な相貌をみせる。オケの性能に依存する部分も大きいが、ヴァンスカは不思議な魅力を持ったこの作品で真価を発揮した。またヴァンスカを聴いてみたい。再挑戦の甲斐があった。
演奏が終わり、指揮者が拍手に迎えられ何度か舞台に出入りし、舞台から去ったあと、コンマスの田尻順(ニキティンが急病で代役を務めた)が客席に一礼し、オケが解散というとき、フルートの相澤さんに花束が贈られた。
数々の名演を披露した相澤さんはこの演奏会をもって退団する。在学中に入団し在籍35年というから定年ということだろう。客席には多くの人が残り、あたたかい拍手がいつまでも続いていた。
フルートはオケ全体の性格を規定し主導するというが、そのノーブルで気品ある音色は間違いなく東響の象徴であった。この先は母校での後進の指導が中心となるのであろうか。寂しいかぎりであるが、この先の活躍を切に祈りたい。