2024/12/13 ノット×東響 「ばらの騎士」 ― 2024年12月14日 15:20
東京交響楽団 特別演奏会
R.シュトラウス/オペラ「ばらの騎士」
(演奏会形式、全3幕)
日時:2024年12月13日(金) 17:00開演
会場:サントリーホール 大ホール
指揮:ジョナサン・ノット
演出監修:サー・トーマス・アレン
出演:元帥夫人/ミア・パーション
オクタヴィアン/カトリオーナ・モリソン
ゾフィー/エルザ・ブノワ
オックス男爵/アルベルト・ペーゼンドルファー
ファーニナル/マルクス・アイヒェ
マリアンネ/渡邊仁美
ヴァルツァッキ/澤武紀行
アンニーナ/中島郁子
警部・公証人/河野鉄平
元帥夫人家執事・料理屋の主人/髙梨英次郎
テノール歌手/村上公太
動物売り・ファーニナル家執事/下村将太
合唱/二期会合唱団
一昨年の「サロメ」、昨年の「エレクトラ」に続いて、今年は「ばらの騎士」である。これでノット×東響によるR.シュトラウスのコンサートオペラが完結する。
「サロメ」「エレクトラ」の公演はセンセーショナルにして衝撃の出来事だった。「ばらの騎士」となるとモーツァルトやJ.シュトラウスの影がチラチラする。R.シュトラウスによる過去を回顧し引き受けながらの、微妙な均衡によって成り立っている20世紀の音楽をノットと東響がどう描くのか期待は高まる。
オケの規模は「サロメ」「エレクトラ」ほど大きくない。それでも弦は14型、特殊楽器がちらほら、打楽器奏者も8、9人が待機している。舞台前面は以前の2公演よりはちょっと余裕があり、上手に小さな丸テーブルと椅子が2脚、下手にソファーが置いてある。P席は空いていて小ぶりの合唱団が何度も出入りした。
第1幕の前奏曲から精妙でありつつ躍動的な音楽が鳴る。注意すると活き活きとした音符の動きのなかに翳りがさして上々の滑り出し。元帥夫人とオクタヴィアンが登場しソファーの上で戯れる。のっけから不倫の現場とは穏やかでない。ミア・パーションは深紅のドレス、カトリオーナ・モリソンは上背があってシンプルな衣装が似合っている。両者の絡み合う声が魅惑的だ。
オックス男爵が現れ、がらりと雰囲気が変わる。アルベルト・ペーゼンドルファーは声といい演技といいオックスのイメージそのもの。その助平なこと、自己顕示欲の強いこと、男の馬鹿さ加減に思わず苦笑する。オックスは「フィガロの結婚」でいえば伯爵、さらにいえばドン・ジョヴァンニと対比できるかも知れないが、貴族の嗜みや気品など更々なくて滑稽で粗野そのもの、その姿はわれわれに限りなく近い。だから、男の厭らしさには辟易するものの、あまりにも身近な存在として親しみさえ覚えてしまう。レポレッロの“カタログの歌”のような台詞を自ら喚き、散々ドタバタを演じて舞台から下がる。
激しい音楽が転機を迎える。ノットと東響の演奏は優しさを増していく。元帥夫人は時の移ろいと老いゆく自分に溜息し、オクタヴィアンにも別れる定めだと説く。「夜中に起きて、すべての時計を止めるの…」と歌いだすと、もう涙を止めようがない。「もしよければプラーター公園に来て、馬車の隣で馬に乗るといいわ…」と、一緒には馬車に乗らないことで別れを暗示する歌となって、観客はついに泣き崩れる。
ミア・パーションはここ十数年来、「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルディリージ、「フィガロの結婚」の伯爵夫人ロジーナ、そしてこの元帥夫人マリー・テレーズと聴いて来た。たしかに御歳を召されたが、容姿、声の美しさは全く衰えない。いま望みうる最上の元帥夫人に出会っているのだろう。
第2幕はファーニナル家の広間。オクタヴィアンが「ばらの騎士」としてファーニナル家に到着する音楽の華やかで煌びやかなこと。
ゾフィーのエルザ・ブノワは失礼ながら写真で見るよりずっと可憐で可愛い。修道院から連れ戻された少女そのもの。当主ファーニナルのマルクス・アイヒェはゾフィーの父親として若々しすぎる感じはするが、声はよく伸びてなかなかの好感度。
野卑なオックス男爵が舞台に上がるとゾフィーやオクタヴィアンとひと悶着、オクタヴィアンと刃傷沙汰となり怪我をして大騒ぎとなる。てんやわんやの末、オックス男爵はワインで憂さを晴らし、逢い引きの手紙をもらい、上機嫌となって「俺なしでは、毎日が君にとって不安。俺となら、どんな夜も君には長すぎない」と独白が始まり、彼の一人舞台となる。有名なワルツが会場に響き渡るころには目頭がまた熱くなる。
ノットと東響は、「サロメ」の“七つのヴェールの踊り”での完全無欠な舞踏曲と同様、これ以上ない“オックスのワルツ”を奏でた。第2幕を終えたあとの会場は熱狂的となり、ノットとペーゼンドルファーが呼び返されていた。
第3幕の冒頭、居酒屋を「お化け屋敷」に改造する場面での音楽のそれらしさはまさにR.シュトラウスの練達の技、ノットの指揮のもと東響はオケの表現力の幅広さをまざまざと見せつけてくれた。
女装したオクタヴィアンと彼(彼女?)を口説くオックス男爵、そこに亡霊や警部たちが入り乱れ、ドタバタ劇が始まる。呼ばれてやってきたファーニナルとゾフィーは男爵の醜態に怒り、婚約は破談だとわめき散らす。元帥夫人が登場し、オックスに「何も言わずに立ち去るよう」命じ、男爵はすべてを諦めることになる。この場面でのミア・パーションは緑のドレスに着替え凛とした佇まいを崩さない。
ここからのマリー・テレーズとオクタヴィアンとゾフィーとの三重唱は、やはりこの作品の最大の聴きもので、まさに陶酔の世界。オケは繊細極まる伴奏で応える。壊れてゆくものの美しさ、滅びの美ともいうべきか、残酷ではあってもこれが定めだと納得させてくれる終幕だった。
耽美で爛熟の音楽を書いたといわれるR.シュトラウスだが、実生活ではドイツの崩壊とともに歩まざるをえなかった。それは独墺音楽の終焉と軌を一にしていたのだろう。すでに「ばらの騎士」の音楽に、音楽の未来に対する憂いと消滅とを予兆してしまう。
それにしても昨夜の「ばらの騎士」は、サー・トーマス・アレンの水際立った演出もあって、大仰な装置がないだけで何の不満のない本格的な歌劇だった。コンサートオペラの集大成として究極ともいえるべきものであり、10年を経たノットと東響の到達点でもあった。ひとつの金字塔を打ち立てたといっても言い過ぎではない。
明日15日、ミューザ川崎でも同一プログラムが上演される。東京公演と同様、完売のはずである。