2025/4/12 高関健×シティフィル ショスタコーヴィチの最初と最後の交響曲2025年04月12日 21:56



東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
   第81回ティアラこうとう定期演奏会

日時:2025年4月12日(土) 15:00開演
会場:ティアラこうとう 大ホール
指揮:高関 健
演目:ショスタコーヴィチ/交響曲第1番ヘ短調 作品10
   ショスタコーヴィチ/交響曲第15番イ長調 作品141


 ショスタコーヴィチの学生時代に書いた最初の交響曲と、それからほぼ半世紀後の60歳半ばに作曲した最後の交響曲とを並べたコンサート。ありそうでなさそうな、なかなかに珍しいプログラム。
 両曲とも聴く機会はそれほど多くなく、「第1番」は直近では10年以上前のスクロヴァチェフスキ×読響だった思う。その後、大野和士×都響のチケットを取っていたが、コロナ禍の緊急事態宣言のせいで公演中止となってしまった。「第15番」はやはり10年ほど前にノット×東響と井上道義×新日フィルを続けて聴いた。井上と新日フィルの公演は、日比谷公会堂がリニューアルする前のファイナルイベントとして企画されたもので「第9番」と一緒に演奏された。

 「第1番」は、レニングラード音楽院の卒業制作で19歳のときの作品、若き天才のお出ましだ。第1楽章はいたずらっ子が駆けずり回っているようで、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を彷彿とさせる。第2楽章はピアノが大活躍するスケルツォ、ピアノ協奏曲といってもいいくらい。ここはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」がお手本だろう。第3楽章は緩徐楽章、弦楽器の半音階進行が目立ち、悲しげで不安に満ちている。「トリスタンとイゾルデ」を思わせる旋律も聴こえる。スネアドラムがクレッシェンドし切れ目なく最終楽章へ。序奏からショスタコ得意のアレグロに突入する。クライマックスにおけるテンポの変化は目まぐるしく、ジェットコースターに乗っているかのよう。ティンパニの扱い方も斬新だ。古典的な4楽章形式だが、モダニストとしてのショスタコーヴィチの面目躍如。毒気は少ないものの、おふざけ、誇張、皮肉、揶揄などなど、後年のショスタコーヴィチ作品の萌芽がすでにある。
 高関はやや遅めの歩み、緩急もそれほど極端ではない。一音とも揺るがせにしない几帳面な音づくりで、才気煥発な作品というよりは、完成された一人前の交響曲という感じ。ちょっと分別がありすぎて若書きの奔放さや軽みが不足していたかも知れない。シティフィルは新しいメンバーもちらほら。個々の技量はもちろん、オケとしての充実度には目を見張るものがある。今日のコンマスは荒井英治だった。

 ショスタコーヴィチの交響曲は、この後、単一楽章の宣伝音楽的なオラトリオ風交響曲が2曲続き、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」をきっかけとした“荒唐無稽”の批判のなか、挑戦するかのようにグロテスクで破天荒な「第4番」をものにした(ただし当時は封印を余儀なくされ初演は雪解け後)、「第5番」から「第10番」までは内容はともかく形式的には独墺の器楽交響曲に倣う。「第11番」と「第12番」は革命の物語に従った標題交響曲であり、「第13番」と「第14番」は声楽と交響曲との融合である。そして、最後の「第15番」において伝統の器楽交響曲へ回帰する。

 「第15番」は1971年の作。古典的な4楽章構成の交響曲だが、コラージュや他作品からの引用、リズムクラスター、十二音主題など前衛的で実験的な試みがたっぷり詰まっている。楽器のソロを活かした“管弦楽のための協奏曲”としての面白さにも事欠かない。高関はここでも遅めのテンポで、錯綜した情報を解きほぐすがごとく丁寧に処理していく。「第1番」から数えて半世紀の毒をくぐり抜けてきた「第15番」である。高関の生真面目さが目新しい側面のみに惑わされず重みのある交響曲として結実した。ショスタコーヴィチの屈折した心情が一枚一枚はがれていくような様をじっくりと楽しませてもらった。
 第1楽章はまさに合奏協奏曲、多久和怜子のフルートをはじめ各楽器のソロとオケとが縦横無尽に展開し、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲からの引用が陽気な気分を盛り上げる。しかし、陽気なのはここまで。第2楽章に入ると短調の金管コラールからチェロのモノローグ、トロンボーンの長大なソロなど、葬送行進曲風の沈鬱なアダージョになる。シティフィルの金管陣は女性主体ながらトランペットの松木亜希やホルンの谷あかね、トロンボーンはゲストかも知れないが、それにしても強力な陣容である。ファゴットの吹奏をきっかけとしてアタッカで第3楽章へ。山口真由が吹くクラリネットの主題は十二音列のようだ。トリオの後半には「第4番」2楽章のコーダと同様、打楽器アンサンブルが活躍し、ウッドブロックが不気味なリズムを刻む。終楽章はワーグナー「リング」のジークフリートの葬送行進曲の調べが印象的。中間部は長い長いパッサカリア。その後、オケの強奏を経て静謐なコーダへ。「第8番」の終結部のように弦楽器が優しく懐かしい旋律を奏でるが、金管楽器が何度か邪魔をし、再び7人の打楽器アンサンブルがチャカポコチャカポコと時を刻む。最後はチェレスタが鳴って全曲をしめくくる。ここは真に背筋が凍るほどの音楽だった。

 ショスタコーヴィチが「交響曲第1番」から「交響曲第15番」までを書き継いだ50年は、ひとつ間違えば音楽家が抹殺されることもありえた危うい時代だった。観念ではない実体としての恐怖が支配していた。彼は焼けた鉄板のうえを飛び跳ねるようにして歌い続けた。その奇妙な歌は自己陶酔などでは毛頭なく、狂気をはらみ、嘲笑い、韜晦し、本人さえ虚実の見分けがつかないものになっていたのかも知れない。ということは、そこには無限の解釈が生ずることになり、この先の人々はますますショスタコなる歌を巡って、あるいは苦悩し、あるいは歓喜しながら、歴史を反芻して行くことになるのだろう。