2021/12/18 川瀬賢太郎×神奈川フィル ベートーヴェン「第九」2021年12月18日 19:53



神奈川フィルハーモニー管弦楽団 
 フューチャー・コンサート横浜公演

日時:2021年12月18日(土) 14:00 開演
会場:神奈川県民ホール
指揮:川瀬 賢太郎
共演:ソプラノ/小林 良子
   アルト/林 美智子
   テノール/清水 徹太郎
   バリトン/宮本 益光
   合唱/プロ歌手による神奈川フィル第九合唱団
演目:ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調Op.125
   「合唱付き」


 毎年この時期「第九」を聴くわけではないし、「第九」によって1年の演奏会を〆たいという趣味もないが、今年は常任指揮者川瀬としての最後の「第九」ではないか、そして、川瀬の「第九」は聴いたことがない、と思い至って、急遽チケットを取った。
 2014年当時、国内オーケストラ最年少となる29歳で神奈川フィルの常任指揮者に就任した川瀬とは、しばらく縁がなかった。注目したのは3、4年前から。「幻想交響曲」、ロットの「交響曲」、ストコフスキー編曲の「展覧会の絵」、ショスタコーヴィチの「交響曲9番」など、必ずしも相手は神奈川フィルばかりではないものの、感心しながら聴いてきた。

 その川瀬の「第九」。
 まずオケと合唱の編成。弦はなんと10型。チェロとコントラバスは増強して10-8-6-6-5。古典派オーケストラとしてはこの程度でも、「第九」の演奏としては最小の部類だろう。コンマスは石田さん、横に﨑谷さんが座りツートップ。合唱も各パート7名、計28名の少人数。オケと合唱の占める面積は、県民ホールの広い舞台の半分くらい。珍しい光景だ。
 小編成ということもあって筋肉質の引き締まった音、若々しいベートーヴェン。全曲の演奏時間は70分ほど。60分を切るようなベートーヴェンのテンポ指定に従った近年の演奏とも、80分に届こうかという往年の巨匠たちの演奏とも違って、当たり前の速度だが、楽章毎のテンポの振幅は大きかった。第1,2楽章は快速、特に第2楽章は疾風怒濤。一転第3楽章は弱音を活かして極めてゆっくりと歌う。第4楽章は緩急激しく駆け抜けた。
 
 小編成の弦の音量に不満はなかった。ただ、曲が始まってすぐ、篠崎さんのティンパニが固いマレットを使い、激しく打ち込み、これはちょっと行き過ぎかと思ったけど、第1楽章の音の動きに翻弄されているうちに気にならなくなった。
 第2楽章のスピードとリズムは快適で、トリオも大きく減速しない。休止の間合い、終結部のふわっと力を抜いた着地を含め、久しぶりに面白いスケルツォを聴いた。
 いつもそうながら、最近はとくに涙腺が緩んでいるせいか、第3楽章はみっともない状態になってしまった。ホルンの坂東さんが3番に座っていて、一瞬怪訝に思ったが理由はすぐに分かった。第3楽章後半のホルンの音階は3番が吹くのだった。彼女は音色も素晴らしいが、それ以上に思い切りがいい。大胆に攻めていく姿勢が魅力的だ。ここで勝負あった。
 第4楽章は起伏が大きく、音楽に没入して、もう編成のことは失念していた。合唱もプロ歌手だけあって、わずか28人ながらそれぞれのパートの声が塊として飛んでくる。ソリストの4人のバランスも良好で、高揚しつつ気持ちのいい最終楽章だった。

 川瀬は若いにもかかわらず聴かせどころを心得ている。うまく聴衆を乗せていく。県民ホールの2500席はほぼ満席で、あらためて「第九」の人気を思い知ったが、それよりも、演奏後、普通なら何十人のお客さんが拍手もそこそこに出口へ向うのに、今日はオケのメンバーが引けるまで、ほとんどの人が着座したまま。刺激的な音楽のせいにしておこう。

 帰り道、関内駅に向った。横浜公園を横切り、横浜球場に沿って歩いた。12月も下旬にさしかかろうとしている今日、紅葉は半ばといったところ。これでも横浜は暖かい日が続いていたのだろう。
 今年の演奏会は、これですべて終了である。

公孫樹(イチョウ)2021年12月20日 10:26



 片道一車線の、狭いながら車の往来の激しい道に、石畳の参道が直接つながっている。
 その石畳を三、四十メートルも歩かないうちに山門があって、山門をくぐると、もう車の音は気にならなくなる。

 境内はこじんまりとしているが、手入れの行き届いた木々や草花が景色よく植えてある。そのなかにひときわ目立って公孫樹の古木があった。幹回りはおおかた二抱えもある。横には「名木・古木指定」という名札がたっていた。
 裏門から出てみる。墓地が隣接しており、墓地の前の空地には、やはり公孫樹の高木が対で聳えている。境内の公孫樹ほどではなくとも大きく立派である。空地の真ん中の日当たりの良いほうはすでに完全に葉が落ちていて、寺の塀際のもう片方は黄葉が終わり、半分くらい葉が残っていた。

 境内に戻ると、「名木・古木」の公孫樹は、上のほうにまだ緑が見え、完全に黄変しているわけではない。根元にもほとんど黄葉がない。この古木が落葉すれば境内は一面公孫樹の葉で覆いつくされそうである。見上げると、葉と葉の合間に真っ青な寒空がのぞき、どこからか「怠惰な一年だったね」という声が聞こえてきた。

 たしかに、そうではあろうが…
 帰り際、公孫樹の古木に願をかけておいた。来年またここに来たとき、その声が消えているように。

今年の演奏会のまとめ2021年12月28日 09:03



 年間で42公演を聴いた。年52週であるから週1回弱の勘定となる。記録をつけていない過去のことは正確に分からない。中止が頻発した昨年は例外として、多分週2、年100回位の水準が続いていた。
 今年を振り返ると、週1回でも負担を感じるようになってきた。とくに連日公演が重なったときや、夜の演奏会が辛い。来年以降は月2回程度を目処にしたいと考えている。

 さて、まず今年一番の演奏会。
 それはもう、ラザレフ×日フィルのショスタコーヴィチ「交響曲第10番」に尽きる。感動とか感銘とかではなく、嫌悪と恐怖の体験として記憶に残るはず。
 ショスタコの「10番」は、結構好んで気楽に聴いてきたのだが、今後しばらくは「10番」に近寄りたくない。日フィルから発せられた音響は、ロシアの風土で鍛えられたように不気味な重量を感じさせるものだった。以前、ラザレフ×日フィルでショスタコ「11番」を聴いたときも、悲しみの大きさに震撼したけど、それでも美しさはあった。この「10番」は“音楽=美”という通念をやすやすと覆すほどの醜悪さに満ちていた。ただただ圧倒され、演奏中は金縛りにあったように見動きができなかった。
 ショスタコーヴィチの交響曲といえば、高関健で「8番」(シティフィル)、井上道義で「6番」(東響)と「8番」(新日フィル)も聴いた。いずれも充実した演奏。高関は真正面からショスタコに向かい合い、強固で堅牢な音楽を構築した。井上は陰鬱な曲であっても、ショスタコの洒脱な面を見逃すことなく、流れのよい音楽を作った。同じ「8番」がこんなに違う様相を見せるとは驚きだった。
 それにしても、ラザレフのショスタコーヴィチはどう言ったらいいのか。過酷な専制主義国家の現実を経験した者だけが成しえる皮膚感覚で捉えた演奏、といえば少しは正解に近づくことができるのか。怖いもの見(聴き)たさで、これからもラザレフのショスタコに通うことになりそうである。

 もうひとつ記憶に刻まれた演奏会があった。東響のコンマス水谷晃がリードしたロッシーニとメンデルスゾーン。
 指揮者のジャンルイジ・ジェルメッティが来日不能となり、事務局としては窮余の策だったのかも知れない。指揮者なしの演奏会を開催した。しかし、これが図らずも東響の驚異的な合奏能力を見せつけることになった。音楽を作り上げる過程では、メンバーが意見を出し合い、調整するに相当の時間をかけたと想像してみる。出来上がった作品は、活き活きした息遣いと真剣勝負の鋭さが入り混じったスリリングなものだった。いまだに序曲のひとつひとつ、「イタリア」の各楽章の音たちを蘇らせることが出来る。

 東響の演奏はほぼ毎月聴いた。
 音楽監督ノットは、渡航困難のなか何度も来日してくれた。ルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」は鮮烈な音の洪水。モーツァルトの「レクイエム」は、リゲティの「ルクス・エテルナ」と合わさって、ラザレフのショスタコによって傷つけられた神経を癒してくれた。ブルックナーの「4番」も清新で期待通り。ブルックナー公演から半年前のマーラーの「1番」を並べてみると、やはりノットはマーラーよりブルックナーのほうが断然面白い。
 前監督のスダーンも健在、細部までないがしろにしない余裕の「幻想交響曲」を披露した。久ぶりのウルバンスキは、時代に合わせてリメイクしたような「カルミナ・ブラーナ」で楽しませてくれた。

 作曲家ではブルックナーをよく聴いた。
 飯守泰次郎の「4番」(読響)、「7番」(東響)が、いずれも代役でありながら決定版といえるほどの素晴らしさ。こういった武骨で古武士が歩むごときブルックナーは貴重になりつつある。新響との「3番」を体調不良で降板したのは残念だった。
 川瀬賢太郎もブルックナーを初めて振った。しかし、この「4番」は丁寧ではあっても川瀬らしからぬ几帳面さで面白味に乏しかった。ただ、神奈川フィルのホルン隊は絶好調だった。特に首席の坂東さんの安定感が抜群だ。
 読響ホルンの日橋さんは、日フィルで名人芸を披露していたのに、読響に転籍してから精彩を欠いている。東響の上間さんは安心して聴いていられるものの、いささか安全運転なのが贅沢な不満。同じ首席の大野さんのほうに意外性がある。どちらにせよ坂東さんには今後も注目である。―――横道にそれた、元に戻す。
 ブルックナー「9番」をニューシティ管弦楽団が演奏した。指揮者は内藤彰。珍しい4楽章版。でも補筆は必要ない。「9番」は3楽章のまま未完にしておきたい。
 「3番」はヴェンツァーゴ×読響だった。演奏会後の評判をみると「驚異的な名演」だとか「奇跡的名演」「これこそがブルックナー」など、絶賛の声が目立ったのが不思議だ。全くもって同意できない。
 同じ演奏に対しこれだけ評価が異なるのであれば、音楽を語る言葉の信頼性などないに等しい。数学的な規則に音は従うとしても、創造された音楽は感情に作用し、情感を刺激する。情緒は一様でなく、理屈とか論理では解釈できない領域ともいえる。もともと言葉は、音楽に対峙するには無力なのかも知れない。
 この件で発見できたことがある。今までブルックナーの演奏は自由度が低いと考えていた。裏返してみれば自分自身の受容できる範囲が狭いのだ。好悪がはっきりしていて、他人がどうであれ、頑固に受け入れられない演奏がある、ということ。まぁ、これからも自分流の聴き方しか出来ない。そのうえで無力な言葉でもって、ああだこうだと喋々することになるとは思うけど。

 マーラーは今年機会が少なかった。
 沼尻竜典×神奈川フィルの「4番」が頗る良かった。N響メンバーによる室内楽版でも「4番」を聴いた。最終楽章の独唱は、神奈川フィルで歌った中村恵理よりN響と一緒した盛田麻央のほうが好み。盛田さんはウルバンスキの「カルミナ・ブラーナ」でも海外勢の代役を務め健闘していた。
 ほかに、ビンチャー×アンサンブル・アンテルコンタンポランによる「大地の歌」(Ms/藤村実穂子、T/ベンヤミン・ブルンス)の室内楽版もあった。細川俊夫のオペラ「二人静」とともに上演された“東洋-西洋のスパーク”は、この状況下、画期的な企画だった。
 余談ながら、今年聴いた声楽陣のなかでは、V.ウィリアムズの「海の交響曲」(原田慶太楼×東響)で歌ったバリトンの大西宇宙、モーツァルトの「レクイエム」(ノット×東響)におけるソプラノの三宅理恵に感心した。三宅さんは来年、日フィルのマーラー「4番」でソリストを務める。透明で清潔な声だから「4番」の独唱には最高だと思う。指揮がカーチュン・ウォンであっても、これは聴いてみたい。
 
 最後にモーツァルトを少々。
 ノットが指揮した先の「レクイエム」以外では、阪哲朗の「K.136」と「リンツ」が秀逸で心に残る。小菅優の弾き振り「ピアノ協奏曲第23番」は不調だった。前者は神奈川フィルのモーツァルトプラス、後者は東響のモーツァルトマチネというシリーズもののひとつ。両シリーズとも毎年連続券を求めていたが、この3月を区切りに中止した。
 とにかく、演奏会の総数を減らさなければならない。一時は首都圏オーケストラのうち、東響、神奈川フィル、シティフィル、日フィル、読響、都響に加え、紀尾井ホール室内管弦楽団の定期会員となり、さらに日本モーツァルト協会にも登録していた。クラオタのなかには年間150回も200回も演奏会に通い詰める猛者がいて、とても比較にならないが、これには時間とお金と体力がいることも事実。無茶はいつまでも続けられない。そこで、東響と神奈川フィルを除いて整理し、シリーズ連続券の購入も出来る限りやめることにした。結果、今年の演奏会は例年の半数以下に減少したのだった。来年はさらに絞り込むつもり。―――また、横道にそれた、モーツァルトに戻る。
 藤田真央の「ピアノ協奏曲24番」と、オピッツの「ピアノ協奏曲第20番」、モーツァルトが短調で書いたピアノ協奏曲はこの2曲のみ。藤田真央のピアノは儚い。激情の「24番」に新たなスポットライトを当てた。オピッツは実直で手堅い。指揮者のヴェンツァーゴがオケをしきりに動かそうとし、背景が絶えず変化するなかピアノの毅然とした対比が可笑しかった。
 梅雨時の午後の1時間、工藤重典のフルートを中心にして、今売り出し中の若手弦楽器奏者(Vn/辻彩奈、Va/田原綾子、Vc/横坂源)が集い、4曲の「フルート四重奏曲」を奏でた。サントリーホール主催の“チェンバーミュージック・ガーデン”の一コマ、ブルーローズの空間にモーツァルトの室内楽が良く似合っていた。
 晩秋の昼前の1時間足らず、モーツァルトの4大オペラのアリアと二重唱の幾つかを聴いた(S/中江早希、Br/大山大輔、Pf/宇根美沙恵)。泣いて笑った。年頭の神奈川フィルによる「魔笛」抜粋版は、あまり居心地が良くなかったが、わずか3人でつくるア・ラ・カルトは心に沁みた。
 そういえば、しばらくモーツァルトのオペラから遠のいている。来年以降はオーケストラ公演を厳選する分、演奏会形式でもいいからオペラに復帰したいと願っている。